日記 日記の概要

日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:12 UTC 版)

日露戦争に出征した兵士が書いた日記

日記文学

日記が書かれる主な契機の一つとして、の記録がある(これが書物にまとめられると紀行文となる)。仕事であれ、私的な所用であれ、戦争への従軍であれ、特別な出来事の内容、見聞、心覚えを記したものとして日記は書かれた。古代ローマのカエサルガリア征服の経過を記した『ガリア戦記』がその有名な例である。

日本でも、遣唐使の随行日誌など、旅の日記(紀行)の伝統は古く、円仁の『入唐求法巡礼行記』のように世界的に著名な紀行が、9世紀に生まれている。

平安時代、9世紀末の日本では、国家体制の変化のもと、儀式化した政務のために王朝貴族たちは、外記日記など国家の記録とは別に私的な日記を作成し始める。この貴族たちの日記作成の流行をもとに、女性たちの回想録的な日記文学が生まれてきたと考えるべきであろう。その背景には、仮名文学の成熟、浄土教の発展による内省的な思考の深化などが認められる。紀貫之の『土佐日記』を始めとして『蜻蛉日記』、『紫式部日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』、『讃岐典侍日記』などの平安時代の女流日記や『弁内侍日記』、『十六夜日記』などがその代表例である。

男性貴族の日記の多くは漢文で書かれており、歴史学の用語として漢文日記とも呼ばれるが、近年これら儀式のための先例のプールやマニュアルとして作成された日記を「王朝日記」として新たに概念化する学説も出されている(参考文献;松薗2006)。

中世までは、王朝貴族(公家)・僧侶にほぼ限られていた日記も、中世末から近世に入ると、階層的に多様化し、量的にも格段に増加していく。

近代に入ると、西洋の個人主義などの影響を受け、プライベートの個人的秘密を吐露するために書かれたものも出てくる。石川啄木の『ローマ字日記』などである。実体は私小説、またはフィクションであっても、表現手段として日記の形式を借りることもある。

今日では、Weblogブログ)やインターネット上のレンタル日記サイトにおいて、不特定多数に読んで貰うことを前提として、多くの公開日記が書かれている。

日本人と日記

河盛好蔵は「日記について」という文章で、「私たちが日記をつけておいてよかったと思うのは、自分の古い日記を読むとき」であり、そのことによって「自分の人生について多くのことを反省させる」と述べている。

多田道太郎加藤秀俊の対談による「日記の思想・序説」では、日本人は日記好きとよくいわれる理由として個人的な会話が下手なことや、欧米諸国と異なり、夜寝る前の神に対するお祈りがないことなどが挙げられている。ドナルド・キーンは『百代の過客ー日記にみる日本人ー』の序文で、戦場に遺棄された日本兵の日記を翻訳する職務の経験から達せられた結論の一つは、「日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」という。

日本史における日記

近代以前の日本の史料の代表的なものとして挙げられるのが、古文書と日記を中心とする記録類である。

日本において記録に残る最古の個人の日記は、遣唐使としてに渡った伊吉博徳によるもの(『日本書紀斉明天皇紀)とされる。現象的には、六国史の編纂が絶えた10世紀以後に、朝廷の政務や行事の儀式化が進行し、それらを殿上日記や外記日記などの公日記で記録する一方、それらを上卿などの立場で運営・指導する廷臣や皇族たちの間で、次第に習慣化していったものと考えられ、初期のものとして、例えば、宇多醍醐村上3代の「三代御記」などの天皇の日記や重明親王の『吏部王記』などの皇族の日記、藤原忠平の『貞信公記』、藤原実頼の『清慎公記』、藤原師輔の『九暦』(九条殿御記)など上級貴族の日記が知られている。平安中期以降は、摂関家小野宮流勧修寺流藤原氏、高棟流平氏などが代々多くの日記を残しており、本来儀式のためのメモであった実用品としての日記が、12世紀に入ると「家」の日記化(家記の形成)し、さらに別の機能が付加され、中・下級官人も含む多くの貴族たちによって記されることになったと考えられる。中・下級官人の家柄で代々当主の家記を所持する家を特に「日記の家」と称した(『今鏡』など。また、実際には天皇家や摂関家にも「日記の家」としての要素があった)。

今日伝わる公家の日記の書名の多くは没後に付けられたものであり、執筆者自身は「私記」(藤原実頼清慎公記』・藤原資房春記』など)や「暦記」(藤原実資小右記』など、具注暦に日記を記したことによる)などと呼ぶ例が多かった。自ら命名した日記の名称が後世に伝わるのは、後奈良天皇『天聴集』や中院通秀『塵芥記』など少数である。多くは執筆者のの偏旁を採って重ねたり、諡号・官職・姓氏・居所やこれらを合わせたものが、後世の人によって命名された。1つの日記に複数の名称が用いられる事例も多く、藤原実資の日記は彼が「“小野宮家”の“右府(右大臣)”」であったということから、『小右記』・『野府記』という名称が並存し、更に祖父・実頼の『清慎公記』の別称『水心記』より、『続水心記』とも呼ばれている。また、平信範の日記は、彼の諱の偏から採った『人車記』(信→人・範→車)と兵部卿の官職と諱の一字を組み合わせた『兵範記』、更に「洞院(地区名)に住む平氏」という意味の『平洞記』という呼称が併称された。

当時、紙は貴重であったために、日記は具注暦などの暦の余白や裏側に記載したり、反故になった紙の裏側を用いられた例(紙背文書)が多い。また、これを上手く利用したものとして、伏見宮貞成親王の『看聞日記』のように自らの和歌・連歌の書付の裏に日記を記して歌と日記の両方の保存を図ろうとした例や万里小路時房の『建内記』のように出来事に関連して遣り取りされた手紙や文書の裏側にその出来事に関する日記を綴った例もある。また、日記の著者が後日になって改めて文書を整理して清書した例(『後二条師通記』・『兵範記』など)もある。なお、子孫が日記を書写・清書する例もあったが、その場合重要とは思われない部分が省略される場合はあるものの、原文に忠実に書写されることが多く、写本間の異同は大きくはない。また、著者あるいは子孫が日記の内容を検索するために目録を作成したり、分野ごとに分けた「部類」と呼ばれる別本を作成することもある。なお、藤原実頼の『清慎公記』の「部類」を作成する際に孫の藤原公任が原本を切り貼りしてしまったために全巻が紙屑と化してしまうという出来事があり、従兄弟の藤原実資が激怒したという逸話がある。当時、「部類」作成時には一旦写本を作成して、その写本を切り貼りするのが常識とされ、公任がそれに従わず原本を破損させたために実資を激怒させたのであるが、実際には日記を裁断されて作られたとみられる掛軸や帖(「古筆切」)も存在しており、その過程で散逸した日記も少なくなかったとされている。

平安時代には公家と深いつながりのあった僧侶の日記も登場し、中世に入ると寺社の日記が発生するようになる。寺院の日記としては『東寺執行日記』・『大乗院寺社雑事記』・『多聞院日記』、神社の日記としては『鶴岡社務日記』・『春日社記録』・『祇園執行日記』などがある。更に鎌倉時代には武家の日記も出現し、『吾妻鏡』は近年では御家人などの日記を集成して作った記録集であったと考えられている。武家の日記は公家や僧侶のそれよりも伝わる数は少ないものの、室町時代蜷川親元親元日記』や相良正任『正任記』、大館尚氏大館常興日記』、戦国時代から江戸時代初期にかけての上井覚兼上井覚兼日帳』や梅津政景梅津政景日記』など優れた日記も伝わっている。

江戸時代に入ると、学者や庶民(商人や名主など)の間にも日記を書く風習が広まり、武家の日記とともに多く残されるようになった。

1895年10月、博文館は懐中日記を、1896年、当用日記を発売した[1]

日本の主な日記

前近代

近代以前の日本の主な日記には次のようなものがある。

近現代

日本の近現代のものとしては、次のようなものがある。

また、原敬佐藤栄作の日記は、政治史の資料として没後に公刊されている。


  1. ^ 博文館五十年史
  2. ^ 渡辺一夫『乱世の日記』、講談社、1958。同著作集9、筑摩書房、1977所収
  3. ^ 堀越孝一『日記のなかのパリ』、TBCブリタニカ
  4. ^ 渡辺一夫『泰平の日記』、白水社、1961。同著作集9、筑摩書房、1977所収


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