大正大噴火による埋没
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1913年(大正2年)の夏ごろには桜島の噴火の前兆ともみられる井戸が涸れ始める現象がみられていたほか、翌年の1月11日になると「十一日午前二時頃より地震を感じ,午前九時頃より山頂の岩石崩落の音盛にして,午後四時前後よりは,屋内に居ること能はず」と横山の住民が述べており、横山の東方にあたる山上の岩が絶えず崩れ落ちてその音が大きく響き渡っていた。島民は不安に感じて横山郵便局から鹿児島測候所に判定を依頼したものの、「桜島には異常はない」という回答が返ってくるのみであった。 1914年(大正3年)1月12日に桜島の爆発が発生し、噴煙は高さ約1万メートルに及んだ(大正大噴火)。爆発当時の横山の人口は2,739人、戸数は415戸であった。当時の横山には西桜島村役場、郵便局、巡査駐在所、尋常高等小学校が置かれていた。 「桜島の大正大噴火」も参照 爆発発生直後の12日の午前8時に横山巡査派出所から救助船派遣の要請が行われ、桜島の対岸にあたる鹿児島市や鹿児島警察署は鹿児島湾内に停泊していた船舶を徴発して救護船として横山や小池などの集落に救助に向かい、鹿児島警察署は蒸気船「鶴丸」で袴腰(現在の桜島港付近)に着岸し横山・小池・赤水などの住民を収容した。横山の住民は全員が鹿児島市に避難した。 1月13日には横山の山手側に赤い噴火口が一列に並んだのが確認され、夕方には横山方面へ溶岩流の流出が確認された。1月15日には横山方面に流れた溶岩流は烏島付近の海中に突入し、1月17日に烏島一帯が溶岩で埋没し桜島と接続した。西桜島村最大の集落であった横山は溶岩流に埋め尽くされ、字域内にあった420戸、畑地122町歩が埋没した。 1889年(明治22年)の村制施行時より横山に置かれていた西桜島村役場は溶岩に埋没したことにより、対岸の鹿児島市にある鹿児島郡役所に臨時の村役場を設置した。その後大字西道(現在の桜島西道町)の民家に仮役場が設置され、その後大字藤野(現在の桜島藤野町)に新庁舎を建設し移転した。役場が埋没したことにより、同年の司法省告示「 鹿兒島縣鹿兒島郡西櫻島村戸籍役場備付ノ明治三十一年乃至同四十四年及大正三年分身分登記簿燒失」によれば1898年(明治31年)から1911年(明治44年)及び1914年(大正3年)の身分登記簿が焼失した。桜洲小学校(現在の鹿児島市立桜洲小学校)も埋没したことにより1915年(大正4年)に大字小池(現在の桜島小池町)へ移転した。また、横山郵便局は翌年の1915年(大正4年)8月15日付で廃止された。 住民の一部は桜島から移住し、種子島の北種子村中割(現在の西之表市)に数戸が移住したほか、当時日本の支配下(外地)にあった朝鮮半島の全羅北道(現在の大韓民国)に11名が移住を希望した。
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