大正大噴火による被害と復興・移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:00 UTC 版)
「東桜島村」の記事における「大正大噴火による被害と復興・移住」の解説
1914年(大正3年)1月12日に桜島が爆発し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)。大噴火時点の東桜島村の人口は約8千人であった。当時の東桜島村の行政施設としては有村に村役場・郵便局・巡査駐在所・尋常高等小学校があり、黒神に巡査が駐在しており、そのほか野尻・湯之・古里・黒神・高免に尋常小学校が設置されていた。 東桜島村長らは前日より確認されていた前兆現象について有村郵便局から鹿児島の測候所に問い合わせを行っていたが、測候所からは桜島は大丈夫である旨の回答があり、青年会と村当局が話し合いを行ったが避難は行わなかった。結果として噴火発生後、村民らは火山灰や軽石が降り注ぐ中避難することとなった。 有村にあった東桜島村役場から避難した村長らは準備していた緊急脱出用の舟を失ったことから村役場に置かれた公金を帆柱に浮かべて脇の海岸から垂水へ向けて泳いで避難しようとしたが、収入役と書記が途中で溺死し、村長らは瀬戸の漁船によって救助された。また、駐在所に勤務していた巡査や郵便局長、尋常小学校の校長は最後まで島にとどまり、残留者の救護にあたった。1月13日には火砕流が桜島東側に流出したことによって、幅360メートル水深75メートルであった瀬戸海峡が埋められ、1月30日にはそれまでの瀬戸海峡は地峡となり大隅半島と陸続きになった。これにより有村・脇・瀬戸の3集落は溶岩に埋没して全滅した。また、桜島の北東にある鍋山から流れ出した溶岩は有村や脇の集落を埋め尽くし、同年の5月21日には溶岩が有村海岸に到達した。東桜島村の大正大噴火による犠牲者は行方不明を含めて25名となった。 「桜島の大正大噴火」も参照 溶岩に埋まる有村海岸。有村には東桜島村の役場が置かれていた 降灰による被害を受ける黒神 多くの火山灰が積もった黒神の宮原小学校 溶岩で埋立てられた瀬戸海峡 東桜島村役場が有村集落と共に埋没したことにより、同年の司法省告示第15号(「 鹿兒島縣鹿兒島郡東櫻島村戸籍役場火災ノタメ身分登記簿等燒失ニ付キ更ニ屆出及書類送付方」)、同省告示第16号(「 鹿兒島縣鹿兒島郡東櫻島村役場火災ノタメ出入寄留簿燒失ニ付キ出入寄留更ニ屆出方」)によれば村役場に保管されていた身分登記簿、戸籍簿、出入寄留簿などの書類も焼失した。その後村役場は湯之集落(現在の東桜島町)に移転した。 東桜島村は復興にあたり、村役場費を国庫からの補助を受け、教育費を郡費・県の無利息貸付に頼った。その他にも耕地復旧工事費も国庫からの補助を受けた。また、移住も行われ国有地の無償提供が行われた指定移住地への移住者とその他への移住する任意移住地への移住者とを合わせて東桜島村では825戸が移住し、指定移住地へは519戸、3,325名が移住した。 大正大噴火から10年後となる1924年(大正13年)1月には東桜島村によって東桜島小学校(現在の鹿児島市立東桜島小学校)の敷地内に「桜島爆発記念碑」と呼ばれる石碑が建立された。これは1914年(大正3年)1月12日に発生した桜島の大正大噴火の教訓を後世に伝えるために建立されたものであり、碑文の内容から「科学不信の碑」として知られている。 詳細は「桜島爆発記念碑」を参照
※この「大正大噴火による被害と復興・移住」の解説は、「東桜島村」の解説の一部です。
「大正大噴火による被害と復興・移住」を含む「東桜島村」の記事については、「東桜島村」の概要を参照ください。
- 大正大噴火による被害と復興・移住のページへのリンク