大正大噴火による埋没と移住
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「有村町」の記事における「大正大噴火による埋没と移住」の解説
1913年(大正2年)9月17日に火山ガスによって有村で母子が死亡した事案があり、これはのちに発生する大正大噴火の前兆現象とみられ、大正大噴火前の最初の桜島における異常現象とされる。翌年の1914年(大正3年)1月9日には有村にあった川原尋常小学校の校長は「有村温泉場の方でも九日の夜から地震を何回も感じた」と記録している。 爆発の前日となる1月11日には有村の海岸でエビが多数死亡しているのが確認され、振動により「列車のレール上を通過するやうな」ものすごい音が聞こえてきたと記録されている。これらの現象から桜島の爆発を心配した村長や小学校長・巡査などは有村郵便局に集合して電信により鹿児島測候所に状況を報告し状況の問い合わせを行っていたが、測候所からは「桜島には異変なし」との回答があるのみであった。爆発直前の12日午前7時には有村にあった有村温泉では温泉が沸騰する前兆が見られた。 1914年(大正3年)1月12日に桜島が大規模な噴火を起こし、その噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)。同時に有村の海岸線では湯が沸きだして、温泉の浴槽には泥水が噴出した。爆発時点で有村の住民は975名(128戸)、脇の住民は450名(60戸)であった。当時の有村には東桜島村の役場が設置されていたほか、郵便局や巡査駐在所、尋常小学校が設置されており、東桜島村の中心地となっていた。 「桜島の大正大噴火」も参照 脇村の住民らは爆発の前日となる11日から避難を開始しており、爆発時点では避難船不足のために30名程度の残存者があったが、先に対岸の垂水村海潟(現在の垂水市海潟)に避難していた脇の青年らの救助船によって救助された。有村は役場所在地であり知識階層と呼ばれる層が多く住んでいたことから、「桜島には異変なし」という鹿児島測候所の判断を信用し避難を最後まで踏みとどまっていた。11日の夕方に避難が始まり、爆発時点での残存者は対岸の大隅半島にある垂水村の海潟青年会の漁船によって救助されたほか、大日本帝国陸軍の御用船である大阪商船の大信丸によって救出された。12日の午後1時から午後2時の間には高温の火砕物による火災が発生し、有村温泉や脇集落は火に包まれ全焼した。 有村にあった東桜島村役場では緊急脱出用の舟を失っており、村長らは村役場に置かれた公金を帆柱に浮かべて脇の海岸から垂水へ向けて泳いで避難しようとしたが、収入役は途中で溺死し、村長らは瀬戸の漁船によって救助された。駐在所に勤務していた巡査や郵便局長、尋常小学校の校長は最後まで島にとどまり、残留者の救護にあたった。 桜島の北東にある鍋山から流れ出した溶岩は有村や脇の集落を埋め尽くし、同年の5月21日には溶岩が有村海岸に到達した。これにより有村及び脇は溶岩に埋没して全滅した。有村では1名が死亡し、脇では4名が死亡した。 被害を受けた有村温泉場 大正溶岩流の先端部で2次爆発が発生している様子(1914年8月撮影) 鹿児島県が発刊した「桜島大正噴火誌」ではこの噴火によって被害を受けた有村について以下のように記している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}午後三時頃より時の進むに従ひ噴火爆発の度は次第に強烈となり温泉に有名なりし有村風景絶佳にて俗謡に、『瀬戸をちょいと出て有村見れば、有村お假屋の景色のよさ』と歌ひし有村も大正三年一月十二日を限りに溶岩下に埋没され桑田空しく荒廃に帰したりとは天の悪戯も亦甚しと云うべし —桜島大正噴火誌 溶岩に埋没した有村集落の川原尋常小学校は再開することなく廃校となった。また、東桜島村役場が有村集落と共に埋没したことにより、同年の司法省告示第15号(「 鹿兒島縣鹿兒島郡東櫻島村戸籍役場火災ノタメ身分登記簿等燒失ニ付キ更ニ屆出及書類送付方」)、同省告示第16号(「 鹿兒島縣鹿兒島郡東櫻島村役場火災ノタメ出入寄留簿燒失ニ付キ出入寄留更ニ屆出方」)によれば村役場に保管されていた身分登記簿、戸籍簿、出入寄留簿などの書類も焼失した。その後村役場は湯之集落(現在の東桜島町)に移転した。また、有村郵便局は翌年の1915年(大正4年)8月15日付で廃止された。集落と共に墓地も埋没したため、集落跡を見渡す高台にある墓地内に「有村一同祖先歴代之総塔」が1916年(大正5年)に建立された。 避難した有村及び脇の住民のうち移住希望者は国有地の無償提供が行われた種子島、肝属郡佐多村(現在の南大隅町)の大中尾、花岡村(現在の鹿屋市)の花里などにそれぞれ移住し、東桜島村の資料によれば上記の国有地(官有指定地)への移住者とその他の移住地(任意移住地)への移住者とを併せて最終的には202戸(脇集落:124戸、有村集落:78戸)が他の地域へ移住した。移住先のうち官有指定地への移住戸数の一覧は以下のとおりである。 官有指定地への移住戸数移住先脇集落有村集落熊毛郡北種子村0 7 肝属郡田代町42 0 肝属郡花岡村17 51 肝属郡佐多村2 0
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