小沢一郎 来歴

小沢一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 01:10 UTC 版)

来歴

生い立ち

岩手県出身の弁護士政治家である小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区御徒町に生まれた。

父・佐重喜は当時、東京府会議員をしていた[5]。母・みちは元千葉県議会議員荒木儀助の四女である[注 2]。父は44歳、母は42歳と、(当時としては)両親が高齢になってから生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという[5]本籍地は岩手県奥州市(当時水沢町)。

3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した[6]

学生時代

水沢町立水沢小学校を経て、水沢市立常盤中学校の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。

東京都立小石川高校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。その後、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学する。大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。身体が大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこのニックネームがつけられたという[7]。在学中は気賀健三のゼミに所属。入学当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという[8]

1967年(昭和42年)春に、大学を卒業する。弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科で法律を学ぶ[9][注 3]。日大大学院では、家族法を専門とする高梨公之日大名誉総長)から司法試験(弁護士教育)と論文指導を受けた。

父の死

1968年(昭和43年)5月8日、父・佐重喜が心不全で急逝[10]、これをきっかけに弁護士になることを断念した[11]

自由民主党時代

若手、中堅議員時代

田中角栄(左)と

1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い、第32回衆議院選挙旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた[12]。なお小沢は、田中角栄内閣において1期生ながらも「田中の秘蔵っ子」として力を振るった[13]。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった[12]。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。

衆院議員2期目だった1973年に田中角栄の後援をしていた新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女である和子と結婚した[14]

1982年(昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する[15]1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通し、議席を増やした。その後に行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では共産党が強い選挙地盤である京都での2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は2人擁立論を主張、谷垣禎一野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割り(谷垣12万5209票、野中12万1890票、差は3319票)で2人とも当選させた[15](なお、この補選で次点で落選した有田光雄有田芳生の実父)。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された[16]

1985年12月、衆議院議院運営委員長を務める[17]。当時は衆議院議員運営委員長を退任した後には入閣することが慣例化していた。しかし就任から1年後の第2次中曽根再改造内閣では入閣すると思われていたが、できなかった[15]。これは田中が中曽根に入閣させないよう働きかけたものと見られている。その後、もう1年委員長を務めている[15][17]。委員長在任中に国会運営について学んだ[15]

1985年(昭和60年)に第2次中曽根再改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長として初入閣した。当時43歳だったが、初当選から16年を経ており、同期当選者の中では比較的遅い入閣だった。同年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に反旗を翻した竹下登金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成し、2年後の1987年(昭和62年)に経世会として独立した。

竹下派時代

竹下派内では先輩の小渕恵三橋本龍太郎らとともに竹下派七奉行の一人に数えられ、竹下の総裁就任に奔走した。同年発足した竹下内閣では内閣官房副長官に就任した。消費税導入など税制改革を巡る国会審議の目処がたたない中、「事実上の国対委員長」と呼ばれるほどに野党対策に尽力し、民社党を審議、採決に応じさせることに成功した。こうして党内での評価を高めるとともに、この時期は竹下内閣における日米間の建設市場開放協議や、宇野内閣における電気通信協議といった困難な交渉を取りまとめたことで、米政府関係者にも「タフ・ネゴシエーター」として名を知られるようになった。なお、宇野内閣期に経世会の事務総長に就任している。

竹下派、特に金丸の意向によって1989年8月に第1次海部内閣が成立した際、金丸の推薦により47歳の若さで党幹事長に就任した。金丸、竹下とともに、政権の実質的な実力者となり、ねじれ国会下で公明党など野党とのパイプを駆使して国会対策にあたった。リクルート事件後初の総選挙で苦戦が予想された1990年(平成2年)の第39回衆議院選挙に勝利。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集めた手腕が「剛腕」と称された。同年8月、湾岸戦争が勃発すると、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省や、ハト派である海部俊樹首相の慎重論を抑え、法案を提出させた(なお、この法案は野党や後藤田正晴ら自民党ハト派議員の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立する)[18]。なお小沢自身は日本改造計画の中でPKFへの自衛隊参加も許されるという立場を表明していた。

この頃は「ミスター外圧」などと呼ばれたマイケル・アマコスト駐日大使が、首相である海部を飛び越えて小沢(加えて金丸)と直接協議することが常態化しており、アマコストは海部より小沢と会った回数のほうが多いとも言われた[19]日米構造協議でも大蔵省の強い反対にもかかわらず、公共投資を10年間で430兆円とすることで妥結したが[20]、これも金丸・小沢・アマコストの3者が政府に先立って金額に到るまで協議し、すでに話をつけていたという[21]。同年9月、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。また大韓民国盧泰愚大統領が訪日した際には、党役員会で戦争責任問題における共同声明や天皇談話の内容に関し「これ以上何を謝ればいいんだ」と謝罪を明文化することを拒絶したとも取れる発言をしたと報道された。[22]

自衛隊海外派遣のような懸案を抱える中、ねじれ国会のもとで政権運営を行うためには野党の協力が必要であるため、国対族の金丸のつてで小沢は公明党民社党に接近する。両党との協力の一環として、第12回統一地方選挙における東京都知事選挙で、自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立する。しかし粕谷茂をはじめ、当時の自民党都連幹部が鈴木を支援したこともあり、90万票近い大差で敗北した。なお、この都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談して出馬を断念させたが、多額の金銭が動いたと一部メディア[要出典]に報じられた。小沢が指揮した統一地方選挙全体では自民党の勝利であったものの、小沢は海部に自ら申し出て、都知事選の責任を取り党幹事長を辞任した。この辞任は公明党・民社党に義理を立てた形にもなり、自公民路線の維持に寄与し、また後の非自民連立政権におけるワン・ワン・ライスの伏線ともなった。

幹事長辞任の直後、経世会会長代行に就任した。会長の金丸、派閥オーナーの竹下とともに「金竹小」体制で最大派閥の経世会をリードし、引き続き海部政権の実力者であり続けた。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、首相再登板を狙う竹下との確執を深める。この年の6月、狭心症で倒れて日本医科大学付属病院に入院、40日余りの療養生活を送った[注 4]

同年、首相の海部は政治改革法案が国会で審議未了で廃案となったことを受け、マスコミに対して「重大な決意で臨む」と発言。これは衆議院の解散を示唆する発言であることが明らかだったため、党内反主流派の反発を招いた。加えて党内主流派として海部を支えていた竹下派の小沢も、マスコミの前で「(海部は)何を言うちょるの」と発言した。海部は党内基盤が脆弱だったが支持率は高かったため、解散権行使をめぐる神経戦をマスコミを媒介して行うことで世論の支持を得ようとしたとみられるが、これが裏目に出てほどなく首相職の辞任を表明することとなった(「海部おろし」参照)。この際、金丸が小沢に対し次回総裁選に出馬して首相後継を狙うよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症、心筋梗塞のため日本医大病院に入院した。)を理由にこれを固辞したとされる。のちに小沢は「首相になりたいのであれば、この時になっていた」とたびたび発言している。週刊朝日のインタビューで「経世会は最大派閥で宮沢さんも渡辺ミッチーさんも僕が出馬するなら協力すると言ってくれていましたから、あの時、「はい」と言えば総理になっていました。宮沢さん、渡辺さんの心境を思うと若い僕が飛び越えて総理ということはできないという気持ちでした。少し前、心臓を患ったばかりで精神的にも準備が出来ていなかったという面があり、固辞しました。」[23]と述べている。

最大派閥の経世会が独自の総裁候補を立てた場合には宮沢派三塚派渡辺派は「三派連合」で対抗する構えを見せていたが、独自候補を立てないことが明らかになると一転し、三派がそれぞれ経世会の支持を求めて争うようになった。10月10日、経世会が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺、三塚博らと自身の個人事務所でそれぞれ面談した(いわゆる「小沢面接」)。当時は竹下派の支持が事実上次の総裁を決定する状況にあり、当選回数あるいは年齢で上回る派閥の領袖たる総裁候補を自分の事務所に呼びつけ、次期首相を品定めするかのような振る舞いは傲慢であると批判されるとともに、当時の竹下派の権勢を物語るものと捉えられ、今日に至るまで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられている(平野貞夫によれば、当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、推薦する側の小沢の側から訪問するのも筋が違うため、小沢の事務所で面談することになったという)[24]。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した。竹下派は最終的に宮澤喜一を支持し、宮澤政権が誕生することになったが、小沢自身は渡辺を推していたという[25]。1991年(平成3年)の青森県知事選挙では六ヶ所再処理工場誘致を巡り、激しい反対運動の中で行われ、劣勢と言われていた北村正哉候補の支援を党幹事長として頭越しに行い、関係者への締め付けにあたり、北村当選に大きく貢献した[26]宮澤内閣の組閣にあたっても絶大な影響力を行使されたとされ、自派はもちろん他派閥からも自身に近い議員を大量に入閣させた。(加藤紘一渡辺秀央等。)

竹下派分裂と羽田派結成

1992年(平成4年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年(平成5年)2月17日証人喚問を受けている)。小沢はこの捜査に不満を抱いており、宮澤に対して捜査を止めるよう要請したが動かなかったため、「(宮澤を)総理に推したのは間違えたんだなあと思った。(恩義のある金丸を守らないなんて)官僚出身というのは恐ろしいよ。」と述懐している[25]。小沢は検察への徹底抗戦を訴えるが、梶山らは罪を認めて略式起訴で済ませることを主張、結果的に後者の道が選ばれたが、これを機に派内の対立が深まることになる(一・六戦争[27]。金丸の後継会長に小沢は、金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す竹下、橋本、梶山静六らと対立した。衆議院は数が拮抗していたが、参議院は竹下自らが関与して小渕支持を決定した[28]。この結果として後継会長は小渕に内定した。小沢はこれを受け入れず、羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した[29]

宮澤改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官船田元)と科学技術庁長官中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には、派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は、主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。

こうした中で小沢は、5月20日に自著「日本改造計画」を発表した(店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめたものであるが、ここで提示された軍事面も含めた積極的な国際貢献、新自由主義的な経済改革、政権交代可能な二大政党制を可能とする政治改革といった主張は、1990年代以降の政治課題の多くを先取りしたものだった。

新生党時代・非自民非共産連立の細川政権成立

1993年(平成5年)6月18日野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決、宮澤内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。小沢らは当初、自らは党に残り、逆に梶山執行部を党紀委員会にかけて党改革を行うといったシナリオを描いていたが[30]、同年6月21日に不信任決議には反対した武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会やぶら下がり取材を断り、記者クラブに属さない国外メディアや週刊誌記者も含めた記者会見を報道機関との接点とする。その後、事実でないとする記事を書いた報道機関記者会見から締め出したため、公党の指導者は無条件で取材に応じるべきとするジャーナリズムからの批判を招いた。

7月18日第40回衆議院議員総選挙において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮澤内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出された)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民・非共産勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。

武村正義との対立

細川政権下で小沢は、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官武村正義と激しく対立した。

国民福祉税構想決定と政権内対立

1994年(平成6年)、小沢と大蔵事務次官斎藤次郎が中心となり、3%の消費税を廃止し、7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、武村外しを目的とした内閣改造を目論むも頓挫、政権の主導権を奪われた武村や武村率いる「新党さきがけ」は与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、突然辞意を表明した。

細川首相の辞意表明と羽田内閣成立以降

細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫した。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年(平成6年)4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。

羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念、6月25日内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

海部俊樹担ぎ

小沢は羽田の後継の内閣総理大臣候補として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年(平成6年)6月29日、自民党は内閣総理大臣指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、高志会・「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。

村山内閣成立による初の野党議員時代

しかし、決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために小沢の剛腕が必要とされ、大きな動きにはならなかった。

新進党時代

1994年(平成6年)9月28日日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した[31]。海部の就任会見では、臨席した小沢に核心の質問が集中し、海部が「党首は私ですから。」「質問の順番が逆じゃないですか。」といきり立つ一幕もあった。

1995年(平成7年)7月、第17回参議院選挙で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。羽田との決裂は決定的となり、党内に更なる亀裂を生じた。

1996年(平成8年)10月20日第41回衆議院選挙が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため、選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選した。

総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。

1997年(平成9年)、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。

12月18日の党首選挙で、小沢は鹿野を破り再選した。この党首選に先立ち、公明が次期参議院選挙を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求した。12月27日に小沢は旧公明党の参議院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。

自由党時代

結党・与党復帰

1998年(平成10年)1月6日自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆議院議員42名、参議院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。

同年7月12日第18回参議院選挙では苦戦必至と思われていたが、小沢人気もあり、比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参議院選挙後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参議院では自民党の小渕恵三を抑え、菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより、野党共闘はほころびを見せた。

1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始した。小沢は党としては国政選挙を遥かに上回る広告宣伝費を使って、自身の顔写真を用いたポスター数十万枚を全国の街頭に貼り張り巡らし、テレビでも自身の顔写真を全面に押し出したモノクロCMを連日放映して連立交渉を優位に進め、ビル・クリントン訪日直前の同年11月19日、自民党との連立政権について小渕と合意書を交した[32]

1999年(平成11年)1月14日には正式に自自連立政権が発足し、党幹事長の野田毅自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に、衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、およびイギリス型内閣や二大政党制を目指すとして、政府委員制度の廃止と政務次官制から副大臣政務官制への移行と、党首討論設置を含む国会改革を自民党に呑ませた。また、同年発刊された『文藝春秋』9月特別号に「日本国憲法改正試案」を寄稿し、自らの改憲論について語っている[33]

1999年10月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため(野中らは公明を引っ張るために、自由党と連立を組んだという事情もあった)、政権内部での自由党の存在感は必然的に低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが、党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし、小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と応酬し、両者は2000年(平成12年)4月1日に会談するが、合意に達せず結局連立を解消した。直後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した。

分裂

北海道での第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて(2001年7月18日撮影)
北海道での第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて(2001年7月18日撮影)

自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は、政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否した。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。

2000年(平成12年)6月25日の分裂直後に行われた第42回衆議院選挙で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、過去に小沢と対立した旧新進党や、旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は良好とは言い難かった。

2001年(平成13年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、この塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営される。

同年7月29日第19回参議院選挙では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。

民主党時代

民由合併

2002年(平成14年)、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと、及び民主党内の小沢に対する拒否反応のために頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した[34]

自由党と民主党の合併の直前に、自由党は小沢の関連団体であり、側近の平野貞夫が会計責任者を務める改革国民会議に対して13億6816万円の寄付を行った。うち5億6096万円が税金を原資とする政党助成金であった。菅は当時事態を把握し「小沢にしてやられた」と周囲に漏らしていたが、円満に合併するために表沙汰にはしなかった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された[35]

2003年(平成15年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は一兵卒になると宣言して無役となった。11月9日第43回衆議院選挙で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得、11月27日に小沢は代表代行に就任した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが社民党出身者で構成する民主党の派閥新政局懇談会率いる横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした(横路が国政復帰した1996年の衆議院選挙でも、北海道1区において小沢の甥・小野健太郎が新進党新人として出馬し横路と戦う予定だったが、非自民・野党同士で共闘し、町村信孝北海道5区へ選挙区変更し、5区では旧民主党は不戦敗となった)。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。

当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北地方出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。

2004年(平成16年)5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に、小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年(昭和61年)以前に未加入だったとして、代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参議院選挙の後、岡田の要請により党副代表に就任した。

2005年(平成17年)9月11日第44回衆議院選挙で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞して6日後に行われた党代表選挙にも立候補しなかった。立候補しなかった理由には、政権の座が遠のいたことの他に、同年7月3日に投開票が行われた東京都議会議員選挙の結果次第で、岡田を代表辞任に追い込む党内クーデターを鳩山と画策していたとする一部マスコミ報道も影響したとみられている。岡田の後任代表に選出された前原誠司は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、小沢はこれを固辞した。

党代表

2006年(平成18年)3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日民主党代表選挙で小沢は119票を獲得して菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀イタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた[注 5]

代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。また、国会対応では前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。

4月23日、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利した。半年後の9月12日民主党代表選に小沢は無投票で再選した。9月25日、臨時党大会で正式に代表に再任した。その後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。

統一地方選、参院選での躍進

2007年(平成19年)4月8日統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。

4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。

7月29日に行われた、第21回参議院選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。

ねじれ国会

2009年5月12日ロシア首相ウラジーミル・プーチン(右)と

この参議院選挙の結果を受けて、国会野党である民主党が参議院の議事の主導権を握るねじれ国会の状態となった。

8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題について小沢は、アフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した[36]。首相の安倍晋三は事態を打開すべく、小沢との直接会談を検討したが実現せず、自身の体調の悪化などもあり、9月12日に辞任を表明した。結局、テロ特措法は安倍内閣総辞職の影響もあり、期限の延長ができずに失効した。

安倍の後任を決める内閣総理大臣指名選挙9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。

2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があったため、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け11月6日代表続投を表明、11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された(詳細は大連立構想 (日本 2007) を参照)。

その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、11月13日に衆議院本会議で可決、2008年(平成20年)1月11日、民主党が多数を占める午前の参議院本会議では反対多数で否決され衆議院に返付されたが、午後の衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。

続く2008年1月18日に召集された第169回国会は、ガソリン税等の暫定税率の10年間の延長を訴える与党と、暫定税率廃止を主張する野党が真っ向から対立し、ガソリン国会とも呼ばれた。2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席の中で強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と与党を批判し[37]共産党を除く野党は予算委員会を欠席して国会は空転した。日本銀行総裁人事でも財務省大蔵省の事務次官経験者である武藤敏郎田波耕治の総裁就任が相次いで参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。ガソリンなどの暫定税率はこれらの影響で、3月中に延長法案の参議院での採決が出来ず、4月1日で自動車重量税を除く暫定税率が一旦廃止されたのち、衆議院の再可決により1カ月後に復活する事態となった。

2008年9月22日民主党代表選に小沢は無投票で3選した。

2009年(平成21年)5月11日西松建設疑惑関連で公設秘書逮捕されたことを受けて、民主党代表の辞任を表明[38]。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持した。

党代表代行から幹事長へ

2009年(平成21年)8月30日ラフォーレ六本木の民主党開票センターにて民主党代表の鳩山由紀夫(左)と小沢(右)

5月17日、後継の代表となった鳩山由紀夫の要請を受け、選挙担当の代表代行に就任した。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は5年ぶりとなる[39][40][41]第45回衆議院選挙に向けては、小沢は一時公明党代表(当時)の太田昭宏が地盤としている東京12区への国替え立候補を検討。しかし、小沢の代表辞任で効果が薄れたことや、同年の都議選で民主党が圧勝し、「小沢でなくても勝てる」との判断が働いたことから、解散後の8月3日に従来通り岩手4区で立候補することが決まった[42][43]。衆院選では自民党が刺客として擁立した元小沢側近の高橋嘉信らを大差で破り、14選。この時、最多当選回数を渡部恒三(民主・福島4区)、羽田孜(民主・長野3区)、森喜朗(自民・石川2区)らと共に記録した。

衆院選で政権交代を果たした後の9月3日には、鳩山が小沢に幹事長就任を要請し、受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方が出たが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた[44][45][46]

2009年(平成21年)9月15日の民主党両院議員総会において、小沢は正式に幹事長に就任した[47]

2010年(平成22年)1月、東京地検特捜部政治資金規正法違反容疑で、小沢の秘書を務めた石川知裕衆議院議員や小沢一郎の秘書である大久保隆規とほか1人を逮捕し、2月に3人を起訴した。起訴状では20億円を超す虚偽記載であり、政治資金規正法の虚偽記載罪では過去最大の金額となった。一方で小沢は嫌疑不十分、不起訴処分となった。以降9月までに小沢の起訴相当議決と不起訴処分を2度繰り返す。

6月1日、鳩山由紀夫と進退を協議する場において、辞意を表明した鳩山に共に幹事長を辞するよう促され、翌6月2日に幹事長を辞任する意向を表明した[48]

党代表選再立候補

鳩山の後継として民主党の代表、総理大臣に就任した菅直人は、小沢・鳩山代表時代のマニフェストの見直しや小沢と距離を置く議員の要職での起用など、「脱小沢」路線に舵を切った。しかし、2010年(平成22年)7月11日第22回参議院選挙で民主党は現有議席を割り込む敗北を喫し、来たる民主党代表選挙にて、菅の対抗馬として小沢を擁立すべきとの声が党内の一部で上がった。

途中で現職の菅直人に候補を一本化するなどの動きもあったが、小沢は最終的に出馬を決断し、現職の総理大臣である菅直人と一騎討ちで対決、党内を完全に二分する大激戦となった。鳩山由紀夫、羽田孜が小沢支持を打ち出す一方、かつて小沢の盟友と呼ばれた石井一渡部恒三が菅支持に回った(参議院議長西岡武夫は民主党籍が残っていたが、完全中立、棄権に回ることを表明した)。

結果は党員・サポーター票で大差をつけられたことや、小沢支持を表明した羽田グループや鳩山グループの造反などが響いて敗北したが、国会議員票では菅と拮抗する支持を得るなど、引き続き党内で一定の影響力を保持し続けるとの見方もあった。実際、小沢自由党は民主党と合併しなければ衆議院でも1桁政党になると囁かれていたが、合併によって民主党内に小沢チルドレンと呼ばれる若手を中心に確固とした基盤を築いていた。

党員資格停止と離党

2010年10月に陸山会事件検察審査会によって起訴議決され、2011年(平成23年)1月に強制起訴された。

2011年2月22日、小沢一郎が刑事被告人になったことを受けて民主党常任幹事会が提起した「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」とする処分を、民主党倫理委員会は小沢からの弁明を聴取し、その処分は追認する手続きを経て、民主党常任幹事会はその処分を決定した[49]

3月1日に小沢は、「通常の起訴とは異なる」などとして党員資格停止処分を不服とし、民主党常任幹事会に申し立てたが、7月に民主党倫理委員会に却下処分が民主党常任幹事会で了承され、党員資格停止処分が決定した。このため、小沢は代表選の立候補資格および投票権を失った。

2011年3月11日東北地方太平洋沖地震が発生した際には、地元である岩手県が被災したと知り「今からでもいい。一刻も早く飛んでいきたい」と述べ[50]、即座に現地入りを検討した。しかし救護活動の真っ最中に現地入りすれば、警護などで被災者に迷惑をかけることが懸念されたため断念した[50][注 6]。代わりに、岩手県知事ら地元の地方公共団体の職員らに連絡を取り合うなど連携し、その情報を中央省庁など政府関係者に伝え調整を図るなど、政府と自治体との調整役として活動する[50]。2011年3月28日、震災後初めて岩手県を訪問し、山田正彦ら同席のもと[52]岩手県庁にて岩手県知事の達増拓也と会談した[52]。達増に対して、小沢は「(国が)莫大な予算を投じないと復興できない」[52]と主張するなど、復興に対して国の支援の必要性を力説するとともに、自ら政府に対して支援を働きかける考えを示した[52]

2011年5月には、東日本大震災福島第一原子力発電所事故に対する菅政権の対応を不満として、鳩山由紀夫らとともに自民党など野党が提出した内閣不信任案に賛成する意向を示し、小沢一郎事務所に小沢を支持する国会議員71人が集まるなど倒閣の動き(菅おろし)を活発化させた。なお、内閣不信任案に対しては菅から「辞任の言質」を取ったことを理由に小沢自身は欠席を決め、小沢グループとしては自主投票とすることとなった。この行動により、再び民主党執行部から3カ月の党員資格停止の処分を受けている。

2011年8月の菅退陣に伴う民主党代表選挙では、各候補者が投票権のない小沢に支援を要請、「小沢詣で」と大きく注目された。その際、次期代表による処分の扱いも争点となった。2009年衆議院選挙の公約の修正反対の立場から、鳩山由紀夫と連携を取りながら小沢グループとして海江田万里を支援したが、海江田は決選投票野田佳彦に敗れ、小沢の党内における求心力低下が指摘された[53]。2011年8月30日の衆議院内閣総理大臣指名選挙では、刑事被告人ながら1票を獲得した[54]

9月10日、日本大学理事会において、古賀誠の後任として日本大学理事に選任される[55]

2012年(平成24年)1月3日、震災の被害が大きかった岩手県の沿岸部を訪れた[56]

2012年4月、東京地方裁判所の第一審で陸山会事件に関する無罪の判決が言い渡された[57]

2012年3月31日、消費税増税法案が閣議決定されたことについて「増税の前にやるべきことがある」と批判した[58]衆議院本会議における社会保障・税一体改革関連法案の採決では、反対票を投じた[59]

同年7月2日、上記の理由により、同調する議員50人と民主党に離党届を提出した[60]。翌3日、民主党は社会保障・税一体改革関連法案採決での反対及び離党届提出が反党行為に当たるとし、小沢ら37人を除籍処分とする方針を決定した[61][62]。最終的に、同月9日に開催された臨時常任理事会で、衆議院で消費税増税法案に反対した小沢を含む、37人の議員の除籍処分が原案通りに確定した[63]

民主党離党後

新党・国民の生活が第一時代

2012年(平成24年)7月11日、小沢はグループ議員とともに新党・国民の生活が第一を結党し、代表に就任した。新党の綱領は「自立と共生」で脱原発と反増税を掲げる。一方で、それまで一貫して小沢と行動を共にしてきた岩手の地方議員及び後援団体の大規模な離脱が表面化した。

同年11月12日、東京高等裁判所で一審を支持、同月19日に上告が断念されたことで、陸山会事件における小沢の無罪が確定した[64][57]

日本未来の党時代

11月、国民の生活が第一を解党し、日本未来の党へ合流した上で自身は党職に就かないことを表明した。

直後の第46回衆議院選挙において、日本未来の党は61議席から9議席と大幅に議席を減らした。小沢は小選挙区のみで出馬し当選し15選。最多当選回数タイで初当選が同期の渡部恒三福島4区)、羽田孜長野3区)、森喜朗石川2区)が政界を引退したために、2021年第49回衆議院選挙に至るまで単独で最多当選回数を記録し続けることになる。しかし、この選挙においては岩手にある4区のうち、未来が議席を獲得したのは小沢の4区のみであった。小選挙区制度導入以降、2区を除いてすべての選挙区を一貫して小沢の所属政党の候補者が当選してきた中で、初めて小沢の地元での影響力の衰えが指摘された選挙となった。

12月、総選挙の惨敗を受けて、小沢系議員と未来の党代表の嘉田由紀子らとの対立が表面化した。嘉田らが離党する形となり、残留した小沢らは党名を生活の党に改称し、側近の森裕子が代表に就任した。

2013年(平成25年)1月25日、森裕子に代わって小沢が生活の党代表に就任した。同年7月21日に行われた第23回参議院選挙において、森裕子を始め公認した全員が落選し、さらに地元である岩手県では小沢と袂を分かった平野達男が当選した。

山本太郎と合流・「生活の党と山本太郎となかまたち」時代

2014年12月に施行された第47回衆議院議員総選挙の結果、生活の党は政党要件を失った。しかし、12月26日無所属の参議院議員山本太郎が入党し、政党要件を満たした。また、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めた[65][66]

維新の党乗っ取り未遂騒動

2015年下半期頃に維新の党(後に民進党に合流)からおおさか維新の会(現・日本維新の会)が分裂した原因として、表向きには山形市長選に端を発する柿沢未途幹事長の解任騒動が挙げられる。しかし、水面下では橋下徹が党代表選で主導権を握るべく党員も議員も一人一票とする方針を決めたところ、これに小沢が目をつけ、民主党など野党との共闘路線を説く松野頼久を再選させるべく生活の党や維新の党内の小沢系議員に維新の党の党員集めを指示した。小沢に近い議員や側近の松木謙公幹事長代行が1人で約1万人の党員を集めたほか、松野は約3000人、牧義夫国対委員長は約1000人を確保したとされる。これらの動きを察知した橋下は代表選で負ける前に先手を打つ形で党を割ることを決断したと産経新聞の政治部編集委員は分析している[67]

自由党への改称

2016年10月12日、記者会見で政党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」から、自由党に変更することを発表した[68]2017年第48回衆議院議員総選挙では自由党は公認候補を擁立せず、自身は無所属で岩手県第3区から出馬し、17選。

国民民主党を経て立憲民主党への再合流

2019年1月22日には国民民主党玉木雄一郎代表と会談し、国民・自由両党を合流させる方針で一致し[69]、4月26日に正式に国民民主党に合流し、自由党を解散した[70]。小沢としてはかつて袂を分かった旧民主党の系譜上の政党に7年ぶりに所属する形となった。

翌5月、国民民主党の総合選対本部長相談役に就任[71]。同年夏の第25回参議院議員通常選挙では、街頭演説などの表立った動きは避け、水面下でのどぶ板選挙に徹した[72]。同年11月には、自由党との合流に反発して離党した黄川田徹の後任として国民民主党岩手県連の代表に就任した[73]

2019年12月28日に在職50年を迎えた。恒例となっている在職50年特別表彰については、「在職50年といっても、政治活動を(現役で)展開している」として衆院事務局からの打診を保留した[74][75]

2020年9月15日、立憲民主党と国民民主党の合流新党である新「立憲民主党」結党に参加。同年10月11日、立憲民主党岩手県連の結成大会が開かれ、小沢が代表に就任した[76]

初の小選挙区落選・比例復活以降

2022年10月6日台北駐日経済文化代表処駐日代表謝長廷、衆議院議員牧義夫川島智太郎

2021年10月31日に行われた第49回衆議院総選挙において小選挙区において自由民主党公認の藤原崇に約9千票の差をつけられて敗北するも、比例東北ブロックで18選を果たす[77][注 7]

中選挙区制から現在の小選挙区比例代表並立制への移行を主導した実質的な張本人であり、かつて「剛腕」や「選挙の神様」と呼ばれるほどの手腕を誇っていた小沢だったが、小選挙区で敗北し比例復活したことは、議員生活初であった。

前年に小沢の後援会会長が亡くなった事も影響したのか、選挙戦序盤から苦戦が報じられ、小沢が初当選以来と言われる初日に異例のお国入りを行うほどであった。また藤原陣営の選対本部長に自由党から出馬して民主党を経て震災後に小沢と袂をわけたかつての側近平野達男が就任しており、また前回藤原が苦戦した一関市対策に送り込まれた秘書が同じく震災後に小沢と袂を分けた黄川田徹の秘書が送り込まれており、かつての側近や忠臣の部下達の離反も大きかった。またかつて小沢が叩き込んだ「川上作戦」の選挙戦術を平野が藤原に叩き込み、かつての側近だけでなく自分の教えた選挙戦術に足を掬われる形となった[78]

同年11月8日、県全体の衆院選の結果の責任を取るとして、立憲民主党岩手県連の代表を辞任した[79]。11月30日、初代党代表の枝野幸男の辞任に伴う2代目の代表選挙が実施。小沢は1回目の投票、決選投票ともに泉健太に票を投じた[80]。12月19日、立憲民主党岩手県連の最高顧問に就任した[81]

2023年5月15日、立憲民主党代表の泉健太BSフジの報道番組「プライムニュース」に出演した際、次期衆院選について、日本共産党と日本維新の会とは選挙協力を行わないと明言した[82]。共産党は反発。5月22日、立憲民主党との競合を辞さずに小選挙区での擁立を積極的に進める方針を示した[83]。6月16日、小沢ら立憲民主党の有志は「野党候補の一本化で政権交代を実現する有志の会」を立ち上げ、記者会見し、泉代表に対し軌道修正を求めた。有志の会の発起人は小沢、阿部知子稲富修二小川淳也鎌田さゆり菊田真紀子手塚仁雄原口一博松木謙公谷田川元柚木道義湯原俊二ら12人。党所属の衆院議員の半数を超える53人が賛同し、「非泉」の動きが表面化した[84][85]

同年6月21日、小沢を中心とする国会議員15人ほどの政策グループ「一清会」が発足したことを会長代行の牧義夫が発表した。小沢は会長に就任した[86][87][88]

2023年9月3日に行われた2023年岩手県知事選挙では、かつて「小沢チルドレン」と呼ばれ小沢に近いとされていた達増拓也を支持し[89]、自民・公明党の推す千葉絢子と事実上の一騎打ちとなったが、達増を勝利に導いた[90]。上述のように小選挙区で初の落選を経験し地元での影響力低下を指摘された小沢であるが[89][91]どぶ板戦術」や他の野党の応援もあり[90]、一定の面子を保つことに成功したと言える。


注釈

  1. ^ 自由民主党時代の派閥は、木曜クラブ田中派)→(田中派の流れを汲む)経世会(竹下派、現在の平成研究会)→改革フォーラム21羽田派)
  2. ^ 新潮45の2010年4月号別冊 『櫻井よしこ編集長「小沢一郎」研究』においてノンフィクション・ライター君島文隆が執筆した記事によると、「荒木儀助なる千葉県議会議員は存在しない」という
  3. ^ 奥野修司『小沢一郎 覇者の履歴書』161頁によれば「本格的に弁護士を目指すために佐重喜が学んだ日本大学大学院の法学研究科に通うことになった。司法試験の短答式試験にはパスしたが、次の論述式試験には合格しなかった。」という。
  4. ^ 元秘書の証言では、狭心症ではなく心筋梗塞であったという
  5. ^ なお、小沢がこの一節を持ち出したのはこれが初めてではなく、新進党時代の著作『語る』でも同様のことを述べている
  6. ^ なお、小沢の元秘書の中には、岩手県にある自宅が被災し、家に戻れなくなった者もいた[51]
  7. ^ 2021年の衆院選岩手3区における自治体ごとの得票数は以下のとおり。
    藤原崇 小沢一郎
    花巻市 26,448 22,297
    北上市 26,153 20,025
    一関市 28,552 27,707
    奥州市 28,061 32,583
    西和賀町 2,812 828
    金ケ崎町 4,628 3,854
    平泉町 2,080 2,068
    118,734 109,362
  8. ^ 大和朝廷のルーツを朝鮮半島とする仮説(4世紀後半に扶余系の騎馬民族が日本列島に入り、征服王朝を立てたとする江上波夫騎馬民族征服王朝説)は多くの議論を呼んだが、岡田英弘によれば、現在ではこれを支持する日本史、考古学の研究者は少数派である[101]
  9. ^ 2002年11月26日付『朝日新聞』インタビューにおいては「終身雇用も年功序列も日本のサラリーマンの既得権益だ。(中略)国家社会のシステムとして機能しなくなっている」と発言していた。
  10. ^ 日本棋院幽玄の間でリアルタイム配信された。また、録画であるがすべてテレビ放送された。棋譜はもちろん主催の週刊碁に掲載。
  11. ^ 小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。ただし、これについて、テレビでおなじみの楽天証券経済研究所山崎元は、「与謝野さんが(勝負の手を)緩めて小沢さんに勝ちを譲ったのではないかという印象を持つ。」[1]としている。真相は全く分からない。
  12. ^ この戦績をうのみにすれば、中堅プロ以上の実力があるというほかない。ただし、著名人アマとの対局はいわゆるご祝儀対局であるのが通常で、プロ側が“気を使って”著名人に“花”を持たせる。
  13. ^ 置き碁。初めから小沢の石が盤上においてあるハンディキャップ戦。3子の場合は3目置かれる。
  14. ^ この対局はフジテレビではないテレビ局で放映された。
  15. ^ 区割り変更により、岩手4区が廃止。
  16. ^ 自由党の党籍を持ったまま、公認を得ず無所属で出馬した。

出典

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小澤一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/25 00:31 UTC 版)

小澤 一郎(おざわ いちろう)




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