プロレスラー時代
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大相撲廃業後は、1966年10月12日に東京プロレス設立に伴いプロレスに転向し、入門同期には寺西勇・大磯武・柴田勝久・永源遙らがいた。当時、東京プロレスには道場が存在せずリングすら用意されていなかったため、旗揚げ戦まで選手達は合宿先であった伊東市の海水浴場の砂浜でレスリングの基本を学んだ。 同年、豊登が名付け親で出身地にあやかり仙台強の名でデビューを果たすも、東京プロレスが2シリーズで経営に行き詰まり、1967年1月、国際プロレスとの合同興行を経て崩壊。アントニオ猪木の日本プロレス復帰の際に、同期の柴田・永源は同行できたが大剛・寺西・大磯らは残されてしまい、同じく残されたラッシャー木村らと共に、国際プロレスに移籍。その際にリングネームを大剛鉄之助に改名し、前座・中堅を務め、ミスター珍とのタッグでモンスター・ロシモフとハンディキャップマッチを行ったこともある。 同期・後輩らが海外武者修行に出て行く中、チャンスに恵まれなかったが、1973年3月8日の『'73チャレンジ・シリーズ』長野大会においてホセ・クィンテロと唯一の金網デスマッチを行い、同シリーズ終了直後に、マッドドッグ・バションの仲介でカナダ・モントリオール地区のGPW(グランプリ・レスリング)に遠征。現地ではトーキョー・ジョーを名乗り、バションやエドワード・カーペンティアと抗争してメインイベンターとなり、ブルーノ・サンマルチノがGPWに参戦した際はタッグマッチながら対戦相手を務めた。 1974年3月26日に故郷仙台での凱旋帰国試合が組まれた。しかしバションに帰国を申請したが契約を楯に許可が出なかったため、当時インディアナポリス地区(ディック・ザ・ブルーザー主宰のWWA)で武者修行をしていた後輩のデビル紫を呼び寄せ、後釜に据えることで帰国OKを貰った。そして3月18日、合流したデビル紫を伴って、後輩の八木宏(剛竜馬)が武者修行をしていたカルガリーへトレーラー・カーで移動する途中、スリップ事故を起こし立ち往生。対処のためトレーラーを外しているところに19歳の少年が運転する乗用車が追突し、挟まれた大剛は右足切断の重傷を負った。
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プロレスラー時代
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「ソラキチ・マツダ」の記事における「プロレスラー時代」の解説
力士廃業後アメリカ人興行師の誘いを受け渡米。1883年1月14日にニューヨークでプロレスラーとしてデビューする。デビュー戦の相手は当時のトップレスラーの一人であるイギリス人エドウィン・ビッピー(Edwin Bibby)であったが試合には敗れた。同年3月の試合で、ジェームス・ダレイ(James Daley)相手に初勝利を収める。その後アメリカ各地をサーキットし、ウィリアム・マルドーンら当時のトップレスラーと数多く試合をした。 1884年3月、松田はニューヨーク でジェームズ・デイリーを破った。その後数ヶ月間はロードサーキットに出て、クリーブランド、ボルチモア、バッファロー、ロチェスター、フィラデルフィア、シンシナティ、シカゴ、ペオリアで試合をした。彼の対戦相手はダンカンC.ロス、ジャック・ギャラガー、ベニー・ジョーンズ、ジョー・アクトン 、カルロス・マルティーノ、アンドレ・クリストル 、テッド・ジョージなどである。 グレコローマンチャンピオンのウィリアム・マルドゥーンが、この時期で最も有名な対戦相手であった。マルドゥーンは1884年7月18日にシカゴで松田に勝利。松田は1884年8月にニューヨークに戻り、1885年6月まで住んでいた。ニューヨーク市にいる間、彼はジェームズ・クイグリーとジャック・ハードを打ち負かし、カール・アプスとマルドゥーンには引き分けた後、アブスには2度敗北している。 1884年内にミドル級チャンピオン(何のタイトルマッチであるかは不明)となり、母国日本の新聞でも報じられたという。 1885年6月から12月にかけてペンシルベニア州クリーブランドとスクラントンなどで試合を行った。 1885年5月5日、マルドゥーンはソラキチにハンディキャップマッチを挑む。1時間に5回日本のレスラーをピンフォールできるか100ドルの賭けをしたが、結果はマルドゥーンの失敗に終わる。 1886年2月15日のエヴァン「ストラングラー」ルイスとの試合中に、ソラキチはレッグロックで足を骨折したと伝えられているが、1か月後には試合に復帰した。 1886年3月、松田はクリーブランドでイギリスの世界ヘビー級チャンピオンのトムキャノンに敗れ、ニューヨーク市でドイツの世界ヘビー級チャンピオンのアーネスト・ローバーと引き分けた。ローバーとの試合は、BoweryのGermania Assembly Roonで行われた。 松田は1886年の後半にはクリーブランド、フィラデルフィア、アッシュランド、ウィスコンシン、セントルイスでレスリングを行っていた。対戦者はダンカン・ロス、ジョー・アクトン、ジャック・カーキーク、ジェームズ・ドナー、ジェームズ・フォークナーとベルナール・マクファデンなど。 1887年、彼はバッファロー、クリーブランド、デトロイト、リオデジャネイロ、ボルチモアで試合を行った。1888年に彼はペンシルベニア(フィラデルフィア、ピッツバーグ、エリー、スクラントン)をツアーし、マサチューセッツ州ローウェルも訪れた。対戦相手にはジェシー・クラーク、ジョー・アクトン、ジャック・ハート、ジム・コナーズ、H.M.デュファー、ハーベイ・パーカー、ウィリアム・マルドゥーン 、ジョン・マクマホンなど。 1889年1月と2月に、彼はフィラデルフィアでオーガスト・ラグランジ、ウィリアム・マルドゥーン、テッド・ジョージと対戦。 生涯最後の試合は1891年5月13日のニューヨーク州トロイでのマーティン「ファーマー」バーンズ(Martin Burns)戦である。同年(1891年)8月16日にニューヨーク市で32歳で死去。 彼はニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。 結局は実現しなかったが、アメリカのレスリングを日本に持ち込もうとしたという。 ジャック・カーキークは、亡くなってから11年後の1902年2月、英国のスポーツ紙『ミラー・オブ・ライフ』に、「ジャップのソラキチについては彼の体重を鑑みてもおそらく世界で最も勇敢な男だという認識をしている」と語った。「幸運なこのにこの小さなジャップはサイズや体重に関係なく、その日最高の男たちに挑んできたというだけであり、ために多くの敗北に苦しんだ。そして、身体が小さくとも果敢に大きな者にくい下がっていった。」
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プロレスラー時代
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「山崎一夫 (プロレスラー)」の記事における「プロレスラー時代」の解説
入門して1週間で山崎は「これにはもうついて行けない」と感じたようであり、トイレに置いてあった掃除用のブラシに「これで歯を磨いてはいけません」と書いてあったのを見たことなどを後に明かしている。それでも山崎は、あまりにも地元と合宿所とが近すぎて逃げると知り合いに見つかって目立つため、我慢して稽古などに励んだ。入門して最初に与えられた雑用の係は「薬箱係」という救急箱の管理を行うものであった。 細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦らと名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている(相手はデビュー戦だった後藤達俊)。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。 また、この頃に佐山サトル(初代タイガーマスク)の付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。佐山は山崎の5学年年上と年齢が近かったため佐山との関係は堅苦しいものではなかった。試合直後のシャワールームでは付き人は予め石鹸を泡立ててタオルにつけ、先輩レスラーが何も言わずに背中を向けるとそのタオルで背中を流さなければならなかったが、佐山はそれら全部を自分でやったという。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、試合会場から「山崎(山ちゃん)、早く〜」という悲鳴が上がるようになった。 佐山の引退(新日本プロレスを退団)後も新日本に残留して前座を沸かせていた(高田とのシングルマッチはTV中継された)。その後、佐山のタイガージム開設時に退団し、同ジムのインストラクターを務めていたが、1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明、木戸修らと活動する。佐山のスーパータイガージムでもインストラクターを務め、佐山と共に指導者としても活動した。 1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かちUWFに残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。 1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。高田延彦と共に同年5月の旗揚げ戦から参加。以後、主要メンバーの1人として活躍する。特に旗揚げ戦ではメインイベントで前田と対戦し、それまで特に目立った活躍が無かった山崎が、切れ味鋭いハイキックで再三ダウンを奪うなど、エースの前田と互角以上の戦いを繰り広げ、新生UWFのカラーを決定付けた試合として高い評価を受けている。 1990年12月、SWSへの選手貸し出し問題を契機にフロントと選手たちの確執が表面化し、第2次UWFは崩壊。 1991年、高田延彦らとUWFインターナショナル(Uインター)の旗揚げに参加。高田に次ぐ2番手のポジションに就いた。強豪外国人が参戦した際は高田の前に対戦し、間接的に相手の情報を与えるなど、影のフィクサーとして活躍。目玉選手がいないときは自ら高田の相手となり、「困ったときの山ちゃん頼み」と言われた。この頃の山崎は、対北尾光司戦、対ゲーリー・オブライト戦など強く印象に残る試合もあるが、自身のビッグマッチでは負け続けの印象が強く、どちらかといえば不遇の時代であった感が否めない。また当時はリーボックのタイツを履いていた。 1995年7月にUインターを退団し、フリー宣言。古巣・新日本への殴り込みを表明、再復帰を果たした。この参戦には、Uインター内での確執や山崎の個人的事情が影響していると言われるが、直後に起きた新日本対Uインター全面対抗戦とは関係がなく、山崎自身、「なんで俺について来るんだよ」と語っている。また、U嫌いを公言していた当時の現場監督長州力が、山崎だけは高く買っていたのも事実である(プロレス雑誌の会見等で、Uインターの交渉窓口であった安生洋二・宮戸優光らを罵倒する言葉を吐いた後、必ず「山崎はどうしてる?」、「山崎は何て言ってるんだ?」と、長州は必ず雑誌記者に逆取材をかけていたことが当時の雑誌にレポートされていた)。また、山崎のUインター退団時にはリングス(当時)の前田日明も心配して山崎に連絡を取っている。同年7月25日に当時新日本の別働隊だった平成維震軍興行における後藤達俊戦がフリー第1戦。立場上ヒールの振る舞いを見せていた山崎だったが、ファンは皆彼の「いい人」ぶりを知っており、リングに立った瞬間に大「山崎」コールを送った。 またこの年の年末(12月30日)、大阪城ホールで行われた『突然卍固め』興行において、対抗戦で武藤敬司に敗れた高田延彦を元気付ける、という名目で組まれた『アントニオ猪木&高田延彦 vs. 藤原喜明&山崎一夫 60分3本勝負』の2本目に、ハイキックからの体固めで猪木よりフォール勝ちをスコアする。これは、1998年に引退した猪木の最後のフォール負けとなる。 この後新日本本体の興行にも参戦し、フリー的立場を貫いていたが、所属選手となり新日本本隊と合流。1998年のG1 CLIMAXでは、藤波辰爾、佐々木健介、蝶野正洋と過去のG1タイトルホルダーを破り決勝進出。橋本真也との優勝戦では大激闘の末破れるも、その厳しくもけれんみの無いファイトに多くのファンが惜しみない拍手を贈った。これがレスラー人生最大の晴れ舞台だったと言ってよい(実際に山崎も後年、自身のベストバウトに橋本戦を上げている)。 またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。この頃のワールドプロレスリング(テレビ朝日)において実況を担当した辻よしなりは、新日本殴り込みに際して山崎が発した言葉から山崎をシェフになぞらえ、「さぁ山崎。今日のメインディッシュは何分で調理できるか、正に腕の見せ所です」といった実況がよく聞かれた。 肺挫傷および気管支拡張症のため、2000年1月4日開催「闘強導夢2000」東京ドーム大会の対永田裕志戦で引退。
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プロレスラー時代
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「ジェシー・ベンチュラ」の記事における「プロレスラー時代」の解説
エディ・シャーキー(英語版)にコーチを受け、1975年にカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区でデビュー。その後オレゴン州及びワシントン州一帯をサーキットエリアとするパシフィック・ノースウエスト・レスリングに転戦し、ジミー・スヌーカやダッチ・サベージとの抗争で頭角を現す。スーパースター・ビリー・グラハムの熱狂的ファンであった(勝手に弟を名乗っていたという)ことから、そのビジュアルイメージやファイトスタイルまでグラハムの完全なコピー選手を演じた。レスリングの技術は拙いがマイクアピールに抜群の才能を持っていたことも共通していた。プロフィール上はミネアポリスではなくカリフォルニア州サンディエゴ出身を自称したが、これは海軍在籍時代の駐屯地に由来する。 1979年には地元ミネアポリスに本拠地を置くAWAで、アドリアン・アドニスとのタッグチーム、イースト・ウエスト・コネクション(The East-West Connection)を結成、ヒールとして大ブレイクを果たす。1980年7月20日にはバーン・ガニア&マッドドッグ・バションからAWA世界タッグ王座を奪取し、以降グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル、ポール・エラリング&スティーブ・オルソノスキー、ザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクなどのチームを相手に同王座を約1年間保持。1981年の下期からは、両者ともニューヨークのWWFに王者ボブ・バックランドの挑戦者として参戦した。 1982年4月21日、当時WWFと提携していた新日本プロレスに初来日し、蔵前国技館にてアントニオ猪木とシングルマッチで対戦。翌1983年1月にも再来日し、元旦に後楽園ホールにて藤波辰巳と対戦した。この来日時には、ラッシャー木村&アニマル浜口の国際軍団や長州力&マサ斎藤の革命軍団(後の維新軍)と組んでの6人タッグマッチにも出場している。しかし、マイクアピールの才能が生かせない日本では本領を発揮することができず、これが最後の日本マット参戦となった。 その後、アドニスとのコンビを解散し、シングルプレイヤーとしてAWAのトップ・ヒールの地位を確立、同じくグラハムに強烈な影響を受けたハルク・ホーガンのライバルとして活躍した。AWAでは1984年上期にミスター・サイトーともタッグチームを組んだことがある。このコンビはサイトーが「極東」の日本出身ということもあり、ファー・イースト・ウエスト・コネクション(The Far East-West Connection)と呼ばれた。 AWAでの活動と並行して、1983年の下期にはテネシー州メンフィスのCWAに出場し、ジェリー・ローラーとAWA南部ヘビー級王座を賭けた抗争を展開。CWAではスタン・ハンセンとも共闘して、ローラー&オースチン・アイドルとのタッグ対決も行われた。 1984年5月、WWFの全米侵攻の主力メンバーとしてAWAから引き抜かれる。先にAWAより移籍してWWF世界王者となっていたホーガンの挑戦者のポジションが用意されていたが、心臓近くに血栓が発見されたことにより(ステロイド剤の影響とも言われる)突然の引退。持ち前の弁才を活かし、カラー・コメンテーターとしてのキャリアを選択した。元々トークに関しては抜群の能力を有していたこともあり、彼が現在まで続く「ヒール解説者」の元祖とも言われる。1990年のWWF脱退後はWCWでも同様の役を務めた。 1999年には久々にWWFに登場し、サマースラムのメインイベント(ストーン・コールド・スティーブ・オースチン対トリプルH対マンカインドのWWF王座戦)でスペシャル・ゲスト・レフェリーを担当。2001年にはXFLのコメンテーターも務めた。 以後もWWEの番組や興行に時折出演し、2009年11月23日のRAWでは、メインイベントのブレークスルー・バトルロイヤルにおいてビンス・マクマホンとの実況コンビを約20年ぶりに復活させた。
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