戦後・昭和後期とは? わかりやすく解説

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戦後・昭和後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:18 UTC 版)

愛媛県」の記事における「戦後・昭和後期」の解説

1946年昭和21年) - 南海大地震発生し県内26人が死亡1949年昭和24年) - 4つ旧制高等学校等を統合し国立愛媛大学発足1951年昭和26年) - 松山市国際観光文化都市指定1953年昭和28年) - 第8回国民体育大会四国国体開催県内初の民放南海放送開局1957年昭和32年) - NHK松山放送局テレビ放送開始1964年昭和39年) - 東予地方新産業都市指定される1973年昭和48年) - 別子銅山閉山1977年昭和52年) - 四国電力伊方原子力発電所稼動開始1982年昭和57年) - 四国初のFM放送局としてFM愛媛開局1983年昭和58年) - テクノポリス地域指定される1985年昭和60年) - 四国初の高速道路として松山自動車道三島川之江IC - 土居IC開通昭和の合併 1955年昭和30年)を境として、全国的な動きではあったが、市町村合併急速に進み1954年昭和29年2月1日時点で、6市41186、計233市町村であったのが、1958年昭和33年4月1日には、104229となった。 ほとんどの合併1956年昭和31年)度中に成就したその後1963年昭和38年)頃までは五月雨式合併続いた昭和40年代入ってからは、壬生川町三芳町合併東予町誕生翌年東予市昇格)、久谷村松山市への編入宇和海村宇和島市への編入があったのみである。

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戦後~昭和後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:04 UTC 版)

学校法人関西学院」の記事における「戦後~昭和後期」の解説

戦争終結とともに学院側の要請受けて、再び米国・カナダから宣教師たち再来日したが、彼らにはかなりの戸惑いあったようである。それは、学院実権がすでに第5代神崎驥一院長の手握られており、外国人教師たちはその指示の下で教育に当たらねばならなかったからである。つまり、大戦という外因契機しながらも、関西学院がもはや子供ではなく立派な青年達していることを認めざるをえなかったのだ。 戦後歴代院長時代には、学院商学部社会学部理学部矢継ぎ早に新学部を開設し文字どおり総合大学へと成長していく。そして、学園紛争挟んで1975年に第11院長就任したのが久山康院長である。この時代は、一地方大学にすぎなかった関学が、全国的に知名度増していった時期でもある。社会背景的にはバブル経済前夜であり、豪華な新学会館建設など、他大学との設備面での競争行なわれた。しかし一方でレジャー志向学生ターゲット定めた路線は、内部出身者の多い教職員からは学問軽視として反発強かった

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