大正初期の国体説
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大正初期には、国体の主要問題である統治権の問題について議論が沸騰する。これは、天皇機関説論争が国体に関わる事として論壇で大問題となったからである。 1913年(大正2年)3月、朝鮮総督寺内正毅(後の首相)題字、加藤弘之序文、加藤房蔵著作により『国体擁護 日本憲政本論』が公刊される。同書に曰く、憲法の擁護とか責任内閣とか憲政有終の美とかいうのは当世通俗の流行語であって、それはつまるところ政党の意向によって天皇の大政を左右しようとするものであり、明らかに国体の破壊であり、憲法違反である、と。 同年同月、川面凡児が『国体淵源 日本民族宇宙観』を著す。著者は以前から大日本世界教というものを唱え、日本の神道を基本として在来の宗教を総合統一するという全神教なるものを主張していた。同書によると、我が国体は神代より遺伝する宇宙観に淵源し、天御中主尊の旨を奉じて修身・斉家・治国・平天下を理想とする、という。 同年5月、石川岩吉が『国体要義』を著す。著者は国学院大主事と皇典講究所幹事を兼ね、のち昭和に東宮傅育官、宮内省御用掛、国学院大学理事長兼学長に就任する。同書では、国体という語に様々な用法があることを説き、要は、神代の初め、イザナギ・イザナミ両神が国土を修理固成して三貴子(天照大神・ツクヨミ・スサノオ)を得て、天照大神による天孫降臨・天壌無窮の神勅があって、国体の基礎が定まった、と論じる。 同年11月、筧克彦が『国家の研究』を著す。著者は東京帝国大学法学部教授でありながら、古神道に基づく「神ながらの道」に帰依し、教室でかしわ手を打つなど奇矯な言動で知られるが、天皇機関説論争に関しては穂積八束らの天皇主権説を国体に反する権力主義として批判した。『国家の研究』では以下のように説く(大意)。 皇国は、表現人である神聖な自主者・総攬者(天皇)を戴くことを離れずに成立し存在している一心同体である。この意味をもって君臣の分が定まり、古来動揺することがない。これが皇国の国体である。国体とは建国法により定まっている国家の体裁である。 国体は政体と厳格に区別しなくてはならない。政体とは、建国法より下の憲法などによって定まっている国家の体裁であり、これは社会各般の事情に応じて変遷するものである。今日の立憲制度は憲法により定まっている政体である。政体はますます変化発展する必要があり、国体がますます不動強固になるのは必然である。 皇国が精華である理由は、その国体が健全であるからである。なぜ健全であるかというと、国体は随神(かんながら)道、すなわち古神道の大理想・大信仰に基づくからである。 皇国の国体は、各人の真情に存する和魂(にぎたま)を主義として、荒魂(あらたま)を滅却することにある。皇国の国体は現世の秩序を尊重することを精神とする。皇国の国体はこの博大な和魂と、それが現れた仁忠と離れずに存在する本来の一心同体の発揚を旨とする。本来の一心同体を主体とすることをもって皇国の国柄となす。 同年5月に東郷吉太郎が『御国体及其淵源』を著し、君臣一体、忠愛一本の国体を詳説する。 1914年(大正3年)『東亜之光』8月号にFS氏なる人物が「所謂民本主義は無責任的国体」という文を載せる。
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