戦後・昭和後期
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1946年(昭和21年) - 南海大地震が発生し、県内で26人が死亡。 1949年(昭和24年) - 4つの旧制高等学校等を統合し、国立愛媛大学が発足。 1951年(昭和26年) - 松山市が国際観光文化都市に指定。 1953年(昭和28年) - 第8回国民体育大会(四国国体)開催。県内初の民放南海放送が開局。 1957年(昭和32年) - NHK松山放送局がテレビ放送を開始。 1964年(昭和39年) - 東予地方が新産業都市に指定される。 1973年(昭和48年) - 別子銅山閉山。 1977年(昭和52年) - 四国電力伊方原子力発電所稼動開始。 1982年(昭和57年) - 四国初のFM放送局としてFM愛媛が開局。 1983年(昭和58年) - テクノポリス地域に指定される。 1985年(昭和60年) - 四国初の高速道路として松山自動車道の三島川之江IC - 土居ICが開通。 昭和の合併 1955年(昭和30年)を境として、全国的な動きではあったが、市町村合併が急速に進み、1954年(昭和29年)2月1日時点で、6市41町186村、計233市町村であったのが、1958年(昭和33年)4月1日には、10市42町29村となった。 ほとんどの合併は1956年(昭和31年)度中に成就した。その後1963年(昭和38年)頃までは五月雨式に合併が続いた。昭和40年代に入ってからは、壬生川町・三芳町の合併(東予町の誕生、翌年東予市に昇格)、久谷村の松山市への編入、宇和海村の宇和島市への編入があったのみである。
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戦後~昭和後期
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戦争終結とともに、学院側の要請を受けて、再び米国・カナダから宣教師たちが再来日したが、彼らにはかなりの戸惑いがあったようである。それは、学院の実権がすでに第5代神崎驥一院長の手に握られており、外国人教師たちはその指示の下で教育に当たらねばならなかったからである。つまり、大戦という外因を契機にしながらも、関西学院がもはや子供ではなく、立派な青年に達していることを認めざるをえなかったのだ。 戦後の歴代院長の時代には、学院は商学部、社会学部、理学部と矢継ぎ早に新学部を開設し、文字どおりの総合大学へと成長していく。そして、学園紛争を挟んで、1975年に第11代院長に就任したのが久山康院長である。この時代は、一地方大学にすぎなかった関学が、全国的にも知名度を増していった時期でもある。社会背景的にはバブル経済前夜であり、豪華な新学生会館の建設など、他大学との設備面での競争も行なわれた。しかし一方で、レジャー志向の学生にターゲットを定めた路線は、内部出身者の多い教職員からは学問軽視として反発も強かった。
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