大正初期から昭和初期にかけて
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「小林一茶」の記事における「大正初期から昭和初期にかけて」の解説
明治末期以降、自然主義文学が流行する中での「父の終焉日記」、「七番日記」の出版は、一茶を日本における自然主義文学の草分けの地位に押し上げた。自然主義を標榜する文芸評論家であった相馬御風は、大正時代に一茶を煩悩人として評価する論説を発表している。また大正時代から昭和初期にかけて、一茶研究に大きく貢献した人物に荻原井泉水がいる。自由律俳句の俳人であった井泉水は、自らの主張と一茶の句との共通点を見出し、一茶を高く評価して多くの評論を執筆するとともに、一茶研究に努めて多くの作品を紹介した。 一茶の地元、長野県の一茶顕彰、紹介の活動もまた活発であった。信濃教育会は大正末期から昭和初期にかけて、一茶研究の基礎的資料として重んじられた「一茶叢書」を刊行する。大正15年(1926年)は一茶の百回忌に当たり、各地で様々な催し、出版が行われたが、中でも地元長野では善光寺と柏原で盛大な追悼行事が挙行され、記念出版が行われた。 またこの時期、俳句を専門とする文学者の勝峯晋風の活躍も見逃せない。晋風は大正時代から一茶の紹介に努めていたが、昭和2年(1927年)には、「日本俳書大系」シリーズにおいて文化文政期を「一茶時代」と名付け、一茶を芭蕉、蕪村と並称し、「芭蕉一代集」、「蕪村一代集」とともに「一茶一代集」を刊行する。その後、一茶は芭蕉、蕪村と並ぶ存在として広く認知されるようになった。そして津田左右吉が江戸時代の平民文学の中で一茶を高く評価したことも見逃せない。 そしてこの時期、一茶の知名度アップに大きな影響を与えたのが大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)まで使用された第三期国定教科書に、一茶の句が採用されたことであった。大正時代、これまでよりは自由主義的な社会情勢となって、教育現場では児童の個性の尊重が唱えられ、芸術作品が教材に多く取り上げられるようになった。その中で極めて平易で親しみやすい一茶の俳句は教材として格好の材料であった、 この時、教科書に載った一茶の句には 雀の子そこのけそこのけお馬が通る やれ打つな蠅が手をすり足をする やせ蛙負けるな一茶是にあり があった。これらの句の知名度は極めて高くなり、教科書への掲載は一茶の句の大衆化に極めて大きな原動力となった。
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