「セム人」とアーリア主義
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「反ユダヤ主義」の記事における「「セム人」とアーリア主義」の解説
19世紀にはアーリア人とセム人という二分法が研究者によって受け入れられた。 歴史家ジュール・ミシュレは『ローマ史』(1831)でセム人とインド-ゲルマン人との長い戦いについて語り、またインドを人種と宗教の発祥地であるとし、『人類の聖書』(1864)では、われわれの祖先であるアーリア人・インド人・ペルシア人・ギリシア人は太陽の下で生まれた光の息子であるとし、他方のメンフィス (エジプト)人・カルタゴ・ティールとユダヤ人は南部の暗い性格であり、ユダヤの聖書は偉大ではあるが陰気でやっかいな曖昧さに満ちていると書いた。また、ミシュレはユダヤ人は純粋な人種であり、ユダヤの不幸はこの純粋さにあるとみなした。それに対しドイツはスイス、スウェーデンにズエーヴェン人を、スペインにゴート人を、ロンバルディアにランゴバルド人を、イギリスにアングロサクソン人を、フランスにフランク人を与えたようにドイツ人はすすんで自国から出て、また自分の国に快く外国人を受け入れ歓待する。ドイツ人のエゴイズムを捨て去る自己犠牲の精神を「南部の人たち」は嘲笑するが、これがゲルマン人種を偉大にしたとミシュレは論じた。 バルザックの『ルイ・ランベール』(1832)では「モーゼの書は恐怖の刻印が押されている」とし、破局のもとで生きのびるた人が避難したのはアジアの高原であり、聖書の民はヒマラヤとコーカサスにぶらさがっていた人間の巣箱からの一群にすぎない、と書いた。 1843年、人類学者グスタフ・クレムは、人類を能動的人種と受動的人種に分けて、人類が完全になるのはこの二つの人種の混合によるとした。受動的人種にはスラブ人、ロシア人があり、能動的人種にはラテン人が入るが、ゲルマン人はそのラテン人をつねに打ち負かし、ヨーロッパの王位を占めているとした。 1845年、インド学者クリスチャン・ラッセンは、エゴイストで排他的なセム人はインド-ゲルマン人を特徴づけている魂の調和のとれた均衡を持っていないし、哲学はセム人のものでなく、インド-ゲルマン人から借り受けただけだとした。同1845年、スウェーデンの頭蓋学者アンドレーアス・レツィウスは、すぐれた魂の能力を持っているのはスカンジナビア人、ドイツ人、イギリス人、フランス人の長頭の人種で、ラプランド人、フィン人、スラブ-フィン人、ブルトン人のような短頭人種は遅れた民であるとした。 フランスは人種決定論の発祥の地であり、キリスト教から解放された科学法則によって、人種の研究が進展した。フランス系イギリス人の博物学者W.F.エドワーズはユダヤ人を人種とみなした。バルテルミ・デュノワイエは人種の不平等を嘆きながら、チュートン人・ゲルマン人は優秀人種であるとした。ジョゼフ・ド・メーストルは、野蛮人を改良不可能の生まれながらの犯罪者であるとし、その祖先はなんらかの前代未聞の罪を犯したとして、人間は神の前で平等でなはいとした。東洋学者エミール・ビュルヌフはセム人や中国人はキリスト教や形而上学の美しさを理解できないとした。 1850年代には遺伝学者プロスパー・ルーカスや『変質論』(1857)を刊行したベネディクト・モレルらの遺伝学やモロー・ド・トゥールの『病理心理学』(1859)などが流行したが、その背景には革命を起こしたブルジョワジーが労働者を抑圧し、自らの普遍性を標榜できなくなっていたため、遺伝学によってブルジョワジーの権力と財産の相続権を正当化することがあった。 サン=シモン主義者ピエール・ルルーはヨーロッパ人の祖先の地はアジアの高原であるのだから「われわれは今どうしてユダヤの万神殿にとどまっている必要があるだろうか」「キリスト教、モーゼの啓示、イエスの啓示と呼ばれている切り離された分枝のみを人類の中にみるのだろうか」として「われわれはイエスの息子でもモーゼの息子でもない。人類の息子なのだ」と述べた。同じくサン=シモン主義者クルテ・ド・リルはゲルマン人を至高の人種とみるブロンドの賛美者であり、人種の質は支配能力によって決定されるのでヨーロッパ人は混血しても地球規模で優秀であることが証明されるの対して、黒人は異人種を支配したことがなく、彼ら自身の間で隷属しあっているため絶対的な劣等性が証明されているとした。また、血の混合は産業と進歩の観点から見てよいものとした。 クルテ・ド・リルの弟子だったアルテュール・ド・ゴビノー伯爵は『人種不平等論』(1853-56)で、黒人は全人種の最下位にあり、黄色人種は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種のアーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした。アーリア人の血は、ローマ人、ギリシャ人、セム人と混合して溶けていき、白人種は混交によって世界の表面から消えたとした。ゴビノーによれば、白人種にはセム人、ハム人、ヤペテ(アーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している。しかし、古代ギリシャはセム化によって単一化し、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出した。ただし、この「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった。ゴビノーは有色人種を軽蔑していたわけではなく、黒人は力強い普遍的な想像力を持っているとしたし、ユダヤ人は自由で強く知的な民であるとした。これは歴史家ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた。ゴビノーは同時代では影響力はなかったが、1894年にルートヴィヒ・シェーマンがドイツとフランスでゴビノー協会を設立し、ワーグナー派に支援された。シェーマンの友人ルートヴィヒ・ヴィルザーは「ゲルマン人」(1914)などで北方ゲルマン人は太陽の子どもであるとした 影響力の少なかったゴビノーに対して、宗教史家エルネスト・ルナンは第三共和制の公式のイデオローグとなり、アーリア主義の宣伝者として大きな影響力を誇った。1855年『セム系言語の一般史および比較体系』でルナンはアーリア人種が数千年の努力の末に自分の住む惑星の主人となるとき、偉大な人種を創始した聖なるイマユス山を探検するだろうと書き、また『近代社会の宗教の未来』(1860)で「セム人には、もはやおこなうべき基本的なものは何もない。ゲルマン人でありケルト人でありつづけよう」「セム人種は使命(一神教)を達成すると急速におとろえ、アーリア人種のみが人類の運命の先頭を歩む」と書いた。ルナンによれば、セム人とアーリア人の間には深い溝があり「世界で最も陰気な土地」であるユダヤの地は極端な一神教を生み、他方のキリスト教を作った北のガリラヤは快活で寛容でさほど厳格でない。キリスト教の人類愛(アガペー)は、自分の兵の妻バテシバと姦淫しその夫を戦場で討死させたダビデの利己主義や、前王ヨラムを殺し、異教神バアルを廃した虐殺者イスラエル王エヒウ(Jehu)からではなく、異教徒であったアーリア人の祖先が産んだとした。イエスの思想はユダヤ教から得たものでなく、完全にイエスの偉大な魂が単独で創造したのであり、イエスにはユダヤ的なものは何もなく、キリスト教とはアーリア人の宗教であり「文明化された民族の宗教」であるキリスト教だけがヨーロッパ共通の倫理と美学を提供できるとした。ルナンは、有害なイスラム教がユダヤ教を継承したと論じた。1863年、化学者マルスラン・ベルトゥロはルナンへの手紙で「われわれの祖先のアーリア人」と述べ、イポリット・テーヌは「血と精神の共同体」であるアーリアの民を賛美した。他方、R・F・グラウはルナンを批判して、学芸・政治の男性的な能力を持つインド・ゲルマン人に対して、セム人は宗教を独占する女性的存在であり、神はセム的精神とインドゲルマン的性質の結婚を決定しており、この夫婦は世界を支配すると論じた。また、イグナツ・イサーク・イェフダ・ゴルトツィーハーは「セム人は神話を持たない」とするルナンを批判し、ヘブライ神話もあるし、ヘブライ人もアーリア人と同様に人類史の建設者であったとし、ユダヤ人をヨーロッパ文化に同化させることを要求した。 東洋学者で急進的保守主義者のパウル・ド・ラガルドは1850年代から合理主義や近代主義の侵入によってドイツ精神が腐食しているなどとして、プロイセンのユンカー支配、官僚制、資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰を主張した。『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく、気質の中にある」として、内面的・霊的態度によるドイツ国民の霊的再生と、ドイツ民族の活性化によるドイツ統一を目指した。ラガルドは、パウロによってキリスト教はヘブライの律法のなかに閉じ込められ、ルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家とあらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教を批判した。ラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリストの霊性にもとづくゲルマン的キリスト教を主張した。ラガルドは初期ヘブライ人を称賛したが、ユダヤ人は律法と教義によって化石化され、近代のユダヤ人は真の宗教を欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀をめぐらすような悪に転落したと批判し、ユダヤ教の破壊を主張した。また、ユダヤ人がドイツ人になりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教を棄てないのかと述べ、人間はバチルス菌や旋毛虫と談判するのではなく根絶するのだとし、ユダヤ人をマダガスカル島への追放を主張した。このラガルドの提案は、ナチスのマダガスカル計画に影響を与えた。ただし、ラガルドは宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう。ラガルドはユダヤ人以外にも、スラブ人は滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人は滅ぶだろうとした。ラガルドは世紀末ドイツの青年運動、ヒトラー、ローゼンベルグに影響を与え、トーマス・マンはラガルドを「ゲルマニアの教師」と称賛し、カーライル、ショー、ナトルプ、マサリクもラガルドを称賛した。 アーリア主義が高まる一方で、ユダヤ人の人種的な強さについても論じられていった。ジャン・クリスチャン・ブダンは『医学地理学・医学統計学』(1857)でユダヤ人は長寿で死亡率が低く、あらゆる気候に適応できる「唯一のコスモポリタン民族」であるとした。自然科学者カール・フォークトは『人間学講義』(1863)でブダンを参照してユダヤ人は土着の人種の助けなしに暮らしていける唯一の人種であるとした。人類起源多系統説のフォークトは、人間の形態の系列はニグロから始まってゲルマン人によって絶頂に達したとした。一方、フィルヒョウはゲルマン人種は熱帯に適応できないと確証していた。ドリュモンも『ユダヤのフランス』で、ユダヤ人だけがあらゆる気候のもとで生きる先天的能力を持っているが「同時に他人に害を与えずに自らを維持することができない」とした。地理学者リヒャルト・アンドレーは、ユダヤ人は遺伝的に伝えられる古いユダヤ精神を保持するために外部の血の注入や輸血に打ち勝つことができたとした。 スイスの言語学者アドルフ・ピクテは、1859年『言語古生物学』で原始アーリア人の故地をイランとし、アーリア人は「血統から来る美しさと知性によって他のすべての人種に優越して」おり、神の企図を担うとした。ピクテによれば、アーリア人は文明化の能力を賦与されており、発展させる自由を持ち、展開し適応する受容性を持つのに対して、ヘブライ人は文明化の能力に欠けており、保守と不寛容を特徴とする。 アーリア主義の宣伝者としてルナンよりも影響力があったのが、フリードリヒ・マックス・ミュラーである。ミュラーは1860年、自分はアーリアという用語をインド=ヨーロッパという意味で用いた責任者であると述べ、ミュラーはインド人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人、スラヴ人、ケルト人、ゲルマン人は同一の祖先であり、そのなかでアーリア人はセム人やトゥラン人種との戦いを続けて歴史の主人となったとした。しかし、1872年、ミュラーはストラスブール大学講演でドイツへの愛国心を明らかにし、貨幣の支配と民族主義の肥大化に警戒しながら、ドイツは昔の素朴な美徳を失いつつあるとしたうえで、アーリア人種説は非化科学的であるとした。 1862年,解剖学者ポール・ブロカはアーリア理論は確実性のあるものではないが「アーリア人種」という用語は完全に科学的であるとした。セム人種という用語は大きな誤りであるとし、ヘブライの民について「ヘブロイド」という新語を提案した。またブロカは頭蓋測定器具を数多く作った。当時の頭蓋学ではヨーロッパ人の頭蓋は複雑な凹凸を持ち、劣等人種よりも優秀であるとされた。ブローカの弟子のトピナールは、フランス人は純血アーリア人ではないとしながら、有色人種は数えることに遺伝的生理学的な不適性があり、アーリア人は数学への適性を持つとした。1893年にトピナールは、ガリア人は金髪で長頭の征服者と、褐色の髪で背の低い短頭の被征服者から成り立っているとして、金髪の戦死は商人や実業家になったが、短頭人は多産で将来フランスは彼らのものになるのではないかと述べた。 1867年、聖職者ダンバー・ヒース卿はセム人種はキリストを悪魔とみたが、アーリア人種はキリストに神をみたと述べた。アーリア人種はキリスト教の教義を作ったが、三位一体はセム人の本能に無縁であったとして、キリスト教はあらゆる点でアーリア的な宗教であるとした。 ルイ・ジャコリオの『インドにおけるバイブル』(1868)でモーゼはインド神話のマヌであり、イエスはゼウスで、旧約は迷信の寄せ集めにすぎず、ユダヤ人は堕落した民であり、モーゼはファラオの慈悲で育てられた狂信的な奴隷であるとした。イギリスの政治家(首相)グラッドストーンはジャコリオの信奉者であった。ニーチェは『悲劇の誕生』(1871)でアーリア的本質とセム的本質を区別した。 アメリカの奴隷制支持者のノットとグリッドンは『人類の類型』(1854)でユダヤ人種や黒人種は別個に作られたとした。文化人類学エドワード・タイラーは、言語と人種は正確に一致しないと警戒しながら「わがアーリアの祖先」について語った。オーストリアの文化史学者ユリウス・リッペルトはアーリア人を農耕民族とし、セム人は遊牧民族で農業の能力がなく、白人種の「枯れた小枝」とした。 フランスの博物学者カトルファージュは普仏戦争(1870-71)でパリが包囲された時、プロイセンによる野蛮はアーリア人に先行する原始住民のものでしかありえない、プロシア人は真のゲルマン人ではなく、フィン人またはスラブ-フィン人であり、高い文明に対するフィン人の暗い恨みによってパリの美術館は砲撃されたとした。カトルファージュの説に対してドイツ、イタリア、イギリスの学者は非難した。ドイツの民族学者アドルフ・バスティアンは、プロイセンにはフィン人もスラブ人もいないし、ゲルマン人はこれらを完全に吸収して解体してしまったとし、東へ進むドイツ人は強者の法則、生存闘争の法則に従って弱い人種を仮借なく放逐したし、ゲルマン人はケルト-ラテンのおしゃべりによって心をくもらされる必要はなかったとした。 解剖学者ルドルフ・フィルヒョウは1871年、統一ドイツの全域で兵士の頭蓋測定を試みたが軍が拒否したため、髪、眼、顔色などの特徴の生徒の調査へと変更し、オーストリア、ベルギー、スイスの協力も得られた。調査ではユダヤ人は除かれた。10年間の調査では生徒1500万が対象となり、またフィルヒョウは1885年にフィンランドも調査した。フィンランドが一般の意見と逆に圧倒的な比重で金髪であったため、フランスのカトルファージュの説は無に帰した。フィルヒョウの調査で、西へ向かったゴート人、フランク人、ブルグンド人などのゲルマン人は土着の住民のなかに埋まってしまったが、東へ向かったゲルマン人は「純粋にドイツ的な新しい民族性」を形成し、またスラヴ人の侵入も確認されなかった。なお、フィルヒョウはゲルマン民族主義者ではなく、汎ゲルマン主義や反ユダヤ主義を批判して警告していた。 エルンスト・フォン・ブンゼンは1889年、アダムはアーリア人であり、セム人は蛇であるとした。哲学者フイエは1895年、フランス人はアーリア的要素が減少してケルト-スラヴ人またはトゥラン人種になりつつあり、ヨーロッパはゆっくりとロシア化していると警告した。 19世紀までのドイツの学者、ペシェ、ペンカ、ヘーン、リンデンシュミットらは原始アーリア人を金髪で青い目をした長頭人種とした。他方、フランスのシャヴェ、ド・モルティユ、ウィヴァルフィらは原始アーリア人をガリア人のような短頭人種であるとした。これらの大陸の理論に対してイギリスの言語学者アイザック・テイラーは1890年に、原始アーリア人はウラル・アルタイの短頭人種であるとした。 19世紀末になるとアーリア説について懐疑的な見解が出されるようになり、1892年、考古学者サロモン・ライナハは原始アーリア人についての説は根拠のない仮説で、それが今も存在しているかのように語ることはばかげたことだと述べた。 フリードリヒ・フォン・ヘルヴァルトは『文化史』(1896-98)において、ユダヤ教とキリスト教の矛盾はセム人とアーリア人の矛盾に帰着されるとした。
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