家事調停の歴史(総論)
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調停は、世界各地で非常に古くから見られる。 中国本土の歴史書である『周礼』は「調人 掌司萬民之難而諧和之」(調人は万民の難を司り、これを調停する職務を担う。)と述べ、『漢書』は「嗇夫職聽訟」(〔郷に置かれる〕嗇夫は訟を聴く職である。)と述べる『後漢書』には、母が子の不孝を訴えた事案に対して仇覧が行った家事調停が紹介されている。 中国本土では、明朝期から清朝期にかけて、前近代的裁判制度が一応の完成を見た。この時代の中国社会は、家族集団の浮沈が激しく、安定した地縁的共同体が形成され難い競争社会であったため、地縁的集団の紛争統制能力は限定的であった。紛争当事者は、同じ紛争を諦めがつくまで、紛争が生じた契約の立会人、地元の有力者、職能集団や宗族の長といった、より高位の権威者に次々に持ち込んで斡旋を依頼した。このような、官から独立して行われた斡旋は、「民間調處」と呼ばれた。当時の知州・知県(地方官)による裁判は、そのような民間調處の連鎖の先に連なる私益調整の場であると同時に、国家刑罰権の発動の場でもあった。すなわち、重い刑罰(徒・流・死)を科す権限は中央政府や督撫(総督、巡撫)が保持し、比較的軽い刑罰(笞・杖)を科す権限は地方官に与えられていた。したがって、地方官が裁判をするのは戸婚(婚姻・家庭関係事件)、田土(不動産関係事件)、銭債(金銭債務を中心とする債権債務関係事件)などの、刑罰を科すとしても比較的軽いものにとどまる事案であり、命(人が死亡した事件)、盗(強盗・窃盗事件)などの重い刑罰が予定される事案については、地方官は予審判事のような役割を担った。私人が訴訟を提起すると、地方官は開廷の要否で事件を振り分け、開廷を要するときは当事者及び証人を召喚して尋問し、当事者に徒以上の重い刑罰を科すべきと判断すれば事件を上位者に送致し、重い刑罰は不要と判断すれば自ら斡旋を行い(官府調處)、若しくは民間に命じて斡旋を行わせ(官批民調)、又は堂論(判決)を言い渡した。地方官が「批」と呼ばれる簡易な裁判を公示して審理を終了したり、結論を示さないまま単に審理を停めたりすることもあった。このような審理過程において、当事者は示談したり、調停者の示す調停案に同意したり、堂論を受け容れたり、あるいは単に訴訟を諦めたりして紛争を終結させていった。このように、中国本土の前近代的紛争解決制度は、実質的にはかなり強圧的に強いたものであったとはいえ、形式的には当事者の合意ないし意思によって紛争が解決される体裁をとっていた。 日本でも、鎌倉時代に入る前後頃から和与と呼ばれる私的調停が行われるようになり、江戸時代には内済(ないさい)と呼ばれる一種の裁判所付託調停 court-referred mediation が盛んに行われた。家事紛争について見ると、離婚は原則として夫と妻との間でいわゆる三行半(みくだりはん)を授受することによって成立したが、妻が夫から三行半の交付を得られないと考えたときは、縁切寺に逃げ込めば公私の権力を背景とする斡旋(一種の離婚調停)を享受することができた。 アラビア半島では、イスラーム教の成立前から酋長、占い師、療術士、影響力のある貴族といった人々が部族内外の紛争の仲裁を行っていた。そして、イスラーム教の聖典であるクルアーンは、「妻が夫の暴虐や遺棄を憂いたとしても、夫婦が合意による解決を整えたならば、恥じることはない。善き解決は、かくあらねばならぬ。人の心は貪欲に流され易い。しかし、汝(なんじ)が善をなし、節度を保つならば、神は汝の仕業をみそなわす。」、「もし汝が〔夫婦〕の間の不和を憂うならば、仲介人を、一人は男の一族から、もう一人は女の一族から選べ。もし彼らが和解を望むならば、神は彼らに調和を齎(もたら)されよう。神は全知全能であられるが故に。」 と説く。これがイスラーム法における家事調停の存在基盤である。イスラーム教は離婚を禁じてはいないが、恥ずべきものと位置付けているため、ムスリムにとっての家事調停とは、伝統的には、第三者が夫婦関係を維持し改善するよう夫婦を説得することを意味していた。 サブサハラに目を転じると、そこには ubuntu (ズールー語)、utu (スワヒリ語)などと表現される人生哲学が見られる。これは「人は他人を通じて人となる。 Umuntu ngumuntu ngabantu. (A person is a person through other persons.)」、すなわち「人の人たる由縁は他者との関係性にある」という信念である。したがって、紛争解決には、その紛争があることによって損なわれた神、霊、祖先、家族及び隣人との関係を創造し、回復させるという精神的側面があると捉えられている。このような哲学の下で、手続面での差異はあるものの、多くの部族で、家、一族、村など社会の各階層の長老が手続を主導して紛争当事者や彼らを取り巻く関係者間に生じている問題を丸ごと解決することを目指す調停が行われてきた。 これらの文化圏は、合意形成が私人間の紛争解決の中核に据えられてきたことが似ているが、子細に見ると差異もある。 中国文化圏で古くから合意による紛争解決制度が発達した背景には、儒教が紛争や訴訟を恥ずべきものと位置づけ、訴訟を起こさせないのが優れた為政者の証であるとしたことが挙げられる。つまり儒教は、市民の個性や自治を尊重したが故にADRを推奨したのではなく、政治権力の都合による(言わば「上からの」)訴訟忌避政策を採ったが故にADRを推奨したのである。このような訴訟観が市民の道徳規範として内面化されたか否かは議論があるが、それはさておき、中国文化圏には、西欧の法体系を継受(けいじゅ。他の法域の法体系を自法域に包括的に導入すること)した後も、その法体系の中に相当広範な調停前置主義(後述)を取り込んだ法域が多い。市民の側に調停前置主義の導入に対する抵抗感が少なかった背景には、上記のような歴史的背景があったと言える。 これに対して、イスラーム教が合意に基づく紛争解決を推奨してきた背景には、所詮は人に過ぎない裁判官の法解釈能力や事実認定能力に懐疑的なことがあった。裏を返せば、法が明確に明示されているときには調停を利用することはできない、ということにもなる。 他方で、サブサハラ文化圏の多くの法域では、欧米列強による植民地支配等を通じて西欧の法体系を継受した後も、民間の伝統的紛争解決制度が政府の司法制度に十分に統合されず、並列する正規の紛争解決制度とされている(この点が上述の中国文化圏の諸法域と異なる。)。つまり、市民の道徳規範と密接に結びついた(言わば「下からの」)紛争解決政策が選択されていると言える。 ヨーロッパでも仲裁や調停が古くから行われてきた。アテナイでは市民 間の紛争に広く仲裁ないし調停が用いられていた。古代ローマでは、十二表法が「当事者が合意をしたときは、裁判官はその旨を宣告する。 Rem ubi pacunt, Orato」という定めで調停に言及していたし、「調停人」という意味で conciliator、interlocutor、interpres、mediator などの多彩な表現が用いられていた。文献資料は乏しいが、ギリシャ人より前にフェニキア人が商業上の紛争を仲裁ないし調停で解決していたと推測されている。更に古い資料では、世界最古の条約と言われるラガシュとウンマとの境界水域に関する条約は、キシュの支配者メサリムが仲介した体裁をとっている。 しかしながら、ヨーロッパでは公的な司法制度が家庭内に介入することを忌避する風潮が強く、家事調停が発展し始めるまでに長い時間を要した。 古代ローマでは家父が強大な家父長権を有し、家庭は国家の介入の許されない自律的空間とされていた(家は最も安全な避難所 Domus sua cuique est tutissimum refugium)。つまり、家庭内紛争は当事者間の合意か家父の裁定によって解決されるべきものであって、公的な司法制度の対象とはならなかった。時代が下るにつれて家父長権は幾分後退し、そもそも古代ローマ自身が衰退に向かったが、中世以降の諸国でも家父の家族構成員に対する優越は維持された。また、カトリック教会は結婚とその解消を教会の専権事項とみなし、トリエント公会議が開かれた16世紀頃までには、離婚やこれに伴う紛争は公的な司法制度の対象とはならないという社会通念が確立していた。 宗教改革を契機として離婚は世俗の裁判所の管轄下に置かれ始めたが、19世紀後半頃までは「離婚は有力者が強引に敢行するもの」という社会的評価が強かった。ライデンでは16世紀末頃から Leidse Vredemakers(ライデン治安維持団 Leyden peacemakers)と呼ばれる調停人集団が活動し、近隣紛争や金銭貸借などの事案で調停や仲裁を行っていたが、離婚等の家庭内紛争を取り扱うことはまれであった。 ヴォルテールはライデン治安維持団の制度をフランスに紹介し、フランス革命政府は治安判事 juge de paix を設けて家庭内紛争を含む広範囲の紛争の斡旋に当たらせた。しかし、フランス革命が収束して19世紀に入ると、家事紛争などの地区裁判所の管轄に属する事件の斡旋(大斡旋)は、弁護士がこれを時間の無駄と考えて回避する傾向が強くなり、治安判事の行う斡旋は治安裁判所の管轄に属する事件の斡旋(小斡旋)を中心とするようになったが、20世紀に入ると、小斡旋の件数も減少するようになり、1958年の司法改革で治安判事の制度自体が廃止された。しかし、1978年には控訴院が無給の斡旋人を指定し、家事事件を含む幅広い民事紛争を取り扱わせる運用が始まり、民事訴訟法典が、このような斡旋と新たに急速に普及した合意支援(後述)の両方を、離婚事件の紛争解決手続として公認した。 デンマーク=ノルウェーでは、1755年に西インド諸島の植民地で「斡旋委員会 forligskommissioner, forlikskommisjon」と呼ばれる組織が設けられ、1769年にはデンマークで郡に債権債務関係事件の調停担当者が置かれ、1795年にはデンマークの全域及びノルウェーの都市部(後にノルウェー全域にも拡大)で家事紛争を含む民事紛争全般について訴訟提起前に市町村等に設けられた斡旋委員会の斡旋を経ることが義務づけられた(調停前置主義)。デンマークでは1952年に斡旋委員会の制度が廃止されたが、ノルウェーではその後もこの制度が維持された。 17世紀のイングランドでは、村内の民事紛争や軽微な犯罪を有力者や教会が斡旋によって解決していた。1896年斡旋法により、企業間紛争の解決に斡旋が広く用いられるようになり、第一次世界大戦後に離婚が急増したことが契機となって1930年代には個人間の紛争でも斡旋が用いられるようになった。もっとも、1950年代までは、家事紛争における斡旋とは当事者間の円満調整を目指すものであったが、1974年の Finer 報告(ひとり親報告)が離婚を忌避しない紛争解決を促したことを契機として、郡裁判所の登記官や裁判官と地域の福祉専門官とが協力して家事事件の斡旋に当たる取組が始まった。そして、2000年家事手続規則が、このような斡旋と新たに急速に普及した合意支援(後述)の両方を、離婚事件の紛争解決手続として公認した。 中米地域では、アステカ帝国が15世紀半ばのモクテスマ1世治下で早くも男女義務教育を実施するなど、高度に発達した社会を築いた。アステカ帝国の司法制度は三審制を備え、家事紛争に特化した裁判所などの各種の専門裁判所も備えていた。アステカ帝国の家族法は原則として離婚を認めなかったが、夫も妻も、性格の不一致、妻による不義密通、妻の精神異常、夫による虐待、不妊、借金又は妻の怠惰を理由とする法的分離 legal separation(別居許可)を裁判所に申し立てることができた。裁判所は、裁判をする前に当事者間の関係修復を試みることが多かった。 日本では1900年代前半から人事調停が行われており、第二次世界大戦終結後の日本国憲法の制定に伴って司法制度が改革された後も、家事調停 domestic relations conciliation が行われた。第二次世界大戦前に日本の植民地となった朝鮮半島(ただし、韓国政府の実効支配地域に限られる。)及び台湾島では、日本の支配下から脱却した後も、日本の法制度の影響を受けた家事調停制度が存続した。 世界的な影響力を持ったのは、後発のアメリカでの実践である。 アメリカでは、清教徒の入植地で個人間の紛争解決手段として斡旋がしばしば用いられていたが、全国的な司法制度が確立するに連れ、裁判外紛争解決手続としての斡旋の利用は下火になり、移民してきた少数派集団の中で細々と用いられるに止まるようになった。他方で、1913年のクリーブランドでの試みを皮切りに、少額訴訟 small claims で担当裁判官が当事者に対して口頭弁論 trial 前に合意による紛争解決を斡旋する運用が始まり、これがシカゴ、ニューヨーク及びフィラデルフィアに広まった。1970年代初頭にダンツィヒ Danzig, Richard. が地域の家事紛争や少年非行を斡旋によって解決する「ご当地模擬法廷 community moot」を提唱し、これに呼応して全米におよそ200に及ぶ「地域司法センター neighborhood justice center」が設立された。 他方で、1970年代には、「原則立脚型交渉術」 も提唱され、脅し、欺罔、奇襲といった手法に頼らない交渉技術が体系的に整理され始めた。このような背景の下、クーグラー Coogler, O. James. は、1978年にアトランタで家事調停センターを開設し、家事紛争における合意支援を行い始めた。家事調停における合意支援は斡旋を圧倒する勢いでアメリカ各地に広まり、カリフォルニア州などの各州が家事調停を公式の制度として採用した。 1980年代にはフランス、イングランド及びウェールズ、イタリアなどの西ヨーロッパ諸法域で公私の団体による家事調停の実践が広まり、「民事及び商事事件におけるメディエーションの特定の側面に関する2008年5月21日の欧州議会及び理事会の2008/52/EG指令」(欧州連合メディエーション指令) が合意支援を裁判外紛争処理の主役に据えたことに刺激を受けて、家事紛争の分野においても合意支援を公式の制度として採用する法域が増えた。2000年代初頭にはチリ やバングラデシュのような第三世界の法域でも、家事調停の実践が広まっていった。 アメリカでの合意支援の実践が影響力を持ったのは、世界最強国であったことによる発信力の大きさも理由であるが、「関係が悪化した夫婦は、無理に和解させるのではなく、合理的な条件で離婚するよう導いた方が良い」という新たな価値観 に、原則立脚型交渉術を活用した合意支援が適合したことも理由である。
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