戦後時代 (1945 - 1972):再建期
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「フィリピン大気地球物理天文局」の記事における「戦後時代 (1945 - 1972):再建期」の解説
気象局の再建は、監督官 Edilberto Parulan の指導の下で七名の職員で気象局が再設置された1945年7月24日から始まった。1946年には、タイディングス戦争被害法(1946年のフィリピン復興法)により、アメリカ政府からアメリカ国立気象局の調査団が派遣され、フィリピン気象局のニーズの調査を行った。その結果、フィリピン気象局はアメリカから気象関係機器と技術支援を得られ、技術的により進んだ国の気象機関と同様の標準的な気象業務の樹立への道筋が付けられた。更に、気象局は商工省へ移管された。気象局の任務は五部(総観、気候、地球物理、天文、総務)体制で実施された。 1947年、気象局の本局は Marsman ビル (マニラの Port Area の15番埠頭の向かい側)に移転したが、予報センターは昔の Balagbag ターミナル(マニラ国際空港の最初のターミナルの場所)へ移転して、マニラ主要気象事務所(MMMO)となった。気象局の戦後最初の地球物理観測所は1949年にフィリピン大学の後ろの Diliman に設置された。1948年には、地震業務を向上させるため電磁式光記録地震計が設置された。1949年4月5日にフィリピンは気象局を国家気象機関として世界気象機関(WMO)へ加盟した。同年、高層大気の気温、相対湿度、気圧の1日2回の観測がラオアグ、セブ、サンボアンガ観測所で行われた[要出典]。 1950年、テレタイプがMMMOからクラーク空軍基地、アメリカ海軍 Sangley Point 施設、通信局(現在のフィリピン国家通信委員会の前身)と接続された。更に同年、外国や飛行中の航空機、国内の4か所の航空観測所(ラオアグ、レガスピ、セブ、ザンボアンガ)との気象通報の交換が始まった。私設無線施設、およびその後、国家民間防衛管理局の援助もあって、予報と警報の受信・配信の体制が整えられた。1954年には地球物理観測所(現在の天文台)から時報信号の無線伝送(1日7回)が始まった。 1963年には気象レーダーがフィリピンに初めて導入され、気象局の本庁舎の屋上に設置された(が、これは1978年の火災で修理不能となって破壊された)。設立100周年を迎えた1965年には、国中の気象観測所の半数が既にSSB無線機によって互いに連結され、独立した気象通信システムを形成していた。1968年には、アジア極東経済委員会(現在のアジア太平洋経済社会委員会)とWMOにより設置された台風委員会にフィリピンは加盟した。翌年、本庁舎をケソン市ケソン・アベニュー1424番地の Marsman ビルに移転した。同年、5か年の「WMO 教育・研究プロジェクト,マニラ」も始まった。気象局の気象研究所とフィリピン大学の気象学科も参加した同プロジェクトは、国家の気象人材の訓練ニーズを満たすことと、気象学の様々な分野における研究を実施することを目指すものであった。気象研究所は様々なレベルの技術的な実地訓練を提供した一方、気象学科は気象学分野の理学修士につながる大学院レベルの課程を提供した。同プロジェクトの実施に当たっては、IBM 1130の取得が実現し、気象局にもコンピュータ時代が到来した。遠隔計測システムがマリキナ川流域に設置され、気象局による洪水予報の草分けとなった。 1970年に気象衛星による高層大気の光伝送を傍受するため自動画像伝送機が設置されて衛星気象学がフィリピンにやってきた。同年、気象局による戦後初の大規模研究計画が開始された。名付けて「台風研究計画」という。1970年に始まったそれは、科学技術省の資金援助があって可能となった。1971年にはフィリピンの招請に応じて、ECAFE/WMO の合同組織がマニラに再配置され、台風委員会事務局と改称した。同年、連携した五基の気象レーダーが国内各地に設置され、マニラレーダー観測所(1978年以前はまだ稼働していた)と共に、気象局の気象レーダー観測網の道筋をつけた。
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