戦後・文部大臣
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戦後、小磯内閣で閣僚だった責任を問われて同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令者リスト(第四次逮捕者9名中の1人)に名を連ねる。A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に勾留されたが、不起訴となり1947年8月に出所。それでも公職追放となった。1952年(昭和27年)に追放解除となると、翌1953年4月の第3回参院選に吉田自由党公認で島根選挙区から立候補し当選。同年5月に発足した第5次吉田内閣では組閣参謀となった緒方竹虎の強力な推薦により文部大臣に就任した。 文相在任中には教育方針を巡って教員と父母が保守派と進歩派に割れて対立した京都旭丘中学事件では、学校を封鎖した進歩派を「暴力革命」と非難、これを契機に日教組の影響力を抑制することに全力を注ぎ、いわゆる教育二法を成立させた。 1954年吉田内閣総辞職に伴い辞職。
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