ウルグアイ 国名

ウルグアイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/03 05:33 UTC 版)

国名

正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)(ウルグアイ

アルゼンチン共和国とのゆかりのある、アルゼンチン共和国の近隣の国。

歴史

先コロンブス期

現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドチャルーア人グアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。

スペイン植民地時代

1516年にスペインフアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。

平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争英語版で先住民グアラニー人パラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。

独立戦争とアルティーガス

街角に佇むホセ・アルティーガス英語版
フアン・マヌエル・ブラネス画。

フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランススペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス英語版はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ英語版民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。

1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ英語版達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス英語版によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタル東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。

ブラジル戦争とウルグアイの独立

フアン・アントニオ・ラバジェハ。
33人の東方人の誓い

ブラジル帝国ラ・プラタ連合州とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ英語版将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。

しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア英語版大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ英語版がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ英語版の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。

独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ英語版がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ英語版の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。

しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。

南米のスイス

20世紀に入り、最後となった内戦に勝利した、コロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によって、スイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去する頃にはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。

バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが[3]、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦朝鮮戦争の頃まで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。

福祉国家の没落

1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラトゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。

軍事政権時代

トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス英語版が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響[要出典]を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。

民政移管以降

1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し[3]、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。

2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。

政治

ロドー公園から見たメルコスール本部。

国際連合米州機構ラテンアメリカ統合連合メルコスールラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールはモンテビデオに事務局がある。

立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。

議会は二院制で、上院の定員は31名、下院は99名であり、任期は5年となっている。

トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位[4]ラテンアメリカ第一位であり、域内では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[5]

チリと並んでラテン・アメリカでも伝統ある民主主義国家であり、バッジェが現れてからはラテン・アメリカの混乱の中で安定した民主主義と高度な福祉を維持したことにより、一時期は南米のスイスとも呼ばれた。第二次世界大戦後はスイスの制度を参考にバッジェの構想した複数行政制度が1952年憲法で完成し、大統領制は廃止され、9人からなる執政官による執政評議会制度が完成した。世界でも珍しい政治体制により、ウルグアイ人は自らの国を「民主主義の実験室」と呼んだが、1960年代に都市ゲリラトゥパマロスの攻撃が進むと、ゲリラ戦に迅速に対処するために1967年憲法で再び大統領制が導入された。

1973年に、戒厳令を敷いた軍部によってトゥパマロスが鎮圧されると、鎮圧の功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、1973年には事実上の軍政が敷かれた。これによりウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制と呼ばれる軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は強く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票は否決され、1985年に軍政は民政移管されることになった。

2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙スペイン語版で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ(Jorge Larrañaga)候補を抑え当選した。それにより1852年以来の、コロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。

2009年10月末に行われた大統領選挙の最上位2人が候補である決定選挙[注釈 1]が11月29日に行われ「拡大戦線」のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した[6]。ムヒカは、バスケス政権[注釈 2]の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している[7]。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。


注釈

  1. ^ 本選挙におけるムヒカ候補の得票率は47.96%であり過半数では無いので決定選挙が行なわれた。ラカジェ候補の得票率は29.07%。
  2. ^ 2005年に発足した「拡大戦線」のバスケス政権は貧困層支援の変革をはじめとして、最低賃金や年金の増額、貧困家庭への支援金給付、教育予算の増額などを進めてきた。外交では中南米諸国との関係を強め、地域統合を促進してきた。また、新自由主義と対米従属の路線を転換した。

出典

  1. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。
  2. ^ a b c d World Economic Outlook Database, October 2018” (英語). IMF (2018年10月). 2018年12月8日閲覧。
  3. ^ a b 松岡正剛. “反米大陸”. 松岡正剛の千夜一夜・遊蕩篇. 2012年4月7日閲覧。
  4. ^ CPI Index 2018”. トランスペアレンシー・インターナショナル. 2019年9月6日閲覧。
  5. ^ Chile and Uruguay least corrupt countries in Latam 2009-03-25 閲覧
  6. ^ ウルグアイ大統領選 元ゲリラの左派候補当選(スポニチアネックス09年11月30日記事) http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20091130016.html[リンク切れ]
  7. ^ http://www.elpais.com.uy/100301/ultmo-474061/ultimomomento/mujica-asumio-como-presidente(スペイン語)
  8. ^ a b c d e f g パラグアイ国とウルグアイ国の木材事情  西村勝美 (森林総研) No.17 Page.23‑25 1995年10月 JST資料番号 : L1770A ISSN : 1347‑9504
  9. ^ World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2015年1月3日閲覧。
  10. ^ a b c 堀内隆 (2011年4月8日). “〈世界から被災地へ〉元気になるコンビーフ”. 朝日新聞. オリジナルの2017年5月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170525104148/http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104080144.html 
  11. ^ 輸入牛肉に新興勢 ウルグアイ産 19年ぶり登場 – 日本経済新聞2019年6月3日付記事 2019年6月23日閲覧
  12. ^ Atlas Sociodemografico y de la Desigualdad en Uruguay, 2011: Ancestry (PDF)” (Spanish). National Institute of Statistics. p. 15. 2014年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月30日閲覧。
  13. ^ 井上忠恕、後藤信男(著)『ビバ! ウルグアイ』STEP pp.20-28
  14. ^ “Population”. カントリースタディ英語版. オリジナルの2011年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110430025459/http://countrystudies.us/uruguay/30.htm 
  15. ^ “定期報告(ウルグアイ内政・外交:2014年12月)” (PDF). 外務省. (2015年1月). オリジナルの2021年8月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210810160036/https://www.uy.emb-japan.go.jp/japones/Info%20Uruguay/naisei%20gaiko/Naisei%20Diciemb%202014.pdf 
  16. ^ “「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉”. 産経新聞. (2015年11月10日). オリジナルの2016年8月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160815175752/http://www.sankei.com/west/news/151110/wst1511100004-n1.html 
  17. ^ “「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉”. 産経新聞. (2015年11月10日). オリジナルの2016年3月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160320155719/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n2.html 
  18. ^ “「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉”. 産経新聞. (2015年11月10日). オリジナルの2016年2月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160220220316/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n3.html 
  19. ^ “「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉”. 産経新聞. (2015年11月10日). オリジナルの2016年2月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160219233936/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n4.html 
  20. ^ 内田みどり「ウルグアイの新しい社会と女性 先進国の憂鬱」『ラテンアメリカ新しい社会と女性』国本伊代:編、新評論 2000年3月
  21. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uy.html 2009年3月30日閲覧
  22. ^ “世界の学校を見てみよう ウルグアイ東方共和国(Oriental Republic of Uruguay)”. 外務省. (2012年12月). オリジナルの2015年11月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151115114211/https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/0103uruguay.html 
  23. ^ “ODAメールマガジン第205号”. 外務省. (2011年5月25日). オリジナルの2020年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201123225615/https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/mail/bn_205.html 
  24. ^ a b http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=242 2014年12月20日閲覧
  25. ^ http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/uruguay.html 2014年12月20日閲覧
  26. ^ “マフィア滅ぼす合法大麻 ウルグアイ、世界初の法案可決”. MSN産経ニュース. (2013年12月12日). オリジナルの2013年12月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131212075718/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131212/asi13121213570004-n1.htm 2022年9月3日閲覧。 
  27. ^ a b [1]「サッカーも上手い韓国、サッカーだけ上手いウルグアイを徹底分析」東亜日報,2010年6月24日.






ウルグアイと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

ウルグアイのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウルグアイのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウルグアイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS