徳川将軍家とは? わかりやすく解説

徳川将軍家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/07 13:49 UTC 版)

骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」の記事における「徳川将軍家」の解説

崇源院秀忠正室家光生母。1573-1626年。 徳川秀忠2代将軍。1579-1632年。 桂昌院家光側室綱吉生母。1627-1705年。 徳川家宣6代将軍。1662-1712年。 天英院近衛熙子) :家宣正室。1666-1741年。 月光院家宣側室家継生母。1685-1752年。 徳川家継7代将軍。1709-1716年。 徳川家重 :9代将軍。1712–1761年徳川家慶12代将軍。1793–1853年徳川家茂14代将軍。1846-1866年。 静寛院和宮親子内親王) :家茂正室。1846-1877年。

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徳川将軍家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:20 UTC 版)

八代将軍吉宗」の記事における「徳川将軍家」の解説

徳川綱吉とくがわ つなよし) 演:津川雅彦 江戸幕府五代将軍三代将軍徳川家光の四男。四代将軍・家綱の末弟。母想い・娘想い心優しき将軍マザコン。だが家綱男子がなかったなどお家事情からやむなく将軍の座に就かざるを得なかった経緯もあり、母・桂昌院世継ぎ対す執拗な介入辟易して「余は将軍になりたくてなったわけではない!」などと癇癪爆発させることもたびたびであった吉宗紀州藩相続し偏諱与える際、敬愛する父・家光慕っていた伊達政宗の宗の字とって名付け目をかけていた。吉宗綱吉慕い最後対面の際に「そちのような息子欲しかった」と告げて吉宗感激させた。自分死後もし将軍家相続するようなことがあれば、自分の志を継いで欲しいと吉宗言い残す徳川家宣とくがわ いえのぶ) (徳川綱豊徳川家宣) 演:細川俊之 六代将軍綱吉の甥で養子甲府藩主だったが、綱吉嫡男徳松急死し吉宗の兄・綱教が没したため将軍後継者となった学問好み諸事公家風のしきたり重んじるため、武士としての気風吉宗とは折り合い良くない吉宗に陰で口調ものまねされ、さらに「イヤミな奴」と陰口まで叩かれる徳川家継とくがわ いえつぐ) (鍋松徳川家継) 演:中村梅枝 七代将軍家宣長男。能が大好きで無邪気な少年生来病弱である。その何気ない一言周囲大人たちが思わず面食らう事も。

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徳川将軍家

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篤姫 (NHK大河ドラマ)」の記事における「徳川将軍家」の解説

徳川家定とくがわ いえさだ) (徳川家祥徳川家定) 演:堺雅人 江戸幕府13代将軍、篤姫の夫。世子時代の名は家祥(いえさち)。菓子作り趣味惚けた発言数々奇行から周囲からは「暗愚」と見られていた。しかし、時折物事核心を突く発言をし、斉彬には「ただの暗愚とは思えぬ…」と疑念持たれていた。元来聡明な人物だったが、硬直化した幕藩体制と意に沿わぬ将軍職押し付けられ自身運命絶望し奇行走っていた。また幼い頃から何度も毒を盛られており、そのために極度人間不信に陥っていた。しかし、篤姫との語らい安らぎ見出し政務や自らの後継者問題にも次第目を向けるようになっていく。 「自分の家族である徳川将軍家の人々守ってくれる人物」と見込んで井伊直弼大老据え紀州家慶福後継定め篤姫には「慶福成長するまでは後見として政務関るよう」と遺言する。その直後持病脚気衝心発作倒れ帰らぬ人となる。法名は温恭院。先例則り、その死は妻である篤姫にすら1ヶ月近く伏せられていた(厳密に家定篤姫の仲睦まじさを考慮した滝山が少し時期早めた)。 江戸城開城女中たち伝える前、将軍家滅ぼしてしまう事を悔やむ天璋院前に幻影として現われこれまでの苦労ねぎらい後の世に残すべきは「城」ではなく徳川の心」であると伝えた徳川家茂とくがわ いえもち) (徳川慶福徳川家茂) 演:松田翔太 江戸幕府14代将軍。幼名菊千代。元紀州藩主で、当時の名は慶福(よしとみ)。血統的に家定次の将軍に最も近く井伊直弼らによって推される。 幼い頃から「君主風格備える」と周囲からの評判高く対面した篤姫にも好印象残した穏やかな性格理想主義者で、将軍就任後は天璋院を母のように慕い互いによき理解者となる。 和宮にも誠意持って接し攘夷実行不可能なことを説き何よりもまず妻として大切にする誓って彼女の心を開く勅使攘夷決行迫られると、自らの意思孝明天皇伝えるために上洛決心する。しかし朝廷での攘夷論根強く翻意促すには至らなかった。 その後長州藩反抗に際して出兵決断し、自ら指揮執る。自らが出馬することで平和裏に戦が終結することを狙っていたが、朝廷意思優先する慶喜らとの見解の相違もあり、その考え通りに事は運ばなかった。大坂城で病に倒れ天璋院和宮計らいによって侍医急派されたが、その甲斐なく亡くなった臨終の際、軍艦奉行勝麟太郎に「悔しいのう、わしはまだ21ぞ」と何事も成すことなく死んでゆくことへの無念思い吐露し、勝に天璋院和宮行く末託した徳川慶喜とくがわ よしのぶ) (一橋慶喜徳川慶喜) 演:平岳大 江戸幕府15代将軍。元御三卿一橋当主で、当時一橋ひとつばし慶喜称する前水藩主徳川斉昭の七男。水戸尊皇思想大きく影響受けており、自らも熱心な尊皇家である。 英明知られており、斉昭や斉彬達によって家定後継候補担ぎ出されるが、父が大奥嫌われていたことから大奥からの支持得られず、さらに斉彬達や家定にも「将軍地位興味は無い」と言っており、家定も彼を快く思っていなかった。篤姫との初対面でも曖昧な態度崩さず篤姫は「島津分家出身自分侮っている」「覇気が無い」と感じ悪印象覚えた大老となった井伊直弼勅許を得ないままアメリカとの通商条約を結ぶと江戸城登城し直弼詰問するが、逆にこれを罪とされて登城停止処分を受ける。 後に、島津久光の率兵参府前に幕府によって春嶽とともに赦免される薩摩の力が働いていた事には不快感持ったが、久光主導による幕政改革将軍後見職任じられ幕政参画する家茂の上に際しては、様子を探るために先立って上京する攘夷実行朝廷申し出た事が家茂不興を買うが、その後京都朝廷対策奔走し蛤御門の変時には率先して御所守った家茂急死すると、危急の時と言う事で将軍職推され就任孝明天皇信頼の元で京都二条城政務を執ろうとするが、間もなく天皇崩御してしまい出端を挫かれる小松帯刀提言により列侯会議主催するが、将軍として威厳保とうとした言動諸藩反感を買い会議分裂する結果終わったその後土佐藩建白帯刀説得に応じて朝廷政治能力無さ視野入れて大政奉還断行する。しかし辞官納地拒否する姿勢見せ大阪城で策を練ろうとするが、薩摩の策によってやむなく開戦する。しかし掲げられ錦の御旗前に敗北悟り、兵たちを残して江戸へ退却するその後勝麟太郎勧め天璋院会い命を捨てる覚悟を示すが、天璋院に諭されて恭順の道を辿る事を決め江戸城内、さらには上野寛永寺水戸謹慎徹する徳川家慶とくがわ いえよし) 演:斉木しげる 江戸幕府12代将軍。家定の父に当たる。ペリー来航混乱最中病死する徳川家達とくがわ いえさと) (田安亀之助徳川家達) 演:吉武怜朗幼少時代小林海人 少年時代私市夢太田安家7代目当主幼名は亀之助。 幼いながら徳川家茂次期将軍推される。しかし揺れ動く政情への対処のために一橋慶喜将軍職継ぎ、その嗣子として置かれるになったその後、父慶頼とともに天璋院謁見する唐橋にはその幼さ危惧されていたが、天璋院は亀之助に亡き家茂幼い頃重ね利発な子と評した徳川家取り潰し回避されると、慶喜後継となって駿府70万石移封される。廃藩置県後東京天璋院元に帰り天璋院の元で書道や英語などの教育を受ける田安慶頼(たやす よしより) 演:長谷川ほまれ 田安家当主。幼い徳川家茂将軍就任する将軍後見職となったが、程なく辞職している。息子の亀之助が将軍継嗣となると、亀之助とともに天璋院謁見した。

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徳川将軍家

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八重の桜」の記事における「徳川将軍家」の解説

徳川慶喜とくがわ よしのぶ) (一橋慶喜徳川慶喜) 演:小泉孝太郎 江戸幕府15代将軍。水戸藩主徳川斉昭実子聡明な人物だが、その言動には本心見えず周囲の評価芳しくない当初一橋徳川家当主将軍徳川家定継嗣候補として松平春嶽らに担がれるが、徳川慶福家茂)を担ぐ紀州派に敗れ登城停止処分となる。井伊直弼死後政界に復帰将軍後見職となる。春嶽と諮って容保を京都守護職就けるが、言動次々と翻しては容保や会津藩振り回した家茂没後徳川宗家相続し長州征伐勅命受けたが、華々しい手柄上げてから将軍職継いで幕府根底から改革する為に将軍襲職拒んでいた。しかし時勢変化逆らえず、将軍宣下を受ける。その翌年討幕派の攻撃をかわし、徳川家生き残り企図して大政奉還を行うが、新政府からは官職領地返上命じられ京都追われる薩長挑発乗せられる形で鳥羽・伏見の戦い起こすが、敗色濃厚となると兵の多く残して容保らと共に江戸へ逃亡江戸到着後は容保に登城禁じて徳川宗家尽くしてきた会津藩切り捨て新政府恭順する姿勢示したその後、勝と西郷との交渉で死を免れ水戸での謹慎処分となる。 維新後、勝の尽力実って明治天皇謁見して名誉を回復した。だが、会津見捨てたことを悔やんでおり、勝に自分には手に入らない会津藩君臣交わり羨ましく思っていた事を告白していた。 徳川家定とくがわ いえさだ) 演:ヨシダ朝 江戸幕府13代将軍。アメリカ総領事ハリス引見し、大統領親書受け取った徳川家茂とくがわ いえもち) 演:葉山奨之 江戸幕府14代将軍。元紀州藩主、前名・慶福(よしとみ)。 第二次長州征伐上洛を果たすが、脚気罹り急死した

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徳川将軍家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:17 UTC 版)

青天を衝け」の記事における「徳川将軍家」の解説

徳川家慶とくがわ いえよし) 演:吉幾三 江戸幕府第12代将軍実子家定将軍とすることに不安を覚え英邁な慶喜可愛がり彼に期待寄せる。やがてペリー艦隊来航した頃に体調崩し慶喜徳川託して世を去る。 徳川家定とくがわ いえさだ) (徳川家祥徳川家定) 演:渡辺大知 江戸幕府第13代将軍家慶の子。初名は家祥(いえさち)。 病弱で、料理をすることが趣味正室篤君とは、その密命知りつつも自身には篤く接してくれることなどから仲は良い将軍として凡愚であることに自覚があり、自身軽んじて慶喜期待する幕閣徳川松平一門、そして慶喜に対して鬱屈した思い抱き期せずして名門譜代家門継いだ直弼実績のないまま優遇する最期には直弼に、慶喜慶喜推している者たちへの処断託して若くして没する天璋院てんしょういん) (篤君天璋院) 演:上白石萌音 家定正室島津斉彬養女。名は篤君(あつぎみ)。 家定輿入れした際は慶喜将軍後継認めさせるという密命負っていたが、やがて家定が世を去ると、家定愛情に恩を感じ始め徳川人間として家茂和宮見守るうになる徳川家茂とくがわ いえもち) (徳川慶福徳川家茂) 演:磯村勇斗 江戸幕府第14代将軍将軍就任前は紀州藩主。初名は慶福(よしとみ)。 家定次代将軍の座を慶喜を争う立場にあったが、家定慶喜周辺疎んじたことと、慶喜自身良しとしたこともあって将軍候補最有力となり、そのまま将軍に就く。降嫁してきた和宮との夫婦仲良い長州征伐総大将として出陣するが、大坂城で病に倒れ慶喜に後を託し急死する静寛院宮せいかんいんのみや) (和宮静寛院宮) 演:深川麻衣 家茂正室孝明天皇の妹宮。俗名和宮かずのみや)。 公武合体目指す安藤信正によって家茂正室となることとなり、東国武家赴く不安感から拒絶する甲斐なく降嫁する江戸で家茂対面すると、彼の誠実な人柄に惹かれるうになる家茂長州征伐中に急逝すると悲嘆暮れ、「次は慶喜苦しめば良い」と恨み言を呟く。 徳川家達とくがわ いえさと) 演:三谷昌登 徳川宗家第16代貴族院議長幼名田安亀之助(たやす かめのすけ)。

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徳川将軍家

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葵 徳川三代」の記事における「徳川将軍家」の解説

徳川家康とくがわ いえやす) 演:津川雅彦 前述通り短気な謀略主義者としての側面強調されていたが、同時に家族思い側面描かれるまた、徳川家康』などのように秀吉遺志を特に慮ったわけではないが、かつて織田家豊臣家配下となったように、豊臣家徳川家屈服することを期待して大坂の陣極力避けようとはしており、夏の陣で秀頼と淀殿自害した折は憮然としていた。少々口が悪いところもあり、また戦国武将としての用心深さ非情さから、温厚だ曲がったことを嫌う秀忠対立することもあったが、実際2人の関係は良好で、臨終の床では、秀忠の「へたくそな鼓」を聴くことを所望し、息を引き取った徳川秀忠とくがわ ひでただ) 演:西田敏行 家康三男正室お江尻に敷かれるの上がらない恐妻家だが、妻のことを心から愛している。関ヶ原の戦いには中山道通って西に向かうも遅参する。その後武将として頼りない性格ゆえに父・家康悩ませる将軍職継いだ当初大御所家康重臣たちに支えられてなんと政務をこなす有様だったが、徐々に将軍として威厳身に付け乱行収まらない忠輝・忠直自分の意に従わない朝廷に対して断固たる態度をとる様になる。その一方で死の直前まで家光忠長不和心を痛め続けた徳川家光とくがわ いえみつ) (竹千代徳川家光) 演:尾上辰之助幼年期〜少年期内田雅楽吉永和真佐藤圭祐→酒井長輝→山田孝之秀忠次男将軍家世継ぎとして家康の命により母・お江とは引き離されお福傅役養育される。幼少時から変わり者女装するなど奇行目立ち青年期には頼房と夜の街繰り出して辻斬りをしたり、侍女乱暴して孕ませるなど素行悪かったお江には将軍家世継ぎにはふさわしくない思われ疎まれていたが、最終的に三代将軍継承するプライド高く当初公家増長ぶりに反発し御台所孝子遠ざけたり後水尾天皇江戸行幸を迫ったりしたが、秀忠死後朝廷への歩み寄り見せた

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