トマス・ホランド_(初代サリー公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > トマス・ホランド_(初代サリー公)の意味・解説 

トマス・ホランド (初代サリー公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 09:40 UTC 版)

トマス・ホランド
Thomas Holland
第3代ケント伯
初代サリー公
在位 ケント伯:1397年 - 1400年
サリー公:1397年 - 1399年

出生 (1372-09-08) 1372年9月8日
死去 (1400-01-07) 1400年1月7日(27歳没)
配偶者 ジョーン・スタッフォード
家名 ホランド家
父親 第2代ケント伯トマス・ホランド
母親 アリス・フィッツアラン
テンプレートを表示

初代サリー公・第3代ケント伯トマス・ホランド(Thomas Holland, 1st Duke of Surrey, 3rd Earl of Kent, KG, 1372年9月8日 - 1400年1月7日)は、イングランドの貴族。第2代ケント伯トマス・ホランドと第10代アランデル伯リチャード・フィッツアランの娘アリスの長男。父方の祖母はジョーン・オブ・ケントで、イングランド王リチャード2世は叔父(父の異父弟)に当たる。

生涯

父と叔父のハンティンドン伯ジョン・ホランドがリチャード2世に重用されたことからトマスも側近に引き立てられ、1397年に死んだ父の爵位を受け継ぎ第3代ケント伯となった。同年にリチャード2世がグロスター公トマス・オブ・ウッドストックと第11代アランデル伯リチャード・フィッツアラン(ケント伯の母方の伯父)ら反対派貴族を処刑した後に新設のサリー公に叙爵されたが(叔父もエクセター公を授与)、1399年にクーデターでリチャード2世が廃位、代わって即位したヘンリー4世から爵位を取り上げられ元のケント伯に戻された[1][2]

これに不満を抱いたケント伯は叔父とソールズベリー伯ジョン・モンタギュー英語版、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサーと組んで1400年1月の公現祭のヘンリー4世暗殺を計画したが発覚、即座に民衆に捕らえられ処刑された(エピファニー蜂起英語版[1][3]。第2代スタッフォード伯ヒュー・ド・スタッフォードの娘ジョーンと結婚していたが子が無く、ケント伯位は弟のエドマンドが継承したが、1408年に彼も子供が無いまま死去してホランド家は断絶した。ただし、従弟で共犯者として処刑された叔父の遺児ジョンは後にエクセター公位を与えられ分家が再興を果たした[4]

脚注

  1. ^ a b 青山、P406。
  2. ^ ロイル、P75 - P76、P424、
  3. ^ 森、P186 - P187、ロイル、P83、P91。
  4. ^ ロイル、P413。

参考文献

公職
先代
ノーフォーク公
軍務伯
1398年 - 1399年
次代
ウェストモーランド伯
先代
マーチ伯
アイルランド総督
1399年
次代
サー・ジョン・スタンリー
爵位・家督
先代
新設
サリー公
1397年 - 1399年
次代
消滅
先代
トマス・ホランド
ケント伯
1397年 - 1400年
次代
エドマンド・ホランド



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トマス・ホランド_(初代サリー公)」の関連用語

トマス・ホランド_(初代サリー公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トマス・ホランド_(初代サリー公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトマス・ホランド (初代サリー公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS