戦後 日本山岳会の再出発
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「日本山岳会」の記事における「戦後 日本山岳会の再出発」の解説
設立以来、日本山岳会はクラブライフと機関誌の発行を軸に活動してきた。しかしこうした活動は戦後間もなく見直され、1946年(昭和21年)に日本登山協会と合体し、大日本体育協会(現在の日本体育協会)に加盟している。同じ時期、事務所を神田駿河台の岸体育館にあった大日本体育協会内に移転した。同年には新潟県に越後支部が設立されたが、以後相次いで日本各地に支部が設立されていく。1947年(昭和22年)6月には上高地で取り外されていたウェストンのレリーフを復旧、除幕式が行われた。これは現在まで続くウェストン祭の第1回目である。 1960年(昭和35年)、全日本山岳連盟とともに日本山岳協会(日山協)を設立し、日山協が日本体育協会に加盟した。日本山岳会の事務所はその後も、しばらくの間は移転を重ねた。現在の千代田区四番町に移ったのは1978年(昭和53年)である。1962年(昭和37年)には上高地に山荘「神河内山荘」を開設、1973年(昭和48年)にこれを新築して「山岳研究所」とした。その後老朽化が進んだため、1993年(平成5年)に改築竣工された。 この間、海外の高峰を目指す登山熱は一層高まった。特に、ヒマラヤ登山への志向が高まり、日本山岳会の中にヒマラヤ委員会が設置され、会の事業としてマナスル登山の準備が始まった。1次〈1953年(昭和28年)〉・2次〈1954年(昭和29年)〉の登山隊は登頂に至らず撤退。1956年(昭和31年)、3次隊(隊長槇有恒)がマナスル (8,125m) の初登頂に成功した。1970年(昭和45年)、松方三郎(5代・10代会長)を隊長とする日本山岳会登山隊はエベレストに登頂を果たした。同年には、東海支部の登山隊(隊長伊藤洋平)がマカルー峰に東南稜ルートより登頂。そして1980年(昭和55年)、中国側からエベレスト(チョモランマ)に北東稜からの登頂と北壁の初登攀をなし遂げた(隊長渡辺兵力)。 1981年(昭和56年)から5年間、学生たちの海外登山を奨励するため学生部が中国登山協会から天山山脈ボゴダ峰登山の許可を取得。1985年(昭和60年)に「日本山岳会創立80周年海外登山」を実施し、ボゴダ山群、キレン山群、コンロン山群、また、黄河源流のトレッキングなどを加えて三隊の登山隊が中国に向かった。1984年(昭和59年)にはカンチェンジュンガ登山隊を派遣。南峰 (8,491m)、中央峰 (8,478m)、主峰 (8,598m) の縦走を成し遂げ、また、7,800m地点からハンググライダーを飛ばすなどユニークな試みで大きな話題となった。 1988年(昭和63年)、チョモランマ=サガルマータ(エベレスト8848m)三国友好登山を実施、登山隊を中国とネパールの両側から頂上を目指し、登頂後はそれぞれ反対側に国境を超えて下山するという交差縦走を行い、中国側からネパール側へ山田昇が縦走し、成功させた(ネパールからは登頂できなかった?)(日本隊総隊長今西壽雄=第15代会長)。1992年(平成4年)、日中合同登山隊(日本山岳会、中国登山協会)を結成し、当時、世界最高の未踏峰であったナムチャバルワ (7,782m) の初登頂に成功した。 2001年(平成13年)、英文誌「Japanese Alpine News」を創刊し、会の活動を海外に発信する取り組みを始めた。 2005年、創立100周年を迎え、その記念事業の一つとして『日本山岳会百年史』が刊行された。これは「本編」と「続編・資料編」の2冊から成り、編集作業は10年以上に及んだ。ほかにも、約5000kmを踏査した中央分水嶺踏査、全国4000余りの山を解説した『新日本山岳誌』の刊行などの記念事業がある。2012年(平成24年)には社団法人から公益社団法人に移行した。2014年(平成26年)、山の日が制定された。日本山岳会を中心に山岳5団体(日本山岳協会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳会、日本山岳ガイド協会、日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(当時))、および全国「山の日」協議会加盟諸団体や地方自治体などが制定活動を行った。
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