禮一郎の書物による経歴とは? わかりやすく解説

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禮一郎の書物による経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/20 08:39 UTC 版)

結城無二三」の記事における「禮一郎の書物による経歴」の解説

弘化2年1845年4月17日(旧暦)甲州山梨郡(後の山梨県東山梨郡日川村、現・山梨市生まれ先祖下総より興きた田原藤太末裔結城朝光で、源頼朝足利家臣を経て甲斐武田氏家臣家柄だったという。幕末頃には代々医者家系で、父は近在でも高名な名医であった万延元年1860年)春、ペルリ来航以来騒乱見て名家身を立てるべく16歳父親懇願医術修行名目江戸へと発つ。 文久元年1861年)、幕府御典医姓名不詳)の書生として修行傍ら近隣道場剣術習い始める。激化する尊皇攘夷動き野心抑えきれず御典医のもとを脱走儒者大橋訥庵門を叩く。ここで志士たちと国事論じ、さらに講武所洋式砲術を学ぶ。この折、長谷川なる御家人形式的な養子入りをする(講武所には幕臣なければ入れないため)。 文久2年1862年1月15日坂下門外の変関係した大橋捕縛され無関係であった有無之助自身門弟として嫌疑かけられたため知己のもとへ身を隠す。間も無く甲州より父危篤の報を受け帰国するも、父死去医業を継ぐ様説得する周囲の言を退け、再び江戸へ出る。7月一橋慶喜将軍後見職となり大橋赦免となるも、大橋暗殺される有無之助は、生麦事件など攘夷派動き触発され自らも攘夷を行うべく同志募り始めるが幕府の知るところとなり、捕り手逃れるため江戸脱して京都へと移る。 文久3年1863年)または元治元年1864年)、有無之助は京都へ行くが、攘夷とは名ばかり暴徒が多いことに絶望、それらを懲らす志を立て江戸からの知人であった村田作郎を頼り、彼が肝煎務め京都見廻組寄宿人(幕臣ではない隊士)となる。結成間もない新選組近藤勇などとも昵懇じっこんであったという。 元治元年1864年12月4日西進する水戸天狗党迎撃のため見廻組別手組などが出陣、この折、村田作郎と共に大津宿割を行う。また、青山十郎と共に偵察敢行武田耕雲斎所在突き止め誤解から彦根足止めされつつ、越前にて天狗党最期見届けて帰隊。 慶応元年1865年2月1日武田耕雲斎らの糾問見廻組代表として列席第二次長州征伐では砲術の腕を買われ大砲おおづつ)組に編入され参戦。なお、このころ山岡鉄舟知り合う慶応2年1866年12月孝明天皇崩御結城有無之助この頃すでに新選組入隊していた(但し証明する記録は無い)。 慶応3年1867年10月14日大政奉還有無之助はこの前後、近藤密命中山忠能家を探索していたが同行した藤堂平助薩摩通じていたため倒幕の密勅差し押さえることに失敗。この一件により伊東一派陰謀明るみに出、11月18日有無之助を含む新選組伊東呼び出し暗殺する。またその後現場駆けつけ伊東一派激し斬り合い行った油小路事件)。この3日前に坂本龍馬暗殺されているが、新選組はこの日の伊東粛清謀議のために坂本暗殺には関わる余裕無かった、と証言している。12月9日クーデターにより京都守護職京都所司代廃止会津桑名両藩は禁裏を出る。12月13日将軍慶喜枚方へ退く一方で新選組若年寄永井玄蕃頭に伴われ二条城へ行くが、大場一進斎率い水戸本圀寺組とにらみ合いとなる。12月16日永井に従って大阪へ向かう途中伏見奉行所へ駐屯12月18日夕刻高台寺党残党近藤狙撃される(その後大阪療養)。12月25日幕府諸藩の兵が薩摩藩焼き討ち12月28日慶喜挙兵決意慶応4年1868年1月2日新選組竹中丹後守属して大阪出撃伏見布陣有無之助は大砲1門の指揮執る1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発1月4日強風指揮不達により敗戦大砲放棄の上、淀へ退却新選組3040人の戦死者1月5日幕府軍淀城入ろうとするが断られる1月6日、幕軍は橋本(八幡市)まで後退するも、藤堂藩叛意によって敗走徳川慶喜密かに開陽丸江戸へ向け逃亡1月12日新選組軍艦富士山丸」で江戸へ向け撤退14日品川着。2月15日甲陽鎮撫隊結成有無之助は地理饗導兼大砲指図役及び甲陽鎮撫隊軍監拝命。またこの日、近藤若年寄格、土方寄合席隊員全て小十人格となる(幕臣取立て言っているが、実際前年6月10日である)。2月28日江戸出立途中府中八王子近藤土方らの郷里歓待を受け、3月2日甲州与瀬相模原市緑区)に到着3月3日のため大月猿橋大月市)にて足止め3月4日笹子峠越え駒飼(甲州市)まで来たところで土・因軍が甲府入りしたとの報に接し有無之助は柏尾甲州市)へ先行し大砲設置3月5日勝沼にて関門設置故郷へ戻る。3月6日故郷近在村にて農兵多数募集するも、牛奥村(現・甲州市)にて幕軍の敗報聞き、帰隊を志す果たせず、御代咲村(現・笛吹市)にある母方実家隠れる。3月8日頃、百姓姿に扮して土・因軍の囲み突破大宮さいたま市)まで脱出地元博徒のもとに落ち着く江戸城明渡し慶喜蟄居近藤勇処刑などの悲報聞き自決を図るが、思いとどまる4月田安亀之助徳川宗家継いだ際、臣下一同「助」の字を遠慮することとなり、名を「無二三」と改めた5月徳川家駿河移封このころ江戸にて降伏のうえ沼津謹慎を命ぜられた新選組隊士南一郎再会無二三も自主降伏のうえ謹慎命じられ沼津へと移る。 明治元年1868年)、沼津兵学校開校無二三はその付属小学校入学明治2年1869年前年暮れよ沼津勤番組・阿部邦之助の命により早川福井(名不詳)なる元新選組隊士を討つべく、同じく隊士南一郎石川武雄の2人と共に江戸潜伏する資金尽きたため、正月勝海舟無心に及ぶが早川福井処分について叱責され両名話し合いの上で平和裡に問題決着させる。11月12日南一郎石川武と共に日野佐藤彦五郎訪れ近藤土方名跡取立て相談明治3年1870年)、駿河来ていた勝海舟訪ねる明治4年1871年1月8日、元新選組隊士である親友南一郎沼津郊外何者かにより殺害。後に無二三らにより墓碑建立明治5年1872年)春、山岡・勝らの斡旋で、大島にて牧畜を行う話が持ち上がる。その準備をしていた8月8日甲州税法統一の際に紛争起き農民騒動へ発展する大小切騒動)。無二三はこの一揆に加わるべく甲州へ向かうが、到着時には既に決着していたため、実家落ち着き帰農明治6年1873年)頃、魚屋始めるが経営思わしくなく廃業明治8年1875年11月甲府城址で博覧会企画開催その後親しくしていた元甲勤番前田左衛門の娘マヅを娶り、甲府桜町新居構える。夫婦酪農始め牛乳生産・販売を行うも、軌道に乗り始めた頃に県が同様の事業乗り出したため圧迫され廃業実家へと戻る。明治政府下の世からは姿を隠す決意をし、さらに山奥大積寺(たいしゃくじ)の廃寺へ妻と牛2頭・1匹を連れて移る。この折、幾つかの書籍混ぜて聖書持ち込んでおり、それが後に信仰志すきっかけとなった明治9年 - 明治10年1876年 - 1877年)、大積寺の山中作男と共に開墾しつつ生活。この頃大積寺を含む山が御料地編入されるが、無二三に無償借地認められる明治11年1878年)、大積寺の自宅にて長男一郎誕生年末夫婦揃って病床伏し泣く赤子の姿を見て聖書思い出し耶和エホバ)に祈ると、不思議なことに快復向かい、これがキリスト教への目覚めとなった明治12年1879年)、耶和への信仰目覚め聖書学習していた折、キリスト教宣教師信州に来たことを知り下山カナダメソジスト教会宣教師イビイ」(一般には「(CS) イビー」と表記される)と面会の上信仰説かれ4月6日、妻と赤子(禮一郎)の3人でイビイ宣教師のもとを訪れ洗礼を受ける。その後、同宣教師講義を受けつつ伝道始めた明治13年1880年)春、本格的に神学を学ぶべく妻子甲府残し単身上京麻布の「東洋英和学校」へ入学勉強傍ら牛込教会にて伝道を行う。 明治15年 - 明治16年1882年 - 1883年)頃、当時呉服町6丁目静岡市にあった静岡教会(現日本基督教団静岡教会)へ派遣され伝道を行う。この頃、舅・前田左衛門永眠。姑を引き取る明治17年1884年7月25日 カナダメソジスト教会浜松教会(現・日本キリスト教団浜松教会初代教職就任。この当時耶蘇退治風潮殊に浜松では強いなか伝道成功させ、見附掛川袋井などに教会を開く。 明治18年1885年)、日本初の「福音士」として甲府へ戻る。この頃までに娘が2人産まれていた。 明治19年1886年)、この年次男誕生明治20年1887年)、この頃教会には規律派閥対立生まれ、また信を置いていたイビイ宣教師カナダへ帰国していたために中央離れ七里村(現・甲州市)に講義所立て田舎伝道」を始めた。後に日下部村八幡村へと伝道地を移動するこの頃、後に日本メソジスト教会日下部教会(現・日本キリスト教団日下部教会)の主要メンバーとなる飯島信明中沢徳兵衛らを信者とする。 明治23年1890年)頃、北巨摩郡韮崎移り講義所を開く。この頃貧窮(主に「伝道士」が入信者に与えられる役割となり収益減ったのと、家族増加して支出増したのが理由)のため妻子甲府送り出し独り韮崎に残る。イビイ宣教師再来日東京本郷中央会堂を建てるも、火災により焼失イビイ宣教師帰国の上資金集め奔走この年三女誕生明治24年1891年)、イビイ宣教師再来日、再び本郷中央会堂を建設キリスト教伝道以外に様々な事業を行う目的建物であった明治25年1892年)、本郷中央会完成イビイ宣教師無二三を招くが、教会意向従い韮崎に残る。また、この頃、息・禮一郎中学入学させる明治26年1893年3月無二三上京、イビイ神父のもとで働き始め、「鶏鳴館」なる寄宿舎建設その後資金難のためイビイ宣教師カナダへ帰国三男誕生明治27年1894年)、資金不足のため、中央会堂の特別事停止無二三は寄宿舎下宿とし家賃収入によって生計立てることとなる。 明治28年1895年)、無二三の窮状を見かねた寄宿生たちは負担軽減のために寄宿舎より転宿無二三も両門町・岩崎邸(現・東京都文京区湯島。但し、岩崎完成は翌1896年で、この頃建設中思われる)裏にて改め下宿屋を開く。しかし、ここも長く続かず下谷黒門町菓子屋開いた隣家老舗菓子屋だったため再び移転本郷森川町菓子屋開業する。ここで水飴牛乳入れた工夫菓子によって好調となるが、私食などによって経営負担増大したため再度移転本郷湯島新花町駄菓子屋を開くが、これもうまくはいかなかった。商売見切りをつけ、再び伝道士として下谷根岸講義所配属されるが、飯島信明中沢徳兵衛らに強請され、甲州へ戻る。 明治29年1896年)、四女誕生明治32年1899年)、石和甲府日下部経てこの年勝沼教会赴任明治34年1901年6月頃、伝道をやめ、大積寺山中の家へと戻り隠居生活始める。暮れ四女病気により亡くす。 明治40年1907年)、大積寺を降り上京、息・禮一郎渋谷建てた家へ移り住み養鶏始めたが、事情により転居目黒に移る。 明治42年1909年)、養鶏任せていた人物不備があり廃業明治44年1911年)夏、禮一郎が「帝国新聞」を創刊するため大阪赴任すると共に大阪転居。「帝国新聞没落により禮一郎東京へ戻った後、しばらくしてから東京府大久保転居明治45年1912年5月17日大久保にて胃癌により永眠。 現山梨市差出の磯、塔の山霊園に埋葬される

※この「禮一郎の書物による経歴」の解説は、「結城無二三」の解説の一部です。
「禮一郎の書物による経歴」を含む「結城無二三」の記事については、「結城無二三」の概要を参照ください。

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