戦後 - 政治活動を中心に
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「クロード・ロワ」の記事における「戦後 - 政治活動を中心に」の解説
戦後は、アラゴン、エリュアール、ピカソらの共産党員を介して知り合ったピエール・クールタード(フランス語版)、エマニュエル・ダスティエ、ロジェ・ヴァイヤン(フランス語版)、同じくレジスタンスに参加し、パリ6区サン=ブノワ通り(フランス語版)のマルグリット・デュラス宅に集まったロベール・アンテルム、ディオニス・マスコロ(フランス語版)、エドガール・モラン、モーリス・メルロー=ポンティらの知識人らへと交友を広め、戦前に始めた詩作やルポルタージュのほか、小説や評論(主に文学論と芸術論)の執筆にも取りかかり、国外(ロンドン、ウィーン、イタリア、スイス、米国、中国、韓国)で取材する機会も増えた。こうした経験はルポルタージュだけでなく、旅行記や回想録にも記している。とりわけ、戦後に激動期を迎えた米国と中国については、それぞれ『アメリカの鍵』、『中国の鍵』(邦題『毛沢東 ― 新中国の鍵』)を著した。特に中国文化に造詣の深い彼は、蘇軾(蘇東坡)、趙無極(フランス語版)などを紹介する著書も発表している。また、文学論、芸術論ともに古典から現代まで、原始芸術から前衛芸術まで広範に対象としている。これらは主に『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』(現『ロプス(フランス語版)』)に掲載された後にガリマール社から刊行された。 共産党員としても冷戦期の党内の主な論争に参加し、たとえば、ベトナム(フランス領インドシナ)に派遣された水兵アンリ・マルタン(フランス語版)が戦争反対を表明したために懲役5年を言い渡されたことに対して、本土でジャン=マリー・ドムナック、ジャン・コクトー、ジャン=ポール・サルトルらとマルタン釈放の運動を起こし(このアンリ・マルタン事件(フランス語版)はベトナム反戦運動が広がる契機となった)、1952年から56年までは全国作家委員会の運営委員を務めた。1956年10月には、サルトル、ヴェルコール、ヴァイヤン、ジャック・プレヴェールとともにソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧に反対する運動を起こし、『ル・モンド』紙に「口を開かなければならない、そして心も」と題する記事を掲載。このために共産党を除名された。1958年、ド・ゴールが政権に復帰したことは、クロード・ロワには「ファシズムの危機」と思われ、再び共産党に入党しようとしたが、6月16日にハンガリー動乱でソ連軍の侵攻に抵抗した政治家ナジ・イムレが処刑されたのを機に、党との関わりを一切断つことになった。 1955年11月にディオニス・マスコロ、ロベール・アンテルム、ルイ=ルネ・デ・フォレ、エドガール・モランによって結成された知識人による「アルジェリア戦争継続に反対する行動委員会」に参加。1960年にアルジェリア戦争におけるフランス軍による拷問を非難し、政府に良心的兵役拒否を尊重するよう呼びかける「アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言」と題する「121人のマニフェスト(フランス語版)」に署名した。 フランスで五月革命が起こった1968年、クロード・ロワはこの運動には直接参加することはなかった。チェコスロバキアでプラハの春を取材していたからである。このときミラン・クンデラに出会い、反体制派を支持。こうした姿勢から、1971年に『毛沢東の新しい制服』を発表した中国学者のシモン・レリス(フランス語版)とともに、文化大革命という神話の解体に取り組んだ。文化大革命の内実を明らかにしたこうした仕事は、当時はまだ毛沢東主義に大きな希望を見いだしていたフランスの知識人から厳しく非難されることになった。 1980年代に肺がんを患ってからは、政治活動はもとより、公の場から身を引き、執筆、特に詩作に専念した。1997年12月13日、パリにて死去、享年82歳。
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