大正前期 ─挿絵画家として出発
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「橘小夢」の記事における「大正前期 ─挿絵画家として出発」の解説
博文館が発行する『淑女画報』大正4年(1915年)12月号掲載のイラストカットが、出版物に掲載された小夢の絵としては最初だと考えられる。翌年からは同じ博文館の『女学世界』にも描き始め、橘朝夢の名で読み物およびその挿絵も手掛けた。初期は当時流行していた竹久夢二の影響が強かったが、次第にその影響を出て、小夢らしい妖艶な退廃美を確立していった。なお、小夢という画号は自身で名付けたものだが由来は判然としていない。遺族たちは、「小さくとも夢二のように」という思いの現れだったと推察している。 大正6年(1917年)平和出版社の『新脚本叢書』の装幀を手掛け、これがきっかけとなり同シリーズの代表作家・岡本綺堂と親交を持ち、『半七捕物帳』や『綺堂脚本十種』の装幀も担当した。更に綺堂を通じて芝居関係者と交流を持ち、同年の中村吉右衛門の個人雑誌『揚幕』に絵を描くなど、芝居関係の仕事を昭和20年代まで続けている。大正7-8年(1818-19年)頃地元の詩人で秋田文学の中心的存在だった帯屋(山内)久太郎の尽力により、小夢を支援する会が発足。熱心な愛好者を得て、ほぼ生涯を通じて日本画の仕事を続ける。一方、この頃から日本画壇と距離を置き始める。
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