プリマ・バレリーナとして
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「伊藤友季子」の記事における「プリマ・バレリーナとして」の解説
同年には橘バレヱ学校も卒業し、牧阿佐美バレヱ団に入団した。これは恩師の牧から声をかけられて決まった話で、入団した年の定期公演『くるみ割り人形』では「雪の女王」役を踊った。翌2004年10月の公演『リーズの結婚』で、主役デビューを果たした。伊藤が入団した当時の牧バレヱ団には草刈民代や上野水香などがトッププリマの座にいたため、彼女自身もこの抜擢にびっくりしたという。自分ではまだまだだと思っていた伊藤は、チャンスを得た以上は精いっぱい頑張ろうとしたが、『リーズの結婚』では頑張りが過ぎたために本番の1週間前に腰を痛めた。この公演には、イギリスでの恩師メール・パークも指導に来ていた。伊藤は本番の舞台を踊りぬいたが、このときは他日のキャストが衣装を着て控えていたほどのぎりぎりの状況であり「本当にみなさんに助けられて踊れた感じでした」と回想していた。 牧バレヱ団では『くるみ割り人形』の金平糖の精、『白鳥の湖』のオデット=オディール、『眠れる森の美女』のオーロラ姫など主役を踊る他に『ドン・キホーテ』や『ア・ビアント』などの作品でソリストとして重要な役柄で出演している。2006年に『白鳥の湖』主演の話が持ち込まれたとき、伊藤自身は「技術的にも内面的にももっと経験を積んでからじゃないと踊れない」と思い、三谷恭三に考え直してほしいと要望を持ち込んだ。この要望に対し、三谷は「それはあなたが決めることじゃない」と怒り「やれると思うから役を与えているのでやってください」と決意を促した。 当時の伊藤は、『白鳥の湖』の見せ場であるフェッテも舞台上で行ったことがなかった上に体力にも自信がなかったため必死だった。これはホワイト・ロッジの方針でトウシューズを11歳まで履かず基本を徹底的に繰り返してようやくピルエットに挑戦する段階で帰国することになったためで、日本に戻ると他の少女たちはピルエットもフェッテもいくらでも回っている感じであった。そのため一時は「小さいころから日本にいたらどうだったんだろうか」、「早くテクニックをもっとやっておくべきだったのか」などと思ったことがあったという。伊藤はイギリスと日本のバレエ教育を比較して「基礎をしっかり養う。次々と新しいことにチャレンジする。このどちらにも利点はあると思います」と言い、「イギリスで得たものが自分の踊りのルーツとなっているので、これでよかったのだと思っています」とも述べていた。 2010年には、文化庁在外研修員としてイギリスに渡り、ロイヤル・バレエ団で10か月にわたって研鑽を積んだ。伊藤自身は自分の理想とするプリマ・バレリーナには程遠いと考えていて、ダンサーとしてステップアップするため、20代のうちに日本国外で学びたいとの思いがあった。日本国外のバレエ団の来日公演も多く、リアルタイムで日本以外のバレエ団の様子を知ることができても、実際に現地で体験することでさらに幅を広げたいとの考えに牧も三谷も賛同して彼女をイギリスに送り出した。研修先にロイヤル・バレエ団を選んだのは、幼い時からの憧れであり、イギリス生活が長かったため言葉に不自由がないというのが大きな理由であった。 伊藤は身体能力の高さや超絶技巧で観客を驚かせるタイプのダンサーではなく、音楽性に優れた踊りと表現力で見せるダンサーである。華奢で可憐な容姿に加えて軽やかで力みのない踊りと表現でクラシック・バレエやロマンティック・バレエ向きのダンサーであるが、ローラン・プティの『デューク・エリントン・バレエ』など現代作品でも優れた舞台を披露している。本人は本来人前に出るのが苦手な性格と分析しているが、バレエの舞台では「不思議と自分じゃなくなって、役に助けられて自信が持ててくる」と発言し、技術を全面に出す作品よりも『ロミオとジュリエット』や『リーズの結婚』のようなストーリー性のあるものが入り込みやすいという。文芸評論家の三浦雅士は伊藤との対談で、彼女自身の魅力について「清楚な華やかさというのはとても貴重な資質だと思いますよ」と称賛している。2007年には、財団法人橘秋子記念財団主催の第3回スワン新人賞を受賞した。
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