フーガのぎほう〔‐のギハフ〕【フーガの技法】
バッハ:フーガの技法
英語表記/番号 | 出版情報 | |
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バッハ:フーガの技法 | Die Kunst der Fuge BWV 1080 | 作曲年: 1742-49年 |
楽章・曲名 | 演奏時間 | 譜例![]() |
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1 | コントラプンクトゥス 1 Contrapunctus 1 BWV1080/1 | No Data | No Image |
2 | コントラプンクトゥス 2 Contrapunctus 2 BWV1080/2 | No Data | No Image |
3 | コントラプンクトゥス 3 Contrapunctus 3 BWV1080/3 | No Data | No Image |
4 | コントラプンクトゥス 4 Contrapunctus 4 BWV1080/4 | No Data | No Image |
5 | コントラプンクトゥス 5 Contrapunctus 5 BWV1080/5 | No Data | No Image |
6 | コントラプンクトゥス 6: フランス様式による4声コントラプンクトゥス 6 Contrapunctus 6 a 4 in Stylo Francese BWV1080/6 | No Data | No Image |
7 | コントラプンクトゥス 7: 拡大と縮小による4声 Contrapunctus 7 a 4 per Augmentationem et Diminutionem BWV1080/7 | No Data | No Image |
8 | コントラプンクトゥス 8: 3声 Contrapunctus 8 a 3 BWV1080/8 | No Data | No Image |
9 | コントラプンクトゥス 9: 12度の転回対位法による4声 Contrapunctus 9 a 4 alla Duodecima BWV1080/9 | No Data | No Image |
10 | コントラプンクトゥス 10: 10度の転回対位法による4声 Contrapunctus 10 a 4 alla Decima BWV1080/10 | No Data | No Image |
11 | コントラプンクトゥス 11 Contrapunctus 11 a 4 BWV1080/11 | No Data | No Image |
12 | コントラプンクトゥス 12: 正立4声 Contrapunctus 12 a 4. a) Forma inversa BWV1080/12.1 | No Data | No Image |
13 | コントラプンクトゥス 12: 倒立4声 Contrapunctus 12 a 4. b) Forma recta BWV1080/12.2 | No Data | No Image |
14 | 鏡像コントラプンクトゥス: 正立3声 Contrapunctus inversus a 3. a) Forma recta BWV1080/13.1 | No Data | No Image |
15 | 鏡像コントラプンクトゥス: 倒立3声 Contrapunctus inversus a 3. b) Forma inversa BWV1080/13.2 | No Data | No Image |
16 | コントラプンクトゥス: 4声 Contrapunctus a 4 BWV1080/10a | No Data | No Image |
17 | 反行形による拡大カノン Canon per Augmentationenm in Contrario Motu BWV1080/14 | No Data | No Image |
18 | 8度のカノン Canon alla Ottava BWV1080/15 | No Data | No Image |
19 | 3度の転回対位法による10度のカノン Canon alla Decima in Contrapunto all Terza BWV1080/16 | No Data | No Image |
20 | 5度の転回対位法による12度のカノン Canon all Duodecima in Contrapunto alla Quinta | No Data | No Image |
21 | 2台チェンバロのための鏡像フーガ: 正立 Fuga inversa a 2 Clavicembali: a) Forma inversa BWV1080/18.1 | No Data | No Image |
22 | 2台チェンバロのための鏡像フーガ: 倒立 Alio modo. Fuga inversa a 2 Clavicembali: b) Forma recta BWV1080/18.2 | No Data | No Image |
23 | 3つの主題によるフーガ Fuga a 3 Soggetti BWV1080/19 | No Data | No Image |
24 | コラール《われら苦しみの極みにあるとき》の旋律による4声フーガ Choral: Wenn wir in Höchsten Nöten sein. Canto fermo in Canto BVW668a | No Data | No Image |
作品解説
《フーガの技法》は、謎めいた未完のフーガやバッハ最晩年の逸話とあいまって、伝説的なオーラを放っている。作曲家の死の直後に出版されてからこれまで絶えず人々の関心を集め、なかば崇拝にも近い賛辞を贈られた。しかし栄光に反して、実際に演奏される機会はそれほど多くない。それは、バッハの意図した楽器や編成が判然としないことに大きな原因があるが、伝説的なオーラが近づきがたいイメージを固めてしまった所為でもある。バッハは確かにかなり抽象的、理念的性質をこの曲集に与えたのではあるが、実際に演奏可能なことが何よりの大前提だった筈だ。そこで、具体的に各曲に迫るためにまず、この作品にあらわれる「技法」とは何か、それらが音楽的にどのように成功しているのかを確かめてみよう。はじめに強調しておくが、ここに含まれる作品は、おそらく全曲とおしての演奏を想定して作られてはいない。《フーガの技法》を単一主題によるフーガ変奏曲のように扱うのは、そもそも聴き手の集中力に鑑みて無理があるように思われる。
作品全体の構成をこちらに示す。また、作品の成立に関わる問題については最後にこちらに簡単に述べるにとどめる。以下、文中で略号「Cp.」はContrapunctusを表す。また、「テーマ」という場合には第1曲の冒頭で提示され、この曲集全体を貫く旋律のことを、「主題」という場合にはフーガの楽式ないし作曲技法上の主要旋律のことを指す。
BWV 1080/ 1-5 / 6-7/ 8 / 9-10, 10a / 11 / 12-13 / 14-17 / 18 / 19 /
BWV668
第1群:基本のテーマによる単純フーガ(Contrapunctus 1-5)
テーマの基本形をそのまま用いたグループ。ただし、付点などリズムのわずかな変更はある。全体に古い様式を志向する。それは、Cに縦線を引いたAlla breveの拍子記号にもよく表れている。(この観点から、Cp.5が出版譜においてCになっているのは、おそらくミスだろうと考えられる。)
Contrapunctus 1はもっともシンプルなフーガで、明確な対位句すら現れず、ほぼ単一主題のまま、きわめて狭い範囲の調のみを通る。声部の独立が保たれ、厳格なモテットのように響く。3声部より少なくなることはない。楽曲の中間にいっさい休止も完全終止も入らないため、厚みと重みを持ったまま進む。更には、最後に全声部が停止する休符と、ややトッカータ風のコーダがついて、全体は古式ゆかしい対位法作品になっている。
Contrapunctus 2では、テーマの後半が付点リズムになる。やはり基本形のみによる単純フーガ。第1番にくらべれば闊達で明るく感じられるが、この付点は決して鋭く演奏すべきものではなく、あくまで拍節や小節線を越えるための推進力を生む装置として大切にしなければならない。また、声部がしばしば増減し、完全終止こそ最後まで現れないが、声部の入りが明確になることでテクスチュアにメリハリが生まれている。
Contrapunctus 3は倒立形、すなわち基本形の音程進行をひっくり返した主題で始まる(音程を上下逆にすることを「転回」と呼ぶ。こうしてつくられるものを転回主題、また反行主題ともいう)。また、固定した対位句がつねに主題に随伴する。(この対位句と主題はどの声部にどちらが現れても、つまり上下関係をかえても音楽が成り立つので、こうした対位法技法を「転回対位法」と呼ぶ。)しかし、この曲が独特の迫力を持つのは何といっても、主題以外の声部に散りばめられた半音階ゆえのことだろう。この半音階性は基本テーマを転回して現れるc音に起因する。ニ短調の曲であれば導音としてcisになる筈のものであり、すでに主題で調が一瞬あいまいになる。対位声部では、半音を連ねた順次進行と和声的な跳躍進行を組み合わせることで、遠近感を演出している。
Contrapunctus 4も倒立形だが、a音、すなわちニ短調のドミナントで始まり、調を明確にまとっている。主題提示部とエピソード部の明確な交代、中間に起こる2度の完全終止(第53小節、第103小節)とそこから生まれる周期性から、全体は図式的、論理的な構成をもつ。また、声部の独立はあまり厳格ではなく、対位句やエピソード部における――いささか冗長な――摸続進行の掛け合いなどでは、ホモフォニックな動きが目立つ。あとから書き足されたことによるのか、比較的あたらしい書法の自由なフーガとなっている。
Contrapunctus 5は、倒立形に正立形が応答する「反行フーガ」である。また、主題提示の半ばで応答が始まる「ストレッタ・フーガ」でもある。このストレッタの距離は徐々に詰まってゆき、最後の提示(第86小節以降)ではついに倒立形と正立形がぴったり同時に現れる。そして、最終小節付近では6声部となって堂々たる終止にいたる。基本テーマによるグループの最後を飾るにふさわしく、古来からのさまざまの技法を詰め込んだ曲である。
第2群:反行ストレッタフーガ(Contrapunctus 6-7)
この組では、新しい様式による大規模な反行ストレッタフーガが登場する。Cp.5 をここに含めないのは、Cp.6のタイトル「フランス様式の」という言葉にも表されるように、古様式(スティレ・アンティーコ)から離れる方向へむかうからである。
Contrapunctus 6 では、付点リズムの主題正立形に縮小された倒立形が応答し、さらに縮小正立形、縮小倒立形が次々提示される。「フランス様式」とは、主題の付点リズム、エピソード部分のタイと32分音符から作られるより鋭い装飾リズムに加え、楽曲の後半に目立つ16分音符が連なったパッセージ、こうした種々の異なるリズムの対比と緊張を指す。
Contrapunctus 7は縮小主題に加え、拡大形が用いられる。が、正立、倒立、拡大、縮小といったさまざまな主題形による提示と転回の可能性はそれほど徹底して試されていない。また、4回登場する主題の拡大形も、コラール編曲の定旋律のような重々しさはない。というのも、声部を減らしたり複数の声部がそろって終止したりして重要な主題の入りを準備するような演出がないからである。全体は常にほぼ4声部を保ち、曲の最後では5声部に増えすらする堅牢な書法であるが、各声部の随所から主題が聞こえ、響きの上でゆるやかなフーガとなっている。
第3群:転回対位法による二重フーガ(Contrapunctus 9-10)
ここからは、各曲ごとまったく新しい主題が基本テーマと組み合わされるようになる。1742年頃にまとめられた自筆の初期稿では、二重フーガ2曲と三重フーガ2曲がカノンを間においてペアで並んでいる。印刷譜がこの論理的な配列を乱し、三重フーガCp.8とCp.11の間に二重フーガCp.9-10を置いたのは、間違いだったのではなかろうか。(敢えて、譜めくりを容易にするような体裁にするためだと指摘する学者もいる。)
Contrapunctus 9は12度(5度)の転回対位法による曲である。ゆるやかに下行と上行を繰り返す冒頭主題が4声部に出揃ったところで基本テーマの拡大形が、さながら定旋律のように現れる。転回対位法とは、この2つの旋律を5度、ないし12度の幅で上下入れ替えても音楽として成り立つような書法のことで、冒頭主題がバッハにしては異様に長いのは、この拡大形のテーマに対応するためである。拡大形テーマの入りはいずれの場合もよく準備されてはっきり聞き取れるようになっており、全体はそのお陰で劇的なダイナミズムに富んでいる。
Contrapunctus 10は10度(3度)の転回対位法による。新主題の提示部に続いて基本テーマの倒立形がストレッタで現れ、すぐに2つの主題が組み合わされる。前半では声部がよく独立を保っているが、中間部以降、2つの声部におなじ主題が同時に入るようになる。このときの対位法は、片方が12度、もう一方は8度の転回対位法である。曲の後半ではこの手法によって佳境が演出されている。
ところで、初版譜第14曲はこのCp.10の初期稿である。基本テーマの提示部から始まり、新主題は登場から基本テーマと組み合わされる。つまり、Cp.10は初期稿第二主題による提示部20余小節を冒頭に書き足したものである。ふたつを見比べてみると、Cp.10では基本テーマの提示部で、急に声部が減って違和感を生じないよう、アルトにストレッタを用いて段階的に音量を減らし、その後ふたたび累加していくよう書き直されている。
第4群:三重フーガ(Contrapunctus 8, 11)
三重フーガのペアが印刷譜で離れて配置されたのは、単純にCp.8が3声、Cp.11が4声だったからかも知れない。だが、そのせいで2つの曲の密接な関連が判りにくくなってしまった。実はこの2曲は、同様の主題を3声と4声にそれぞれ応用する、という試みであり、《フーガの技法》のひとつの頂点をなすグループなのである。
Cp.8の冒頭に提示される新しい主題は、Cp.11の第27小節アルトから現れる主題に、Cp.11の基本テーマ正立形をもとにした冒頭主題はCp.8の第94小節アルトに登場するテーマの変形倒立主題と呼応する。3つ目の主題は同音反復を含む8分音符の旋律で、Cp.8では第39小節のアルトに下行形で、Cp.11では第90小節テノールにまず上行形で(のちに転回して下行形でも)現れる。このように、3つの主題の登場は順序こそ違えど、冒頭、第30小節付近、第90小節付近であり、2つの曲が同じ構造を持っていることが判る。また、3つの主題が同時に現れる瞬間は、どちらの曲でも4分の3ほど進んだ位置(約200小節中の第150小節付近)にあたっている。
この3つの主題自体は、基本テーマの変形によるアーチ型主題、半音階による主題、そして非常に印象的で必ず聞き取ることができる同音反復の主題という、フーガに典型的かつ理想的な要素をすべて備えている。そのため、複雑な組み合わせであっても衒学的にならず、美しい響きを保っている。
第5群:鏡像フーガ(Contrapunctus 12-13)
曲全体をすべて転回しても音楽が成り立つような技法を鏡像対位法と呼ぶ。フーガというよりはカノンに近い。当然ながら、きわめて厳格かつ高度な技術を要する。1740年代の自筆稿では正立形と倒立形が上下に並べられており、まさに鏡に映したような見事な造形をみせている。
Contrapunctus 12は古めかしい2分の3拍子で記譜され、基本テーマに比較的忠実な荘重な主題で始まるが、順次進行による対位句がやがて8分音符主体となってテンポアップし、息つく間もないようなクライマックスのうちに終止する。これほど生き生きしたものが実は鏡像対位法で書かれているとは、驚嘆するばかりである。
Contrapunctus 13はしかし、それにも増して闊達で生命力に溢れている。三連符に運ばれるのは、まさに舞曲のジグであり、鏡像対位法の課すさまざまな制限をまるで感じさせない。
なお、初版には第18曲として2台チェンバロのための編曲が収載されている。3声のものを2人4手に割り当てる際、バッハは声部をひとつ追加した。この声部は転回ができず、正立形と倒立形で異なっている。
第6群:カノン
いずれも基本テーマをもとに大胆な変形を加えた主題をもつ。自筆の初期稿は謎カノンの体裁でまず単旋律のみ提示し、次のページに2段総譜による解決が書き込まれていたが、初版では解決のみが示された。
拡大反行のカノンは、先発する上声の旋律の反行形を、倍の音価で下声に置いて始まる。全体は104小節+終結部5小節からなり、第53小節下声から上下が入れ替わる。終結部上声は冒頭主題どおりなので、下声を取り除けば無限に続けることができる。旋律は拡大されているため、後発の声部は先発声部の26小節分のみを使用する。主題にはEs音が含まれ、全体は半音階の響きが目立つ強烈な響きになっている。なお、この曲は自筆稿では最後に置かれていたもので、8度、10度、12度によるほかの3つのカノンにこれを先行させた初版の配列は完全に混乱しているといわざるを得ない。
オクターヴのカノンはフーガのような構成をもっている。アーチ型主題がたびたび現れては展開する。反復記号以降の部分は冒頭を完全に再現しており、さらにフェルマータ以降の終結部は大胆な手の交差でいったん音が鍵盤の中央に集まった後、ふたたび広がり、最後の音で今度は低音域の声部交差がおこる。全体は生き生きした16分の9拍子で運ばれ、インヴェンションのようによくまとまった曲である。
3度の転回対位法による10度のカノンは、78小節+終結部4小節(内カデンツァ2小節)からなり、第40小節で上下が入れ替わる。その際、下声に4小節分の自由旋律がはめ込まれている。また、終結部前4小節の上声にも自由旋律が現れる。3度の転回対位法による10度のカノン、というの操作は次のように行われている。前半、先発声部に対して後発声部は10度上の関係にある。後半では、もとの先発旋律がオクターヴ高くなって上声へ、もとの後発旋律は10度下へ移される。その結果、オクターヴの模倣になる。この曲はごく普通の音域から始まって、中間部で両手ともト音譜表の音域にまで高まり、中間の折り返し点で正常化するが、やがて再び高音へ昇っていく。それに伴って、長い音価と8分音符のゆったりした調子から、きらびやかな走句の掛け合いへと変化し、終結部では3分割から2分割へと拍子が唐突な変化を見せる。音域とテンポ感の変容が面白く、また美しい曲である。
5度の転回対位法による12度のカノンも、技法に関しては10度のカノンと同様で、中間の第34小節で上下が入れ替わり、後半は8度の模倣になる。この曲はまた、オクターヴのカノンとおなじくフーガ風の主題提示と展開があり、明確な二部構成をとる。また、自由旋律をもたない完全な無限カノンである。こうした要素をすべて併せ持ってなお美しいインヴェンションを書くのは、音楽的にたいへん困難な課題であるが、バッハはここでそれを見事に実現している。
第7群:未完の4声フーガ
ここで現れる3つの主題は、《フーガの技法》の基本テーマとは一致しない。冒頭の第1主題の5度跳躍にはわずかにその片鱗が感じられるが、ほぼ無関係であるといってよい。第2主題は第114小節に現れる8分音符主体のオルガン的な語法による旋律、第3主題が第193小節に登場するB-A-C-H主題である。テーマが出て来ないため、この曲がほんとうに《フーガの技法》に含まれるのかどうか疑われたこともあるが、これら3つの主題が基本テーマと結合可能である、ということが確かめられた。従って、このフーガが『個人略伝』やフォルケルの『バッハ伝』が伝える「4つの主題を含み、のちにはその全4声部が残らず転回されるはずだった最終フーガ」である可能性もある。が、現在残されている部分は3つの主題の結合が充分でなく、三重フーガにすら至っていない。わずかに、第2主題が提示されたのち、第1主題と第2主題が結合するのみである。また、第1主題の部分に続いて第2主題の部分が始まるとき、やや唐突な印象が否めない。第3部分への移行も同様である。こうしたことからおそらく、バッハは3つの違った作品をつなげて作ったのだと思われる。
この作品は果たしてどのような形で完成されうるのだろうか。どう補ってみても、バッハの「当初の計画」を知ることはできないし、おそらくバッハ以上にうまくやることは難しいだろう。しかし演奏に際しては、未完のまま演奏をやめてしまうときわめて中途半端な印象を受ける。ここに何らかの結末を演奏者自身がつけることは、決してバッハの意に背くことではない。
BWV668:コラールファンタジア〈我ら苦難の極みにあるとき〉
この作品がバッハの絶筆と考えられているのは、《17のコラール集》の最後のページにコラール〈汝の玉座の前に進み出で〉(BWV668a)として同じ旋律のこの曲が25小節半ほど書き残されているからである。ただし、《フーガの技法》に収載された〈我ら苦難の極みにあるとき〉は初期稿で、《17のコラール集》の楽譜帖に含まれる改訂稿と完全には一致しない。おそらく、《フーガの技法》出版に際しては失われた別の資料が用いられたのだろう。
《フーガの技法》は、バッハが晩年に構想した理念的作品集の一角をなすものである。
ベルリンの国立図書館に残される自筆譜は1742年に作られており、バッハがこれ以前の1740年頃から《フーガの技法》に着手したと考えられる。その後、たびたびの中断があり――フリードリヒ大王を訪問し《音楽の捧げもの》を仕上げたり、ミツラーの「音楽学術交流会」に入会して《カノン風変奏曲「高き天より」》(BWV 769)を書いたり、旧作のオルガン・コラールを改訂して所謂『シューブラー・コラール集』や《17のコラール》をまとめたり、《ロ短調ミサ曲》を完成させたり――、また《フーガの技法》の当初の計画にいろいろな変更を加えた所為で、とうとうバッハ自身の手で出版は実現しなかった。
最大の謎は、バッハが最終的に望んだ《フーガの技法》とは、どのような内容、配列によるのか、という点である。1751年6月1日に新聞に予告された出版譜が、具体的に誰の手配によるのかは判っていない。が、この初版の内容はおそらく、作曲家の意図をかなり無視したものとなっている。それはたとえば、Cp.10の初期稿が第14曲として組み込まれていること、Cp.13を単純に2台チェンバロ用に編曲したに過ぎないものが第18曲に入っていること、終曲にコラール編曲が置かれていること、あるいは未完のままのフーガが第19曲として収載されたこと、また、1742年の自筆譜の配列とは大幅に異なっていることなどから推察される。バッハはなぜ、自らの名を刻んだフーガを未完のまま放置したのだろうか。仕上げる前に命数が尽きてしまったといえばそれまでだが、そもそもこのフーガの全体の出来に不満があったればこそ作曲が捗らなかったのではないか。とすれば、これを《フーガの技法》に含めることは、作曲者の意図に反するかも知れない。さらに奇妙なのは、コラール編曲〈我ら苦しみの極みにあるとき〉が終曲に置かれたことである。フォルケルは『バッハ伝』の中で、死の間際にバッハがこのコラールを口述筆記させたと伝えている。予定されていた最終フーガが未完となったので、この曲が補完に充てられたというのが実情であり、従って、コラール編曲を《フーガの技法》に含めるのが作曲者の意に叶うとは思えない。(更にいうなら、絶筆となったのが果たして本当にこの曲だったのかどうかも、確証は得られない。)より本質的な問題として、『個人略伝』とフォルケルの『バッハ伝』によれば、計画していながら完成されなかったフーガは2曲あった。「未完フーガ」はそのどちらかであろうが(フォルケルは「未完フーガ」を「3つの主題を持つ」「最後から2番目のフーガ」としている)、残る一方は完全に失われている。バッハが構想した《フーガの技法》は永遠の謎となってしまった。
筋の通った配列という問題は、未完フーガの補完と同じくらい、これまで多くの音楽家の関心を集めてきた。しかし、配列それ自体は作品の演奏にとっては大きな問題ではない。どのみち全曲とおして演奏することは想定されていないからである。
楽器編成について、こんにちではほぼ、鍵盤作品として、それもクラヴィーアのために書かれたと考えられている。処々に現れる長い保続音は確かにオルガンのペダル・ポイントに適しているようにもみえるが、全体はクラヴィーアにふさわしい語法に満たされている。また、鍵盤以外の楽器の特徴はほとんど見出せない。なお、現代のピアノで演奏する場合には、特に手の交差に関してチェンバロやオルガンほどの効果が得られないので、工夫が必要である。
フーガの技法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/09 06:04 UTC 版)

『フーガの技法』(フーガのぎほう、独: Die Kunst der Fuge、英: The Art of Fugue)ニ短調 BWV1080は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる音楽作品。
経緯
1740年代前半に作曲が開始され、J.S.バッハ最晩年となる1740年代後半に作曲と並行して出版が準備されたが、その途中で作曲者自身の視力が急激に低下してしまい、一般に「コントラプンクトゥスXIV」とされる作品(3つの主題による4声のフーガ)が未完成の段階で作曲が中断されてしまった。何人かの音楽学者によって、最初の12曲が1742年にチェンバロ独奏を想定して作曲されたことが判明しているが、残りのフーガを書き始めた経緯は今もなお不明である。曲集はバッハの死後、未完成のまま出版された。
現行の多くの版には、様々な様式・技法による14曲のフーガと4曲のカノンが収録されている。彼は卓越した対位法の技術を駆使し、単純な主題を入念に組み合わせることによって究極の構築性を具現化した。
『フーガの技法』は、作品固有の緊密な構築性と内在する創造性によって、クラシック音楽の最高傑作の1つに数えられている。
音楽
『フーガの技法』の初版は、バッハの時代に一般的に使用された鍵盤楽器で演奏できるように作曲されていながら、オープンスコアで書かれており、しかも楽器指定がなされていない。これは当時の対位法的鍵盤作品にしばしば見られる形態であり、鍵盤以外の楽器で演奏されても良い旨を明言している作曲家もいた。またバッハの『オルガン協奏曲』やBVW972-987の諸作のように、逆に協奏曲などを鍵盤用に編曲して演奏することもしばしばあった[要出典]。こうしたことからバッハは、鍵盤独奏で演奏可能な『フーガの技法』について、いくつかの楽器の組み合わせによる演奏を容認していた可能性がある。一方でグスタフ・レオンハルトは、この曲がチェンバロのために作曲されたと主張し、他の楽器で演奏されることに否定的な見解を示している[1][2]。
『音楽の捧げもの』と同様に曲集は一つの主要主題で統一されており、未完成の最終フーガを除く全曲は、装飾・変形されたり上下転回された主題をもとに書かれている。最終フーガの主題については、単純化された主題にすぎないとする説もある一方で、まったく別の主題であるとする説もある。一部の学者及び演奏家は後者の説に従い、未完成の最終フーガはフーガの技法とは別の、独立した作品であるとしている。
初版曲集が未完成となったことについては、上記のほかにも研究者によって様々な説が出された。本当はもっと早くに完成していたが譜面が紛失したという説や、未完成のフーガは『フーガの技法』に含まれず、他の曲をもって曲集は完成していたという説もある。さらには、バッハのチェンバロ曲の多くが3の倍数組で構成されていることから、最初に完成した12曲の後に、もう一組の12曲を完成させる意向であったという推測もなされている。長年、これらの説を裏付けるような楽譜や資料は発見されていなかったが、近年の研究では、バッハがこの作品の出版について問い合わせた文献が残っており、少なくともこの作品を完成させる意図はあったこと、完成した曲はすでに校正願いを出していたこと、そして恐らく絶筆ではなかったことが指摘されている。
図らずも未完となってしまった曲集はバッハの意思を汲み出版されたが、わずか30部足らずほどしか売れず、同時代の評判はあって無きが如しであった。とはいえ一部の愛好家には次第に受け入れられ、1800年代以降の筆写譜が少なからず残されており、さらに1838年にはチェルニー校訂によるピアノ譜が出版された。この曲集が演奏家にクローズアップされるようになったのは、19世紀後半以降にサン=サーンスなどの優れたピアニストがピアノで演奏することが広まってからであった。
原典
1740年代前半に書かれたとされる自筆譜(いわゆるベルリン自筆譜)と、出版譜がある。
自筆譜では15曲が1冊にまとめられている。最初の数曲は整然とした書体で書かれており、浄書譜のように思われるが、次第に書体は乱雑となり、多くの修正が書き込まれている。自筆譜に含まれるのは以下の各曲である(括弧内は初版でのタイトル)。
- I.(コントラプンクトゥスI)
- II.(コントラプンクトゥスIII)
- III.(コントラプンクトゥスII)
- IV.(コントラプンクトゥスV)
- V.(コントラプンクトゥスIX)
- VI.(コントラプンクトゥスX)
- VII.(コントラプンクトゥスVI)
- VIII.(コントラプンクトゥスVII)
- IX.(8度のカノン)
- X.(コントラプンクトゥスVIII)
- XI.(コントラプンクトゥスXI)
- XII.(拡大及び反行形によるカノンの初期稿)
- XIII.(コントラプンクトゥスXII)
- XIV.(コントラプンクトゥスXIII)
- XV.(XIIの発展稿)
またこれら以外に個々に伝えられた自筆譜として、拡大及び反行形によるカノン(初版の版下原稿)、XIVの編曲および未完成のフーガがある。
出版譜には、1751年(バッハの死の翌年)に出版された初版と、1752年に出版された第2版がある。様々な対位法の技法が用いられ、それらは後の研究者によって「単純」、「反行」、「拡大および縮小」、「多重フーガ」(「フーガ」および対位法の項を参照のこと)などに大別された。曲全体を上下転回しても演奏可能であるように書かれた、「鏡像フーガ」という珍しい様式も見られる。
出版譜では、対位法の技法の種類ごとに曲が配列されている。また、個々の曲は"Contrapunctus"(対位)もしくは"Canon"と名づけられている。
単純フーガ
反行フーガ、装飾された主要主題とその反行形を含むもの
- 6.コントラプンクトゥス VI 主題の縮小を含む、フランス風の4声のフーガ: この曲中に用いられているような付点のリズムは、バッハの時代にはフランス風として知られていた(フランス風序曲)。
2つの主題による2重フーガ及び3つの主題による3重フーガ
- 9.コントラプンクトゥス IX 12度の転回対位法による2重フーガ: 転回対位法(転回可能対位法)は、声部をそのまま移動させ、声部間の上下を入れ替えても成立する対位法を指す[3][4][5]。"...度の"とあるのは移動の幅を示す(8度や15度以外では移調が生じる)。
鏡像フーガは、楽譜に記されている音符を全て上下逆に読み替えても、音楽的な損失なしに演奏できるフーガのことである[6]。
カノンは、主題と応答の音程差や技法によって名前が付けられている。すべて2声。
コントラプンクトゥスXIIIの編曲
- 18. 2台のクラヴィーアのためのフーガ(正立形)・異形(倒立形)4声。コントラプンクトゥスXIIIの正立形と倒立形にそれぞれ自由な声部(鏡像関係にない)を加えたもの。
未完成のフーガ
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当時の資料によると、出版譜のための銅板彫刻はバッハが死に至る前に始められた。しかし、すでに健康を害していたバッハが、試し刷りをもとにして校正を実際に行ったかどうかは疑わしいと考えられている(現在残っている初版の正誤表はバッハの息子の手によるものである)。
また、出版譜はその巻末にいわゆる「アンコール」のような関係のない作品を含んでいる。これは『われ汝の御座の前に進み出て (独 Vor deinen Thron tret Ich hiermit)』 BWV 668aとして知られるコラール前奏曲であり、バッハはこの作品を死の床で口述筆記させたと言われている。この曲は未完成に終わったフーガの穴埋めとして付け加えられたことが序文に記されている。
未完成のフーガについて


第14コントラプンクトゥスは、3つ目の主題が導入された後の第239小節、3つの主題が重なって登場した直後で突然中断されている[8]。
自筆譜には、バッハの息子であるC・P・E・バッハによって、「作曲者は、"BACH"の名に基く新たな主題をこのフーガに挿入したところで死に至った ("Über dieser Fuge, wo der Nahme B A C H im Contrasubject angebracht worden, ist der Verfasser gestorben.")」と記されている(譜面右下参照)。しかしながら、現代の学者たちはこの記述について強く疑問を抱いている。なぜなら、自筆譜の音符は疑いなくバッハ自身の手によって書かれているものであり、視力の悪化のために筆跡が乱れるより前の1748年から1749年の間に書かれたと思われるからである。
また、この記述の下、5線7段が空白のまま残されているが、その最下段右側に僅に音符が書き込まれている。この音符は、同じ譜面に書かれた他の音符よりも符頭が小さく、別の時期に書き込まれたものとされるが、これが本曲と関係があるのかは不明である。
更に、自筆譜5枚目の裏面には「und einen andern Grund Plan(そしてもう1つの基本計画)」との記述があり、未完成のフーガに関わるものなのか、或いは単なるメモなのかは全く不明である。バッハ本人の手による書き込みではなく、誰の手によるものかは未だ明らかでない。
弟子のアグリコーラとC・P・E・バッハによって書かれたバッハの『故人略伝』には、「彼の命を奪った病によって計画の完成は妨げられ、最後から二つ目のフーガを書き上げることも、四つの主題を持ち、それから四声すべての音を残らず転回させる最後のフーガを仕上げることもできなかった」と記されているが、この文の解釈は分かれている[9]。中断時点では曲集中で唯一、主要主題もしくはその明確な変形が現れておらず、グスタフ・ノッテボームは1881年の論文で、三つの主題に加えて曲集の主要主題を対位法的に結合させ、四重フーガを作ることができると示した[7]。
未完成のフーガを補筆し、完成させて演奏した例はあり(ドナルド・フランシス・トーヴィー、ヘルムート・ヴァルヒャ、デイヴィット・モロニーなど[10])、楽譜も多く出版されている。しかし、多くの演奏家は原典通りに未完成のまま演奏しているようである。録音においては、最後のいくつかの音符にフェードアウト処理を施していることもある。
演奏と録音
- 現代ではチェンバロ、ピアノ、オルガン、そして弦楽四重奏やオーケストラなど、様々な楽器の組み合わせで演奏されたり、録音されている。例えばWolfgang Graeserやヘルマン・シェルヘンはカノン以外の全てのフーガをオーケストラ用に編曲している。また2004年にはケネス・エイミスがフーガとカノンを吹奏楽用にアレンジしている。
- ピアノでの演奏時間は約80~90分だが、アントン・バタゴフは150分かけて演奏している。
- フレットワークはヴィオール合奏で録音している。高橋悠治、鈴木雅明、ピーター・ディルクセンは自筆譜稿で演奏している。ピ=シェン・チェン、大井浩明、ウィンストン・チョイは初版譜で演奏している。グレン・グールドが演奏した未完成のフーガは、チェルニー校訂版によるものである。
- ピーター・ディルクセンは「コントラプンクトゥス2はベルリン自筆譜では、他者の手でIIIと名づけられているが、このベルリン譜を清書するに当たり符点リズムは後で付け加えられた痕跡を有する」という見解から、全ての符点リズムを取り払って演奏しておりet'ceteraからリリースした録音もこれに拠る。しかし、初版までにコントラプンクトゥス2へいかなる経緯で符点リズム化が行われたのかは不明である。
脚注
- ^ Golomb (2006), Medium and message.
- ^ Rubinoff (2014), Historical fidelity, high fidelity.
- ^ 長谷川良夫『対位法』(音楽之友社、1995) pp. 182-183.
- ^ a b 『音楽大事典』3 (平凡社、1982) pp. 1573-1574.
- ^ 旋律の上下行の転回(反行形)とは異なる。二声の場合は二重対位法、三声の場合は三重対位法、…と呼ばれる[4]が、二重フーガ、三重フーガ、…とは意味が異なる。
- ^ 出版譜では、倒立形が先に、正立形が後に掲載されている
- ^ a b Schulenberg, David (2006), The Keyboard Music of J.S. Bach (2nd ed.), Routledge, p. 421
- ^ 初期の版では、第233小節の半終止までが印刷されていた[7]。
- ^ Hewitt, Angela. “Hyperion Records, Bach: The Art of Fugue” (PDF). pp. 13-14. 2022年4月18日閲覧。
- ^ フェルッチョ・ブゾーニの『対位法的幻想曲』はこの未完フーガをもとに作曲された。
参考文献
- Golomb, Uri (2006-02). “Johann Sebastian Bach’s The Art of Fugue”. Goldberg: Early Music Magazine (Goldberg) 48: 64-73 .
- Rubinoff, Kailan R. (2014-03-21). “’’The Grand Guru of Baroque Music’ — Leonhardt’s Antiquarianism in the Progressivist 1960s”. Early Music (Oxford University Press) 42 (1): 23-35. doi:10.1093/em/cau026.
外部リンク
固有名詞の分類
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