レパートリーと評価
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「イザベル・ゲラン」の記事における「レパートリーと評価」の解説
ゲランは芸域の広いダンサーで、強靭なテクニックと華やかな存在感をあわせ持っている。クラシック・バレエとコンテンポラリー作品の双方を踊りこなし、クラシック・バレエでは踊り演じる役柄に新鮮な生気を与え、コンテンポラリー作品では明るさと情感の両面を見せた。評論家のジェラール・マノニは1994-1995年シーズンのゲランについて「その溌剌とした、自在なダンスの安定感は去年までは見られなかったものである」と高い評価を与えた。 ゲランの多彩なレパートリーと優れたテクニックはヌレエフとの出会いに多くを負うもので、彼女自身も「私にとって一番輝かしい時代が始まった」と発言していた。当時40代後半に差しかかっていたヌレエフは自ら舞台に立つほかに、若手ダンサーの起用と指導を積極的に手がけ、ウィリアム・フォーサイスのような新進気鋭の振付家をパリ・オペラ座に招いて仕事をさせたり、たくさんの作品をレパートリーに加えたりとさまざまな試みを実践した。ヌレエフはゲランを始めとする若いダンサーたちにたくさんの作品を踊らせた。その中には踊って楽しかったものもあれば、あまり好きになれないものもあったというが、ヌレエフは「いますべてを踊っておけば、将来これを踊るべきか否か判断できるようになる」と諭した。ゲランは後にヌレエフの言葉が正しかったことを認めて「私が舞台に立つのはその振付とともに舞台に立ちたいと思うからなのだということがわかってきました。(中略)踊りたい作品を踊ることで、百パーセント以上のエネルギーを舞台で出しきることが重要なのです」と述べていた。 主な初演作品では、キャロル・アルミタージュ(en:Karole Armitage)の『GV10』(1984年)、ヌレエフの『シンデレラ』(1986年、義理の姉役)、フォーサイスの『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』(1987年)、トワイラ・サープの『ゲームのルール』(1989年)、アンジュラン・プレルジョカージュの『ル・パルク』(1994年)などがある。1988年にパヴロワ賞、1993年にはブノワ賞を受賞した。
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レパートリーと評価
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「エリック・ブルーン」の記事における「レパートリーと評価」の解説
デンマーク出身のダンサーとして初めて世界的な活躍を見せた男性ダンサーであり、彼の後にピーター・マーティンスやペーター・シャウフスなどの優れたダンサーが続いた。彼はしばしば20世紀最高のバレエダンサーと評価される。高度で隙のないクラシック・バレエの超絶技巧に加えて、演劇性と芸術性を保ちつつも自身の個性を強く打ち出していた。 遠くロマンティック・バレエの流れを汲むブルノンヴィル・スタイルの最高の体現者と評価され、彼が踊る『ラ・シルフィード』のジェイムズは理想的なものであった。『ジゼル』のアルブレヒトも評価が高く、彼の人物造形はその完成度において一つの典型となった。 ブルーンは古典バレエだけではなく現代作品にも優れ、同時代の名振付家たちに多大なインスピレーションを与えた。ジョン・クランコは『ダフニスとクロエ』(1962年)を彼のために振り付けた。舞踊技巧だけではなく高いドラマ性が要求される『令嬢ジュリー』(ビルギット・クルベリ振付)や『カルメン』(ローラン・プティ振付)でも彼の演技と踊りは秀でていた。 ブルーンについては、舞踊評論家、共演者やパートナーなどもこぞって称賛している。プティは『カルメン』でドン・ホセを踊ったブルーンについて「最高に美しいドン・ホセでした」と高く評価し、「『カルメン』での彼は、たとえようもなくすばらしい、洗練された俳優でもありました」と語っている。 一方で、ジョージ・バランシンとは微妙な関係にあった。ブルーンは1959年から1960年にかけての冬のシーズンと、1963年から1964年の冬のシーズンの2回、NYCBで舞台に立っていた。ブルーン自身によれば、2回ともきわめて不幸な時期であり、「死んだも同然」で2回目の在籍時には胃に穴が開いたほどであった。彼は「バランシンが自分を破滅させようとしている」とまで思いつめたという。その時期のエピソードとして、バランシンが1回のリハーサルさえないままに、ブルーンに『アポロ』のタイトル・ロールを踊らせることに決め、ブルーンがそれを固辞した話が伝わっている。 ダンサーとしてのキャリアの後期には、キャラクテールとして『ラ・シルフィード』の魔女マッジや『コッペリア』のコッペリウス博士などの役柄を演じた。持ち前の演技力で人物造形に深みを与え、キャラクテールとしても優秀であった。
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レパートリーと評価
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「エレオノーラ・アバニャート」の記事における「レパートリーと評価」の解説
アバニャートは、古典バレエよりもコンテンポラリーを得意とするタイプのダンサーと評価される。美貌と表現力、そして柔軟性に富んだ肢体を活かして、ドラマティックな作品からコンテンポラリーに至るさまざまな舞台で優れた踊りと演技を見せている。 パリ・オペラ座バレエ団は1990年代の半ばから現代的な路線に傾斜し、アバニャートはその流れに乗って注目を集めるようになった。彼女はピナ・バウシュ、ローラン・プティ、ジョン・ノイマイヤーなどの作品を特に好み、「こんなすばらしい振付家に教えてもらえる機会が多くあるオペラ座は、本当にすばらしいカンパニーです」と述べていた。 バウシュの『春の祭典』では生贄役を踊り、「踊るというよりも、素の自分をさらけだすような役」を経験したことでエモーショナルな表現をより強く打ち出すことが可能になったため、古典バレエを踊るときにもその経験を活かすことができるようになった。プティとは少女時代からの長い交流があり、彼の創作した大きな役柄のほとんどすべてを踊っていた。そして、2013年のエトワール任命のときに踊ったのもプティ振付の『カルメン』であった。 ノイマイヤーの作品では『真夏の夜の夢』、『シルヴィア』、『椿姫』などを踊った。アバニャートは『椿姫』を「彼の傑作の一つ」と評し、「この作品の特徴はまず物語がとてもリアルで、人間的だということ。(中略)ダンサーの演技力が大きく試されるバレエです」と述べていた。『椿姫』で彼女のパートナーを務めたバンジャマン・ペッシュは2006年のインタビューで「彼女はマルグリットにもっとも適したダンサーだと思う。(中略)原作から感じ取ったマルグリットのイメージはエレオそのものですからね」と答えている。 その他にウィリアム・フォーサイス、アンジュラン・プレルジョカージュ、イリ・キリアンの作品なども踊っている。2016年2月20日に行われたバンジャマン・ペッシュのアデュー公演では、彼の相手役としてプレルジョカージュの『ル・パルク』を踊った。
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レパートリーと評価
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「ヤンヤン・タン」の記事における「レパートリーと評価」の解説
タンのレパートリーは古典バレエから現代作品まで多岐にわたる。現代作品ではバランシンの他、ジェローム・ロビンズ、フレデリック・アシュトン、ナチョ・ドゥアト、ジョン・ノイマイヤーなどさまざまな振付家の作品を踊っている。とりわけ評価の高いのはタン自身も好んでいるバランシンの諸作品であり、『シンフォニー・イン・C』、『ミューズを率いるアポロ』などは彼女生来のシャープな動きが存分に活かされている。 そして経歴の節で既に述べたとおり、『エスメラルダ』のヴァリアシオンも彼女の代表的なレパートリーである。このヴァリアシオンでは、笑顔を絶やさないままで頭上に高々と掲げたタンバリンをつま先でリズミカルに打ち鳴らす技巧が称賛を受けた。 フランス文学者・舞踊評論家の佐々木涼子は、タンについて「非常にさわやかな、こんなひとがいたのか」という印象を語った。社会学者・舞踊評論家の海野敏は『バレエ・ダンサー201』(2009年)で彼女の魅力をリキテンスタインのポップ・アートになぞらえ「明るくはじけたアピール力がある」と分析している。 タンは2006年のインタビューで『ジゼル』を一番好きなバレエの一つと発言し、「同時にとても難しいバレエでもあります」と語っている。1幕の「狂乱の場」の重要性について「踊るたびに違うものを私は舞台に見出します。(中略)踊るたびにさらに深いものを感じるんです。(後略)」と述べた。舞踊評論家の新藤弘子は彼女の『ジゼル』について「みごとな踊り」と讃え、「透き通るような美」と高く評価した。 2018年のインタビューでは、自身について「自分が表現しようとする美と、耐えなければならない痛みとの間の果てしない闘いのバランスを取ってくるくる回りながら踊り続ける修道僧のようだ」と表現している。タンの経歴とエピソードは、チェルシー・クリントンの『世界にひかりをともした13人の女の子の物語』(原題:She Persisted Around the World、2018年)やエレナ・ファヴィッリ (en) の『世界を舞台に輝く100人の女の子の物語 グッドナイトストーリーフォーレベルガールズ』(原題:Good Night Stories for Rebel Girls (en) 、2021年)に取り上げられている。
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レパートリーと評価
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「ノエラ・ポントワ」の記事における「レパートリーと評価」の解説
ポントワのレパートリーは、ロマンティック・バレエやクラシック・バレエの古典作品から近現代の作品まで多岐にわたっている。豊かな音楽性と足腰の強さに支えられた安定したバランス感覚に代表される秀でた舞踊技巧、そして作品に対する深い解釈と洗練された表現力をもとに、優雅で気品ある舞台を披露して称賛を得た。 彼女は数多くの現代バレエ作品で初演を務めているが、本領を発揮したのは古典作品の方であった。特に『ジゼル』のタイトル・ロールは、「フランス人バレリーナによって踊られたもっとも感動的なジゼル」と高く評価された。娘のミテキは幼いころに母の踊る『ジゼル』を見て、「ママが変になっちゃった」と大ショックを受けたほどだったという。他にも『眠れる森の美女』のオーロラ姫では彼女本来の気品と可憐さが活かされ、『ラ・シルフィード』(ピエール・ラコット版)では繊細な表現力と深い感情の表出が称賛された。 ポントワ自身は、『ジゼル』よりも『白鳥の湖』のオデット=オディール役を好んでいる。彼女の考えでは、『白鳥の湖』の方が「もっと完全な、もっと長い展開を期待できる役」だからという。「しかも表現すべき内容もこちらの方が多い。愛、悪意、絶望…。ジゼルは心理的にこれほど豊かではありません」とインタビューで語っていた。 レパートリーには、ポントワのパブリックなイメージとは一見異なる『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダや『ドン・キホーテ』のキトリも含まれている。特に前者に挑戦しようとしたときは、「不向きだ」と周囲の反対を受けたものの、それを押し切った。この挑戦で彼女はさらにドラマチックな世界に踏み込み、その経験から得たものを以降の舞台に活かすことができた。 ポントワは、純粋なアブストラクト系統のバレエ作品を好んでいない。その理由は、作品の内部に分け入って表現を深めるためには「物語とはいわないまでも、少なくとも本物の感情的動機づけ」が不可欠と考えているためである。「レッスンの時でさえ、私は単なるパの訓練以外のものがないとやっていられません。感情面での背景がなかったら、バレエはただひたすら苦しいばかりですよ」と彼女は述べている。
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レパートリーと評価
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エケは172センチメートルと長身で、美貌に加えて優れた舞踊技巧と洗練された表現力を兼ね備え、フランス・バレエのエレガンスを感じさせるダンサーと評価される。パリ・オペラ座バレエ団にはステファン・ビュリオン、エルヴェ・モロー、フローリアン・マニュネ、オードリック・ベザールなどの長身でパートナーとしても優秀なダンサーが多く、恵まれた環境である。彼らの中でも感受性という点で相性が良いのはエルヴェ・モローだとエケは自己評価している。 2002年の入団当時、オペラ座のダンサーはクラシック・バレエを踊るグループとコンテンポラリーを踊るグループに分かれていた。トップの成績で入団したエケは自然にクラシック・バレエを、踊るグループに配されていた。周囲には「チュチュのクラシック」という印象を与えていたため、2005年の昇進コンクールでは「あえて自分の違う面を見せよう」との思いから自由作品に『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダを選んだ。このときのコンクールでは、審査員の存在を忘れてしまうくらいに踊りの純粋な喜びを感じたという。 エケはコンテンポラリーを踊る機会が少なかったが、ずっとクラシック・バレエを踊ってきたので「コンテンポラリー作品も踊ってみたい」とリクエストを入れた。その理由は、コンテンポラリーに取り組むことでの成長と、コンテンポラリーの新たな動きを得ることによって自らのクラシック・バレエをより深いものにできるとの思いであった。その後はウィリアム・フォーサイスなどの先鋭的な諸作品にも挑戦して、表現の幅を広げている。
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レパートリーと評価
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「カルロッタ・ザンベリ」の記事における「レパートリーと評価」の解説
ザンベリは舞踊技巧、音楽性、表現力に優れ、しかも人間的にも魅力ある人物だった。イヴェット・ショヴィレは彼女について「テクニックには圧倒されるばかりでした。『シルヴィア』ではいつも、アンコールに応えて、あの有名なピチカートを踊って見せてくれたものです(後略)」と回想し、ピエール・ラコットは「イタリア派として完璧な踊り手で、パがとてもスピーディーでした。(中略)気品があり、とても聡明な人でもありました」と讃えている。 ただしザンベリにとって不運だったのは、彼女のために造られたバレエ作品が少ない上に、その出来栄えも芳しくないものが多かったことであった。最初はパリ・オペラ座に残っていた貧弱なバレエのレパートリーから、マウリの持ち役を踊っていた。ようやく彼女のための新作が造られたのは、デビュー後8年を経過した1902年のことであった。ジョセフ・ハンセン(フランス語版)が振り付けたその新作『バッカス』は美術の贅沢さに比べて筋はわかりにくく、しかも振付は凡庸というものであった。1905年のハンセン振付『季節の輪舞』は、称賛されたのがザンベリの演技のみ、1907年の『榛の木の湖』はハンセンが製作中に病に倒れて死去し、後任者によって完成こそしたものの、評価は低かった。 この時期にバレエの新作が少なかったのは、オペラ座支配人のペドロ・ゲラール(彼はもともとバリトン歌手だった)が、財政難への対策として資金をオペラの方に投入していたことが原因の1つであった。さらに1894年の火災によって、オペラとバレエの衣装と装置のほとんどが灰燼に帰した。オペラ座では急遽15の作品の衣装と装置を新調したものの、そのうちバレエは1作品のみであった。 1908年にゲラールはオペラ座支配人の地位を失い、改善の兆しが見え始めた。パリ・オペラ座生え抜きのダンサー兼振付家のレオ・スターツ(フランス語版)がメートル・ド・バレエに就任し、ミラノ出身のバレエダンサー、アイダ・ボニ(フランス語版)の採用などでダンサーの陣容も強化された。同年、ザンベリは初めて『コッペリア』の主役スワニルダを踊る機会を与えられ、さらに『ナムーナ』の再演でもタイトル・ロールを踊った。この『ナムーナ』再演により、ようやくエドゥアール・ラロの曲にも正当な評価が与えられた。1919年にスターツが再振付した『シルヴィア』でザンベリはタイトル・ロールを踊って高い評価を受け、その後10年にわたってこの役を踊り続けた。 カミーユ・サン=サーンスは、ザンベリの踊りに対してその抜きんでたリズム感を称賛している。 私の『ヘンリー八世』の舞台で驚嘆すべき輝きを放っている。スコットランドとアイルランドの民衆歌曲の特色をしっかりとつかんだ踊りだ。ディヴェルティスマンに、すばらしい彩りを添えてくれた。 — 『偉大なるダンサーたち パヴロワ、ニジンスキーからギエム、熊川への系譜』、p.19.
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レパートリーと評価
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「ジュリー・ケント (バレエダンサー)」の記事における「レパートリーと評価」の解説
ケントはABTに30年にわたって在籍し、国際色豊かなスター集団の中にあって生粋のアメリカ人プリマ・バレリーナとして高い人気があった。ケントは身体能力の高さや超絶技巧で観客を驚かせるタイプではなく、正確な舞踊技術に支えられた軽快で端正な踊りと情感に満ちた表現力で作品の世界を広げていくダンサーである。『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』、『ジゼル』などクラシック・バレエやロマンティック・バレエのヒロインを踊って好評を得たが、それだけではなく『ザ・グラン・パ・ド・ドゥ』(クリスティアン・シュプック振付)のようなコミカルな小品を的確に踊りこなし、『アポロ』、『スターズ・アンド・ストライプス』、『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』などのバランシンの諸作品では豊かな音楽性と流麗な動きを見せた。 最初にABTで主役を踊った作品は、アントニー・チューダーの『リラの園』(en:Jardin aux Lilas)であった。ケントがチューダーと出会ったのは、ABTに入団して間もないころのことだった。『火の柱』のリバイバル上演指導にやってきたチューダーとの最後のリハーサルが終了したとき、ケントは「ありがとうございました。あなたと一緒にスタジオにいられて本当に光栄でした」と感謝の言葉を述べた。その言葉を聞いたチューダーは驚いた顔をしながらも「どういたしまして」と答えたという。チューダーはその後すぐに死去し、ケントは翌年になって『リラの園』の主役キャロラインに抜擢された。ケントは当時を回想して「いまになってみれば、それこそまさしくキャロラインのすることだったのだとわかります」と語っていた。 ABTでの主役は、『ジゼル』、『ロミオとジュリエット』、『白鳥の湖』、『マノン』などが続いた。ケントの美質は『ロミオとジュリエット』、『マノン』(ともにケネス・マクミラン振付)や『オネーギン』(ジョン・クランコ振付)などのドラマティックなバレエ作品でも存分に生かされた。これらの作品を踊る上で、ケイやチューダーの他にマルシア・ハイデ(クランコ作品を踊る上での有益な助言を与えた)などとの交流がケントの役作りに好影響を与えた。キャリアの終盤には、ジョン・ノイマイヤーとも仕事をして、彼の『椿姫』をレパートリーに加えて好評を得た。ABTでケントはチューダー、クランコ、マクミランなどを経てノイマイヤーに続く「物語バレエ」作品を次々と踊ってきた。文芸評論家の三浦雅士はケントとの対談で「あなたがまさに物語バレエの主流に位置していることがわかります」と称賛している。
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レパートリーと評価
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「ベルトラン・シャマユ」の記事における「レパートリーと評価」の解説
ロマン派音楽を中心的なレパートリーとするほか、アンリ・デュティユー、ピエール・ブーレーズ、エサ=ペッカ・サロネンといった現代の作曲家の新作の演奏においても存在感を発揮する演奏家である。主要な録音としては以下のものがある。 『亡き王女のためのパヴァーヌ〜ラヴェル:ピアノ・ソロ作品集』(2015年録音) 『サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番、第5番「エジプト風」他』(エマニュエル・クリヴィヌ指揮、フランス国立管弦楽団、2018年録音) 『グッド・ナイト!』(2020年のリサイタル音源) コントロールされたタッチや緻密な(subtle)ダイナミクスの使い方 (Sanderson n.d.) といった技術面や作曲家の魅力と様式の理解 (桐島 2018) が評価されるとともに、例えばラヴェルの演奏については生み出される音楽に硬さは なく(id. 2016)洗練された陰影と繊細な音色といった抑制された(subdued)表現の達人(Sanderson, l.c.)であるとも評される。
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レパートリーと評価
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「タナキル・ルクレア」の記事における「レパートリーと評価」の解説
生涯の節で既に述べたとおり、ルクレアは細身で手足が長く、人目を惹く美貌に加えて優れた舞踊技巧と音楽性に恵まれていた。彼女は「バランシン・バレリーナ」を文字どおり体現した存在で、およそ10年ほどの間に25作以上のバランシン作品のオリジナル・キャストとなった。バランシン作品以外では、フレデリック・アシュトンの『イルミナシオン』(1950年)、ジェローム・ロビンズの『不安の時代』(1950年)、『牧神の午後』(1953年)などで初演者となっている。 バランシンと「ミューズ」たちについて、『バランシン伝』の著者バーナード・テイパーは「創造性という面から見れば、バランシンの人生は新しい妻、あるいは新しい恋人との出会いによって区切られている」と指摘した。。テイパーはパブロ・ピカソを例に挙げて「ときが経てばある若い女性が別の誰かにその座を譲ることになるのも当然の成行きなのかもしれない」と記述した。同書によればバランシンは肉体的な美しさを絶対視し、優れたダンサーを「完璧な肉体を持つオリンピック選手」になぞらえてその美しさに陰りが見え始めるたびに苦悶したという。 鈴木晶は、著書『バレリーナの肖像』(2008年)でテイパーの指摘を「至言である」と評価した。鈴木はさらに、「ミューズ」たちについて論じ「トールチーフまでが旧世代のバレリーナだったことがわかる。(中略)ルクレアとともにバランシンは新しい時代に足を踏み入れ、それがファレルにおいて完成したのである」と結んだ。 ルクレアは現役で踊っていた期間が短かったため、舞台で踊る姿を記録した映像は少ない。それらの中で『フォー・テンペラメント』の初演時リハーサルフィルムでは、白黒の不鮮明な映像ながらもルクレアの美質である素早さや軽快さがよく表れている。この映像を見た舞踊評論家の上野房子は「細部まで明瞭そのもの」と高く評価した。上野はルクレアについて「バランシン・バレリーナのイメージそのもの」と評し、「伝統的なバレエのイメージにとらわれない、啓示に満ちたルクレアがいたからこそバランシンが造形し得た、新たなバレリーナ像であることを確信した」と記述した。
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