大正十一年の伝道旅行
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1922年(大正11年)の新年福音宣伝大会で、神田美土代町の青年会館で秋山由五郎と共に説教した。これは、「基督教攻勢運動」と名づけられた。5万枚のチラシと、1万本の三角小旗をと1000円くらいの経費を使って大規模な伝道を展開した。羽後は音楽の指導をした。 5月1日より5日まで、日本全国リバイバル大会の最中に、中田は虫垂炎に苦しんだ。5月30日より、鳥取、米子、松江、神戸、唐津、島原、宮崎天幕集会、鹿児島、福岡、別府、門司などの巡回伝道した。島原から船に乗ったときに、腎臓結石に苦しんだ。 8月2日から、9月9日まで、聖書学院で夏期講習会を開いたが、この期間中に、中田は心嚢炎にかかったが、神癒によって癒された。 9月中旬から朝鮮満州旅行に出かけた。9月14日に下関から出発して、慶南の普州市に滞在して、その後全南光州に行き、大田、京城(ソウル市)に行き、京城の新築の聖書学院で語った。 田中真三郎と共に、朝鮮総督府を訪問して、らい病人の救済についての助言を頂いた。 21日には奉天に行き、滞在中3回の集会をした。そして、撫順で4回の集会をして、朝鮮に戻り、光州で3回の集会をした。光州では、らい病院の患者を慰問した。
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