家事調停の歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 家事調停の歴史の意味・解説 

家事調停の歴史(総論)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:00 UTC 版)

家事調停」の記事における「家事調停の歴史(総論)」の解説

調停は、世界各地で非常に古くから見られる中国本土歴史書である『周礼』は「調人 掌司萬民之難而諧和之」(調人は万民の難を司り、これを調停する職務を担う。)と述べ『漢書』は「嗇夫職聽訟」(〔郷に置かれる〕嗇夫は訟を聴く職である。)と述べ『後漢書』には、母が子の不孝訴えた事案に対して仇覧が行った家事調停紹介されている。 中国本土では、明朝期から清朝期にかけて、前近代的裁判制度が一応の完成見た。この時代中国社会は、家族集団浮沈激しく安定した地縁的共同体形成され難い競争社会であったため、地縁的集団紛争統制能力限定的であった紛争当事者は、同じ紛争諦めがつくまで、紛争生じた契約立会人地元有力者職能集団宗族の長といった、より高位権威者次々持ち込んで斡旋依頼したこのような、官から独立して行われた斡旋は、「民間調處」と呼ばれた当時知州知県地方官)による裁判は、そのような民間調處の連鎖先に連なる私益調整の場であると同時に国家刑罰権発動の場でもあった。すなわち、重い刑罰(徒・流・死)を科す権限中央政府督撫総督巡撫)が保持し比較的軽い刑罰笞・杖)を科す権限地方官与えられていた。したがって地方官裁判をするのは戸婚(婚姻家庭関係事件)、田土不動産関係事件)、銭債(金銭債務中心とする債権債務関係事件)などの、刑罰科すとしても比較的軽いものにとどまる事案であり、命(人が死亡した事件)、盗(強盗窃盗事件)などの重い刑罰予定される事案については、地方官予審判事のような役割担った私人訴訟提起すると、地方官開廷要否事件振り分け開廷要するときは当事者及び証人召喚し尋問し当事者に徒以上の重い刑罰科すべきと判断すれば事件上位者送致し、重い刑罰不要判断すれば自ら斡旋行い官府調處)、若しくは民間命じて斡旋を行わせ(官批民調)、又は堂論(判決)を言い渡した地方官が「批」と呼ばれる簡易な裁判公示して審理終了したり、結論示さないまま単に審理停めたりすることもあった。このような審理過程において、当事者示談したり、調停者の示す調停案に同意したり、堂論を受け容れたり、あるいは単に訴訟諦めたりして紛争終結させていったこのように中国本土前近代的紛争解決制度は、実質的にはかなり強圧的に強いたものであったとはいえ形式的に当事者合意ないし意思によって紛争解決される体裁とっていた。 日本でも鎌倉時代に入る前後頃から和与呼ばれる私的調停が行われるようになり、江戸時代には内済ないさい)と呼ばれる一種裁判所付託調停 court-referred mediation盛んに行われた家事紛争について見ると、離婚原則として夫と妻との間でいわゆる三行半みくだりはん)を授受することによって成立したが、妻が夫から三行半交付得られない考えたときは、縁切寺逃げ込めば公私権力背景とする斡旋一種離婚調停)を享受することができた。 アラビア半島では、イスラーム教成立前から酋長占い師療術士、影響力のある貴族といった人々部族内外紛争仲裁行っていた。そして、イスラーム教聖典であるクルアーンは、「妻が夫の暴虐遺棄憂いたとしても、夫婦合意による解決整えたならば、恥じることはない。善き解決は、かくあらねばならぬ。人の心は貪欲に流され易い。しかし、汝(なんじ)が善をなし、節度を保つならば、神は汝の仕業みそなわす。」、「もし汝が夫婦〕の間の不和憂うならば、仲介人を、一人は男の一族から、もう一人は女の一族から選べ。もし彼らが和解を望むならば、神は彼らに調和を齎(もたら)されよう。神は全知全能あられる故に。」 と説く。これがイスラーム法における家事調停存在基盤である。イスラーム教離婚禁じてはいないが、恥ずべきものと位置付けているため、ムスリムにとっての家事調停とは、伝統的には、第三者夫婦関係維持し改善するよう夫婦説得することを意味していた。 サブサハラに目を転じると、そこには ubuntuズールー語)、utuスワヒリ語)などと表現される人生哲学見られる。これは「人は他人通じて人となる。 Umuntu ngumuntu ngabantu. (A person is a person through other persons.)」、すなわち「人の人たる由縁他者との関係性にある」という信念である。したがって紛争解決には、その紛争があることによって損なわれた神、霊、祖先家族及び隣人との関係を創造し回復させるという精神的側面があると捉えられている。このような哲学の下で、手続面での差異はあるものの、多く部族で、家、一族など社会各階層の長老手続主導して紛争当事者や彼らを取り巻関係者間に生じている問題丸ごと解決することを目指す調停が行われてきた。 これらの文化圏は、合意形成私人間の紛争解決中核据えられてきたことが似ているが、子細に見ると差異もある。 中国文化圏で古くから合意による紛争解決制度発達した背景には、儒教紛争訴訟恥ずべきものと位置づけ訴訟を起こさせないのが優れた為政者の証であるとしたことが挙げられる。つまり儒教は、市民個性自治尊重した故にADR推奨したではなく政治権力都合による(言わば「上からの」)訴訟忌避政策を採ったが故にADR推奨したのであるこのような訴訟観が市民道徳規範として内面化されたか否か議論があるが、それはさておき中国文化圏には、西欧法体系継受けいじゅ。他の法域法体系を自法域包括的に導入すること)した後も、その法体系中に相当広範な調停前置主義後述)を取り込んだ法域が多い。市民の側に調停前置主義導入対す抵抗感少なかった背景には、上記のような歴史的背景があったと言える。 これに対してイスラーム教合意に基づく紛争解決推奨してきた背景には、所詮は人に過ぎない裁判官法解釈能力事実認定能力懐疑的なことがあった。裏を返せば、法が明確に明示されているときには調停利用することはできないということにもなる。 他方で、サブサハラ文化圏多く法域では、欧米列強による植民地支配等を通じて西欧法体系継受した後も、民間伝統的紛争解決制度政府司法制度十分に統合されず、並列する正規紛争解決制度とされている(この点が上述中国文化圏の諸法域と異なる。)。つまり、市民道徳規範と密接に結びついた(言わば「下からの」)紛争解決政策選択されていると言えるヨーロッパで仲裁調停古くら行われてきた。アテナイでは市民 間の紛争広く仲裁ないし調停用いられていた。古代ローマでは、十二表法が「当事者合意をしたときは、裁判官その旨宣告するRem ubi pacunt, Orato」という定め調停言及していたし、「調停人」という意味で conciliator、interlocutor、interpres、mediator などの多彩な表現用いられていた。文献資料乏しいが、ギリシャ人より前にフェニキア人商業上の紛争仲裁ないし調停解決していたと推測されている。更に古い資料では、世界最古条約と言われるラガシュウンマとの境界水域に関する条約は、キシュ支配者メサリムが仲介し体裁とっている。 しかしながらヨーロッパで公的な司法制度家庭内介入することを忌避する風潮強く家事調停発展し始めるまでに長い時間要した古代ローマでは家父強大な家父長権有し家庭国家介入許されない自律的空間とされていた(家は最も安全な避難所 Domus sua cuique est tutissimum refugium)。つまり、家庭内紛争当事者間合意家父裁定によって解決されるべきものであって公的な司法制度対象とはならなかった。時代が下るにつれて家父長権幾分後退しそもそも古代ローマ自身衰退向かったが、中世以降諸国でも家父家族構成員に対す優越維持された。また、カトリック教会結婚とその解消教会専権事項とみなし、トリエント公会議開かれた16世紀頃までには、離婚やこれに伴う紛争公的な司法制度対象とはならないという社会通念確立していた。 宗教改革契機として離婚世俗裁判所管轄下に置かれ始めたが、19世紀後半頃までは「離婚有力者強引に敢行するもの」という社会的評価強かったライデンでは16世紀末頃から Leidse Vredemakers(ライデン治安維持団 Leyden peacemakers)と呼ばれる調停人集団活動し近隣紛争金銭貸借などの事案調停仲裁行っていたが、離婚等の家庭内紛争取り扱うことはまれであったヴォルテールライデン治安維持団の制度フランス紹介しフランス革命政府治安判事 juge de paix を設けて家庭内紛争を含む広範囲紛争斡旋に当たらせた。しかし、フランス革命収束して19世紀に入ると、家事紛争などの地区裁判所管轄属す事件斡旋(大斡旋)は、弁護士がこれを時間の無駄と考えて回避する傾向強くなり、治安判事の行う斡旋治安裁判所管轄属す事件斡旋(小斡旋)を中心とするようになったが、20世紀に入ると、小斡旋件数減少するようになり、1958年司法改革治安判事制度自体廃止された。しかし、1978年には控訴院無給斡旋人を指定し家事事件を含む幅広い民事紛争取り扱わせる運用始まり民事訴訟法典が、このような斡旋新たに急速に普及した合意支援後述)の両方を、離婚事件紛争解決手続として公認したデンマーク=ノルウェーでは、1755年西インド諸島植民地で「斡旋委員会 forligskommissioner, forlikskommisjon」と呼ばれる組織設けられ1769年にはデンマークで郡に債権債務関係事件調停担当者置かれ1795年にはデンマーク全域及びノルウェー都市部(後にノルウェー全域にも拡大)で家事紛争を含む民事紛争全般について訴訟提起前に市町村等に設けられ斡旋委員会斡旋を経ることが義務づけられた(調停前置主義)。デンマークでは1952年斡旋委員会制度廃止されたが、ノルウェーではその後もこの制度維持された。 17世紀イングランドでは、村内民事紛争軽微な犯罪有力者教会斡旋によって解決していた。1896年斡旋法により、企業紛争の解決斡旋広く用いられるようになり、第一次世界大戦後離婚急増したことが契機となって1930年代には個人間の紛争でも斡旋用いられるようになった。もっとも、1950年代までは、家事紛争における斡旋とは当事者間円満調整目指すものであったが、1974年Finer 報告ひとり親報告)が離婚忌避しない紛争解決促したことを契機として、郡裁判所登記官裁判官地域福祉専門官とが協力して家事事件斡旋に当たる取組始まった。そして、2000年家事手続規則が、このような斡旋新たに急速に普及した合意支援後述)の両方を、離婚事件紛争解決手続として公認した中米地域では、アステカ帝国15世紀半ばモクテスマ1世治下早くも男女義務教育実施するなど、高度に発達した社会築いたアステカ帝国司法制度三審制備え家事紛争特化した裁判所などの各種専門裁判所備えていた。アステカ帝国家族法原則として離婚認めなかったが、夫も妻も、性格の不一致、妻による不義密通、妻の精神異常、夫による虐待不妊借金又は妻の怠惰理由とする法的分離 legal separation別居許可)を裁判所申し立てることができた。裁判所は、裁判をする前に当事者間の関係修復試みることが多かった日本では1900年代前半から人事調停が行われており、第二次世界大戦終結後日本国憲法制定伴って司法制度改革された後も、家事調停 domestic relations conciliation が行われた。第二次世界大戦前日本植民地となった朝鮮半島(ただし、韓国政府実効支配地域限られる。)及び台湾島では、日本支配下から脱却した後も、日本の法制度影響受けた家事調停制度存続した。 世界的な影響力持ったのは、後発アメリカで実践である。 アメリカでは清教徒入植地個人間の紛争解決手段として斡旋がしばしば用いられていたが、全国的な司法制度確立するに連れ裁判外紛争解決手続としての斡旋利用下火になり、移民してきた少数派集団の中で細々用いられる止まるようになった他方で、1913年クリーブランドでの試み皮切りに少額訴訟 small claims担当裁判官が当事者に対して口頭弁論 trial 前に合意による紛争解決斡旋する運用始まり、これがシカゴニューヨーク及びフィラデルフィア広まった1970年代初頭ダンツィヒ Danzig, Richard. が地域の家紛争少年非行斡旋によって解決するご当地模擬法廷 community moot」を提唱し、これに呼応して全米におよそ200に及ぶ「地域司法センター neighborhood justice center」が設立された。 他方で、1970年代には、「原則立脚交渉術」 も提唱され脅し欺罔奇襲といった手法頼らない交渉技術体系的に整理され始めたこのような背景の下、クーグラー Coogler, O. James. は、1978年アトランタ家事調停センター開設し家事紛争における合意支援行い始めた家事調停における合意支援斡旋圧倒する勢いでアメリカ各地広まりカリフォルニア州などの各州家事調停を公式の制度として採用した1980年代にはフランスイングランド及びウェールズイタリアなどの西ヨーロッパ諸法域で公私団体による家事調停実践広まり、「民事及び商事事件におけるメディエーション特定の側面に関する2008年5月21日欧州議会及び理事会の2008/52/EG指令」(欧州連合メディエーション指令) が合意支援裁判外紛争処理主役据えたことに刺激受けて家事紛争分野においても合意支援を公式の制度として採用する法域増えた2000年代初頭にはチリバングラデシュのような第三世界法域でも、家事調停実践広まっていった。 アメリカで合意支援の実践影響力持ったのは、世界最強であったことによる発信力の大きさ理由であるが、「関係が悪化した夫婦は、無理に和解させるではなく合理的な条件離婚するよう導いた方が良い」という新たな価値観 に、原則立脚交渉術を活用した合意支援適合したことも理由である。

※この「家事調停の歴史(総論)」の解説は、「家事調停」の解説の一部です。
「家事調停の歴史(総論)」を含む「家事調停」の記事については、「家事調停」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家事調停の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家事調停の歴史」の関連用語

家事調停の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家事調停の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの家事調停 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS