公爵 公爵の概要

公爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/01 04:45 UTC 版)

概要

日本ではこの「」によって(英語の場合であれば)princedukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。

日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。

日本の公爵

華族の公爵

1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[2]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる[3]

1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[4]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[5]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[6]

公爵は華族の中でも最上位の階級(従一位相当[7])であり、全爵位の中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」と定められている[8]。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である[9]

華族そのものが「皇室の藩屏」だが、公爵家はその中でも特に天皇に近しい選民集団だった[10]。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった[11]。天皇への拝謁には上から単独拝謁、広間で集団でお迎えする列立拝謁、廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが、公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた[12]。また新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた[13]

華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年(大正4年)末時点における使用人数の平均は侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し、公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる[14]。特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった[15]。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった[16]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより、公爵位を含めた華族制度は廃止された。

貴族院における公爵

1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員勅任議員がある)[17]、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった[18]。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった[19]。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった[20]。こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった[20][19]。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた[21][18](必ず入隊することになっていた皇族王公族ほどではないものの、華族もノブレス・オブリージュの一環でなるべく入隊するよう奨励されていた[22])。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、近衛篤麿公爵、近衛文麿公爵、徳川家達公爵、二条基弘公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる[18]

また歴代貴族院議長伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった[23]。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが[20]、公侯爵は長年各派に分散していた[24]。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された[20]。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた[25]

叙爵内規

叙爵内規では公爵の基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」と定められていた[8]。具体的には以下のようになっている。

  1. 親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 - 「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時(明治17年当時)においては明確な定義はなかった[26]。当初は伏見宮家桂宮家有栖川宮家閑院宮家四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際には該当者は維新の功により皇族となったので(これにより親王家は4家から15家に増えていた)、華族令制定当時において「親王諸王より臣位に列せらるる者」に該当する者は存在しなかった[26]。皇族急増により1907年(明治40年)2月11日の皇室典範増補第1条で「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」と定められたことで臣籍降下で華族になる例が増えてくるが、公爵になった者はおらず、侯爵伯爵だった[26]
  2. 摂家。公家社会でも最高位に属するとされ、摂政関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家鷹司家九条家一条家二条家の計5家。
  3. 徳川宗家 - 旧将軍家・旧静岡藩主の徳川宗家のことである。
  4. 国家二偉功アル者 - 勲功華族の規定。侯爵以下の爵位の勲功華族の規定は「国家ニ勲功アル者」になっているのに対し、公爵のみ「偉功」が要求される。これは3種に大別できる。
    1. 「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。旧清華家三条家(家格では侯爵[27]だが三条実美の功績により)、旧羽林家岩倉家(家格では子爵[27]だが岩倉具視の功績により)、旧薩摩鹿児島藩主島津家(家格では侯爵[27]だが島津忠義の功績により)、旧長門萩藩主毛利家(家格では侯爵[27]だが毛利敬親元徳の功績により)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した旧清華家西園寺家西園寺公望の功績により)、旧清華家徳大寺家徳大寺実則の功績により)、旧水戸藩主水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績により)の3家もこれに含めて考えられる。
    2. 本家がすでに公爵となっているにも関わらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。叙爵内規上明治以降の華族の分家は男爵と定められていたのでこの二家は岩倉家の三階級特進を超える四階級特進だったといえる[28]
    3. 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。いずれも内閣総理大臣など国家中枢の役職を歴任して元勲と称された人々であり、当初子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、日清戦争や日露戦争などで勲功を重ねて侯爵を経て陞爵したものである[29]

日本の公爵家一覧

家紋 家名(通称等) 受爵者
襲爵者
旧家格
出自
叙爵年
所在など
近衛家 近衛篤麿
近衛文麿
旧摂関家
藤原北家嫡流(近衛流嫡流)
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
1945年(昭和20年)12月16日、返上。
東京市淀橋区下落合
鷹司家 鷹司熙通
鷹司信輔
旧摂関家
藤原北家嫡流(近衛流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市目黒区上目黒[30]
九条家 九条道孝
九条道実
九条道秀
旧摂関家
藤原北家嫡流(九条流嫡流)
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市赤坂区赤坂福吉町[31]
一条家 一条実輝
一条実孝
旧摂関家
藤原北家嫡流(九条流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市牛込区鷹匠町[32]
二条家 二条基弘
二条厚基
二条弼基
旧摂関家
藤原北家嫡流(九条流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市渋谷区代々木富ケ谷[33]
三条家
(転法輪家)
三条実美
三条公美
三条実憲
三条公輝
三条実春
清華家
藤原北家閑院流嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市品川区上大崎[34]
徳川家
(徳川宗家)
徳川家達
徳川家正
旧将軍家/旧静岡藩
清和源氏と称する。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市渋谷区千駄ヶ谷[35]
島津家
(島津宗家)
島津忠義
島津忠重
鹿児島藩
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市品川区五反田[36]
島津家
(玉里家)
島津久光
島津忠済
島津忠承
島津宗家分家
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市渋谷区豊分町[37]
毛利家 毛利元徳
毛利元昭
毛利元道
萩藩
大江氏
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市芝区高輪南町[38]
山口県防府市多々良[39]
岩倉家 岩倉具定
岩倉具張
岩倉具栄
羽林家
村上源氏
1884年(明治17年)7月8日、叙爵。
東京市渋谷区鉢山町[40]
徳川家
(徳川慶喜家)
徳川慶喜
徳川慶久
徳川慶光
徳川宗家別家
清和源氏と称する。
1902年(明治35年)6月3日、叙爵。
東京市小石川区小日向第六天町[41]
伊藤家 伊藤博文
伊藤博邦
伊藤博精
旧萩藩士
越智氏と称する。
1907年(明治40年)9月21日侯爵より陞爵。
東京市麻布区新龍土町[42]
大山家 大山巌
大山柏
旧鹿児島藩士
近江源氏
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。
東京市渋谷区穏田[30]
山縣家 山縣有朋
山縣伊三郎
山縣有道
山縣有信
旧萩藩士
清和源氏と称する。
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵
東京市麴町区富士見町[43]
徳大寺家 徳大寺実則
徳大寺公弘
徳大寺実厚
旧清華家
藤原北家閑院流
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
東京市渋谷区長谷戸町[44]
桂家 桂太郎
桂広太郎
旧萩藩士
大江氏
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
東京市芝区三田[45]
西園寺家 西園寺公望
西園寺八郎
旧清華家
藤原北家閑院流
1920年大正9年)9月7日、侯爵より陞爵。
1946年昭和21年)7月1日 返上。
静岡県庵原郡興津町[46]
東京市神田区駿河台[46]
松方家 松方正義
松方巖
旧鹿児島藩士
桓武平氏
1922年(大正11年)9月18日、侯爵より陞爵。
1927年(昭和2年)12月19日、返上。
徳川家(水戸家) 徳川圀順 水戸藩
清和源氏と称する。
1929年(昭和4年)11月18日 、侯爵より陞爵。
東京市渋谷区猿楽町[47]

中国の公爵

西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている[48]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない[49]。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している[49]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[50]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[51]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[52]

代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[53]食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている[53]。その後西晋でも爵位制度は存続し[54]恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた[54]。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている[55]

南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[56]

主要な中国の公爵

咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった[57]。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった[58]三公であった王祥鄭沖、そのほかの重臣賈充石苞衛瓘裴秀何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている[59]。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている[60]

から降伏した孫秀歩璿も公に叙せられている[60]太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている[61]

以降西晋期には宰相であった張華[62]前涼の基盤を作った張軌[63]などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦[64]前秦からの防衛に成功した謝安[65]、武将の陶侃[66]。そして東晋を滅ぼしを建国した劉裕[67]などがいる。

唐においては太宗即位後に長孫無忌高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている[56]。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。


  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)849頁参照。
  2. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-18.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 21.
  4. ^ 浅見雅男 1994, p. 71-76.
  5. ^ 小田部雄次 2006, p. 26.
  6. ^ 小田部雄次 2006, p. 30.
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  11. ^ 小田部雄次 2006, p. 18.
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