「セム人」とアーリア主義とは? わかりやすく解説

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「セム人」とアーリア主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「「セム人」とアーリア主義」の解説

19世紀にはアーリア人セム人という二分法研究者によって受け入れられた。 歴史家ジュール・ミシュレは『ローマ史』(1831)でセム人インド-ゲルマン人との長い戦いについて語り、またインド人種宗教発祥地であるとし、『人類聖書』(1864)では、われわれの祖先であるアーリア人インド人ペルシア人ギリシア人太陽の下生まれた光の息子であるとし、他方メンフィス (エジプト)人・カルタゴ・ティールとユダヤ人南部の暗い性格であり、ユダヤ聖書は偉大ではあるが陰気やっかいな曖昧さ満ちていると書いた。また、ミシュレユダヤ人純粋な人種であり、ユダヤの不幸はこの純粋さにあるとみなした。それに対しドイツスイススウェーデンにズエーヴェン人を、スペインゴート人を、ロンバルディアランゴバルド人を、イギリスアングロサクソン人を、フランスフランク人与えたようにドイツ人すすんで自国から出て、また自分の国に快く外国人受け入れ歓待するドイツ人エゴイズム捨て去る自己犠牲精神を「南部の人たち」は嘲笑するが、これがゲルマン人種を偉大にしたとミシュレ論じたバルザックの『ルイ・ランベール』(1832)では「モーゼの書は恐怖刻印押されている」とし、破局のもとで生きのびるた人が避難したのはアジア高原であり、聖書の民はヒマラヤコーカサスぶらさがっていた人間巣箱からの一群にすぎないと書いた。 1843年人類学者グスタフ・クレムは、人類能動的人種受動的人種分けて人類が完全になるのはこの二つ人種混合によるとした。受動的人種にはスラブ人ロシア人があり、能動的人種にはラテン人が入るが、ゲルマン人はそのラテン人をつねに打ち負かしヨーロッパ王位占めているとした。 1845年インド学者クリスチャン・ラッセンは、エゴイスト排他的なセム人インド-ゲルマン人特徴づけている魂の調和のとれた均衡持っていないし、哲学セム人のものでなく、インド-ゲルマン人から借り受けただけだとした。同1845年スウェーデン頭蓋学者アンドレーアス・レツィウスは、すぐれた魂の能力持っているのはスカンジナビア人、ドイツ人イギリス人フランス人長頭人種で、ラプランド人、フィン人スラブ-フィン人ブルトン人のような短頭人種遅れた民であるとした。 フランス人種決定論発祥の地であり、キリスト教から解放され科学法則によって、人種研究進展したフランス系イギリス人博物学者W.F.エドワーズユダヤ人人種みなした。バルテルミ・デュノワイエは人種不平等嘆きながら、チュートン人・ゲルマン人は優秀人種であるとした。ジョゼフ・ド・メーストルは、野蛮人改良不可能の生まれながら犯罪者であるとし、その祖先なんらかの前代未聞の罪を犯したとして、人間は神の前で平等でなはいとした東洋学者エミール・ビュルヌフはセム人中国人キリスト教形而上学美しさ理解できないとした。 1850年代には遺伝学者プロスパー・ルーカスや『変質論』(1857)を刊行したベネディクト・モレルらの遺伝学やモロー・ド・トゥールの『病理心理学』(1859)などが流行したが、その背景には革命起こしたブルジョワジー労働者抑圧し、自らの普遍性標榜できなくなっていたため、遺伝学によってブルジョワジー権力財産相続権正当化することがあった。 サン=シモン主義ピエール・ルルーヨーロッパ人祖先の地はアジア高原であるのだから「われわれは今どうしてユダヤ万神殿とどまっている必要があるだろうか」「キリスト教モーゼ啓示イエス啓示呼ばれている切り離され分枝のみを人類中にみるのだろうか」として「われわれはイエス息子でもモーゼ息子でもない人類息子なのだ」と述べた同じくサン=シモン主義者クルテ・ド・リルはゲルマン人至高人種とみるブロンド賛美者であり、人種の質は支配能力によって決定されるのでヨーロッパ人混血しても地球規模で優秀であることが証明される対して黒人異人種を支配したことがなく、彼ら自身の間で隷属しあっているため絶対的な劣等性が証明されているとした。また、血の混合産業進歩観点から見てよいものとした。 クルテ・ド・リルの弟子だったアルテュール・ド・ゴビノー伯爵は『人種不平等論』(1853-56)で、黒人全人種の最下位にあり、黄色人種体力弱く無気力傾向にあり自分たちで社会創造できないとして、この二つ人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化能力思慮備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし、インド・エジプト・アッシリア・中国ギリシアなど歴史上文明はすべて白人種アーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした。アーリア人の血は、ローマ人ギリシャ人セム人混合して溶けていき、白人種混交によって世界表面から消えたとした。ゴビノーによれば白人種にはセム人ハム人、ヤペテアーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族セムハムとは違って純血保ち金髪碧眼、白い肌を持っており、卓越している。しかし、古代ギリシャセム化によって単一化し、ローマ帝国セムの血が流入したため、中背褐色の肌をした「凡庸取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖悪く堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人売り飛ばす用意ができていて、貧困苦痛疲労、死をむやみに怖がる退廃的な人間産出した。ただし、この「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑かけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配批判したわけではなかった。ゴビノー有色人種軽蔑していたわけではなく黒人は力強い普遍的な想像力持っているとしたし、ユダヤ人は自由で強く知的な民であるとした。これは歴史家ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであったワーグナーゴビノー固い友情結ばれていた。ゴビノー同時代では影響力はなかったが、1894年にルートヴィヒ・シェーマンがドイツとフランスゴビノー協会設立しワーグナー派に支援された。シェーマンの友人ルートヴィヒ・ヴィルザーは「ゲルマン人」(1914)などで北方ゲルマン人は太陽の子どもであるとした 影響力少なかったゴビノーに対して宗教史家エルネスト・ルナン第三共和制の公式のイデオローグとなり、アーリア主義宣伝者として大きな影響力誇った1855年セム系言語一般史および比較体系』でルナンアーリア人種数千年の努力の末に自分の住む惑星主人となるとき、偉大な人種創始した聖なるイマユス山を探検するだろうと書き、また『近代社会宗教未来』(1860)で「セム人には、もはやおこなうべき基本的なものは何もないゲルマン人でありケルト人でありつづけよう」「セム人種は使命一神教)を達成する急速におとろえアーリア人種のみが人類運命先頭歩むと書いた。ルナンによればセム人アーリア人の間には深い溝があり「世界で最も陰気土地」であるユダヤの地は極端な一神教を生み、他方キリスト教作った北のガリラヤ快活寛容でさほど厳格でないキリスト教人類愛(アガペー)は、自分の兵の妻バテシバ姦淫しその夫を戦場討死させたダビデ利己主義や、前王ヨラム殺し異教バアル廃した虐殺イスラエルエヒウJehu)からではなく異教徒であったアーリア人祖先産んだとした。イエス思想ユダヤ教から得たものでなく、完全にイエス偉大な魂が単独創造したのであり、イエスにはユダヤ的なものは何もなく、キリスト教とはアーリア人宗教であり「文明化された民族宗教」であるキリスト教だけがヨーロッパ共通の倫理美学提供できるとした。ルナンは、有害なイスラム教ユダヤ教継承した論じた1863年化学者マルスラン・ベルトゥロルナンの手紙で「われわれの祖先アーリア人」と述べイポリット・テーヌは「血と精神共同体」であるアーリアの民を賛美した他方R・Fグラウルナン批判して学芸政治男性的な能力を持つインド・ゲルマン人に対してセム人宗教独占する女性的存在であり、神はセム精神とインドゲルマン的性質結婚決定しており、この夫婦世界支配する論じたまた、イグナツ・イサーク・イェフダ・ゴルトツィーハーは「セム人神話持たない」とするルナン批判しヘブライ神話もあるし、ヘブライ人アーリア人同様に人類史建設者であったとし、ユダヤ人ヨーロッパ文化同化させることを要求した東洋学者急進的保守主義者パウル・ド・ラガルド1850年代から合理主義近代主義侵入によってドイツ精神腐食しているなどとして、プロイセンユンカー支配官僚制資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰主張した。『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく気質中にある」として、内面的霊的態度によるドイツ国民霊的再生と、ドイツ民族活性化によるドイツ統一目指した。ラガルドは、パウロによってキリスト教ヘブライ律法のなかに閉じ込められルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家あらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教批判したラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリスト霊性にもとづくゲルマンキリスト教主張したラガルド初期ヘブライ人称賛したが、ユダヤ人律法教義によって化石化され、近代ユダヤ人真の宗教欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀めぐらすような悪に転落した批判しユダヤ教破壊主張したまた、ユダヤ人ドイツ人なりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教棄てないのかと述べ人間バチルス菌旋毛虫談判するではなく根絶するのだとし、ユダヤ人マダガスカル島への追放主張した。このラガルド提案は、ナチスマダガスカル計画影響与えた。ただし、ラガルド宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう。ラガルドユダヤ人以外にも、スラブ人滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人滅ぶだろうとした。ラガルド世紀末ドイツ青年運動ヒトラーローゼンベルグ影響与えトーマス・マンラガルドを「ゲルマニア教師」と称賛しカーライルショーナトルプマサリクラガルド称賛したアーリア主義が高まる一方でユダヤ人人種的な強さについても論じられていった。ジャン・クリスチャン・ブダンは『医学地理学医学統計学』(1857)でユダヤ人長寿死亡率低くあらゆる気候適応できる唯一のコスモポリタン民族」であるとした。自然科学者カール・フォークトは『人間学講義』(1863)でブダン参照してユダヤ人土着の人種助けなしに暮らしていける唯一の人種であるとした。人類起源多系統説のフォークトは、人間形態系列ニグロから始まってゲルマン人によって絶頂達したとした。一方フィルヒョウゲルマン人種は熱帯適応できない確証していた。ドリュモンも『ユダヤフランス』で、ユダヤ人だけがあらゆる気候のもとで生きる先天的能力持っているが「同時に他人に害を与えずに自らを維持することができない」とした。地理学者リヒャルト・アンドレーは、ユダヤ人遺伝的に伝えられる古いユダヤ精神保持するために外部の血の注入輸血打ち勝つことができたとした。 スイス言語学者アドルフ・ピクテは、1859年言語古生物学』で原始アーリア人故地イランとし、アーリア人は「血統から来る美しさ知性によって他のすべての人種優越して」おり、神の企図を担うとした。ピクテによればアーリア人文明化能力賦与されており、発展させる自由を持ち展開し適応する受容性を持つのに対してヘブライ人文明化能力欠けており、保守不寛容特徴とする。 アーリア主義宣伝者としてルナンよりも影響力があったのが、フリードリヒ・マックス・ミュラーである。ミュラー1860年自分アーリアという用語をインド=ヨーロッパという意味で用いた責任者であると述べミュラーインド人ペルシア人ギリシア人ローマ人スラヴ人ケルト人ゲルマン人同一祖先であり、そのなかでアーリア人セム人やトゥラン人種との戦い続けて歴史主人となったとした。しかし、1872年ミュラーストラスブール大学講演ドイツへ愛国心明らかにし、貨幣支配民族主義肥大化警戒しながら、ドイツは昔の素朴な美徳失いつつあるとしたうえで、アーリア人種説は非化科学的であるとした。 1862年,解剖学者ポール・ブロカはアーリア理論確実性のあるものではないが「アーリア人種」という用語は完全に科学的であるとした。セム人種という用語は大きな誤りであるとし、ヘブライの民について「ヘブロイド」という新語提案した。またブロカ頭蓋測定器具数多く作った当時頭蓋学ではヨーロッパ人頭蓋複雑な凹凸持ち劣等人種よりも優秀であるとされた。ブローカ弟子のトピナールは、フランス人純血アーリア人ではないとしながら有色人種数えることに遺伝的生理学的な不適性があり、アーリア人数学への適性を持つとした。1893年にトピナールは、ガリア人金髪長頭征服者と、褐色の髪で背の低い短頭の被征服者から成り立っているとして、金髪戦死商人実業家になったが、短頭人は多産将来フランスは彼らのものになるではないか述べた1867年聖職者ダンバー・ヒース卿はセム人種はキリスト悪魔とみたが、アーリア人種キリストに神をみたと述べたアーリア人種キリスト教教義作ったが、三位一体セム人本能無縁であったとして、キリスト教あらゆる点でアーリア的な宗教であるとした。 ルイ・ジャコリオの『インドにおけるバイブル』(1868)でモーゼインド神話マヌであり、イエスゼウスで、旧約迷信寄せ集めにすぎず、ユダヤ人堕落した民であり、モーゼファラオ慈悲育てられ狂信的な奴隷であるとした。イギリスの政治家(首相グラッドストーンはジャコリオの信奉者であったニーチェ『悲劇の誕生』(1871)でアーリア本質セム本質区別したアメリカ奴隷制支持者ノットとグリッドンは『人類類型』(1854)でユダヤ人種や黒人種は別個に作られたとした。文化人類学エドワード・タイラーは、言語人種正確に一致しない警戒しながら「わがアーリア祖先」について語ったオーストリアの文化史学者ユリウス・リッペルトはアーリア人農耕民族とし、セム人遊牧民族農業能力がなく、白人種の「枯れた小枝」とした。 フランス博物学者カトルファージュは普仏戦争(1870-71)でパリ包囲された時、プロイセンによる野蛮アーリア人先行する原始住民のものでしかありえないプロシア人は真のゲルマン人ではなくフィン人またはスラブ-フィン人であり、高い文明対すフィン人の暗い恨みによってパリ美術館砲撃されたとした。カトルファージュの説に対してドイツイタリアイギリス学者非難したドイツ民族学者アドルフ・バスティアンは、プロイセンにはフィン人スラブ人もいないし、ゲルマン人はこれらを完全に吸収して解体してしまったとし、東へ進むドイツ人強者法則生存闘争法則に従って弱い人種仮借なく放逐したし、ゲルマン人ケルト-ラテンおしゃべりによって心をくもらされる必要はなかったとした。 解剖学者ルドルフ・フィルヒョウは1871年統一ドイツ全域兵士頭蓋測定試みたが軍が拒否したため、髪、眼、顔色などの特徴生徒調査へと変更しオーストリアベルギースイス協力得られた。調査ではユダヤ人除かれた。10年間の調査では生徒1500対象となり、またフィルヒョウ1885年フィンランド調査したフィンランド一般意見逆に圧倒的な比重金髪であったため、フランスのカトルファージュの説は無に帰したフィルヒョウ調査で、西へ向かったゴート人フランク人ブルグンド人などのゲルマン人土着の住民のなかに埋まってしまったが、東へ向かったゲルマン人は「純粋にドイツ的な新し民族性」を形成し、またスラヴ人侵入確認されなかった。なお、フィルヒョウゲルマン民族主義者ではなく汎ゲルマン主義反ユダヤ主義批判して警告していた。 エルンスト・フォン・ブンゼンは1889年アダムアーリア人であり、セム人であるとした。哲学者フイエは1895年フランス人アーリア要素減少してケルト-スラヴ人またはトゥラン人種になりつつあり、ヨーロッパゆっくりとロシア化していると警告した19世紀までのドイツ学者、ペシェ、ペンカ、ヘーン、リンデンシュミットらは原始アーリア人金髪青い目をした長頭人種とした。他方フランスのシャヴェ、ド・モルティユ、ウィヴァルフィらは原始アーリア人ガリア人のような短頭人種であるとした。これらの大陸理論に対してイギリス言語学者アイザック・テイラーは1890年に、原始アーリア人はウラル・アルタイの短頭人種であるとした。 19世紀末になるとアーリア説について懐疑的な見解出されるようになり、1892年考古学者サロモン・ライナハは原始アーリア人についての説は根拠のない仮説で、それが今も存在しているかのように語ることはばかげたことだと述べた。 フリードリヒ・フォン・ヘルヴァルトは『文化史』(1896-98)において、ユダヤ教とキリスト教矛盾セム人アーリア人矛盾帰着されるとした。

※この「「セム人」とアーリア主義」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「「セム人」とアーリア主義」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。

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