戦後昭和時代とは? わかりやすく解説

戦後昭和時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:11 UTC 版)

佐藤春夫」の記事における「戦後昭和時代」の解説

1946年昭和21年)から文芸誌方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊助力し翌年から毎年全国各地旅行に出る。1948年昭和23年)から日本芸術院会員水上瀧太郎賞設定される選考委員となる。翌年誕生日を祝う会「春の日の会」第1回日比谷陶々亭で催され芥川賞復活に伴い選考委員となる。慶應義塾大学で「近代日本文学展望」を開講この頃日照雨事件が起こる。1950年昭和25年宮中歌会始列席する。『朝日評論』でエドマンド・ブランデン東西詩について対談する。翌年三田文学』の編集委員となり、下旬から奥入瀬渓谷恐山方面旅行する11月に「新宮市歌」を作詞し制定される1953年昭和28年)に青森県上北郡十和町に「奥入瀬渓谷の賦」の詩碑建ち雑誌『心』の同人となる。翌年檀一雄と共に九州旅行する疎開地の佐久別荘見山居」の新築始める。1956年昭和31年)に芥川賞受賞作品太陽の季節』をめぐって舟橋聖一応酬する翌年千代田区10周年にともない千代田区歌」を作詞し制定千葉県銚子市犬吠岬に「犬吠岬旅情のうた」詩碑建立40年ぶりに鉄町に「田園の憂鬱時代旧居訪ねる1959年昭和34年)に宮中歌会始召人として選任され列席和歌山県那智に「秋刀魚の歌詩碑建立紀勢本線開通先立って試乗し新宮市帰郷新宮市熊野速玉大社社頭に「望郷五月歌」詩碑建立。『小説永井荷風傳』について中村光夫との応酬が始まる。1960年昭和35年文化勲章受章長野県北佐久郡浅間町に「湖畔口吟詩碑建立1961年昭和36年1月新宮市名誉市民となり、5月東宮御所招かれ文学談義した。翌年芥川賞選考委員辞任し9月山口県の「山口県民歌」「山口市歌」を作詞し制定翌年井上靖連れて北海道旅行に出かけ、『北海タイムス夕刊に「北海道吟行」を12連載1964年昭和39年慶應義塾大学で「詩学」を開講し堀口大學と共にミロのヴィーナス展」を見る。5月6日夕方頃に朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組5月20日放送予定分を自宅書斎録音中、「私は幸いにして…」という言葉発した直後心筋梗塞起こしそのまま死去した72歳没。京都知恩院葬られ忌日を「春日忌」と呼ぶ。贈従三位、賜銀杯一組法名凌雲院殿詞誉紀精春日大居士1964年昭和39年)、東京オリンピック開会式に、前年作詞したオリンピック東京大賛歌」が歌われた。北海道十勝国中川郡豊頃町長節湖畔に四行詩建立

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