ニイハウ島事件 ニイハウ島事件の概要

ニイハウ島事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/09 13:30 UTC 版)

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ニイハウ島事件
第二次世界大戦, 太平洋戦争
Nishikaichi's Zero BII-120.jpg
焼却後の西開地重徳一飛曹搭乗零式艦上戦闘機二一型, 空母飛龍戦闘機隊所属 BII-120, 昭和16年12月17日, 米国陸軍派遣隊撮影
1941年 12月7日12月13日
場所ニイハウ島, ハワイ
結果

住民が西開地を殺害、あるいは西開地の自殺

  • 原田は自殺
  • 他2名は逮捕
衝突した勢力
(住民) 日本の旗 大日本帝国
指揮官
日本の旗 西開地重徳
戦力
5 住民の監視
住民の協力
1 パイロット
3 協力者
被害者数
1 負傷 2 殺害
2 逮捕

いきさつ

1864年以来、ハワイ諸島の中で最も西にあるニイハウ島はロビンソン家が私的に所有している。島民のほとんどはハワイ先住民で、彼らの第一言語は、他の島の住民のような英語やハワイ・クレオール英語ではなく、ハワイ語だった。他には少数の日系アメリカ人白人の住人がいた。

当時、島にはエールマー・ロビンソンから許可を得てのみ、入ることができた。しかし、島民の友人や親類以外に許可が下りる事はほとんど無かった。ロビンソンはハーバード大学を卒業しハワイ語に堪能だった。ロビンソンはいかなる政府当局の干渉も受けず島を管理した。ロビンソンはニイハウ島から約27キロ離れたカウアイ島に住んでおり、毎週ボートでニイハウ島を訪れていた。

大日本帝国海軍の軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1人も居住していないと記されていたため、1941年12月に行われた真珠湾攻撃に際して、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の緊急着陸地として、さらにパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた。これは西側の海岸が平坦な地形で滑走路として使い易く、また水深が深い為に潜水艦をギリギリまで寄せることが可能だった事が挙げられる。

西開地の不時着

西開地重徳一飛曹 (今治市出身[1], 甲飛2期[2], 21歳), アラン・ビークマン著『The Niihau Incident』の表紙より抜粋

12月7日、日本海軍の空母「飛龍」に所属する西開地重徳(にしかいち・しげのり)一飛曹は、真珠湾攻撃の第二波攻撃に参加した後、搭乗した零戦に銃撃を受け自爆認定された[3]。実際には、西開地はニイハウ島の野原に不時着していた。その約600メートル近くに住民の先住ハワイ人のハウリア・カレオハノがいた[4]。カレオハノは真珠湾攻撃に気づいていなかったが、日本の拡張主義とアメリカの日本への石油禁輸によって両国の関係が悪化していることは、新聞を読んで知っていた。カレオハノは、西開地と零戦を見て、彼が日本人だと気付き、不時着の混乱の最中、彼の銃と書類を奪った。

カレオハノと集まってきた住民たちは、西開地を伝統的なハワイ式歓迎やパーティーでもてなした。しかし、日本語と片言の英語のみを話す西開地の言葉を、住人たちが理解する事はできなかった。住人たちは、日本生まれの日系アメリカ人一世で、ハワイ人の妻を持つシンタニ・イシマツを通訳として呼んだ。

シンタニは、事前に状況を把握しており、明らかな嫌悪と共に通訳に臨んだ。彼は西開地とわずかな会話しかしなかった。そのため、西開地の態度が硬化し、シンタニは動揺して帰ってしまった。困惑した住民たちは、次にハワイ生まれの日系アメリカ人二世で、妻の梅乃(ウメノ・アイリーン)も日系アメリカ人二世だった原田義雄を呼んだ。

西開地はシンタニと違い比較的友好的であった原田に真珠湾攻撃に参加した事を明らかにした。原田はその事実を非日系人の住民には知らせなかった。西開地は奪われた書類を取り戻す事に必死だった。彼はその書類がアメリカ軍の手に渡っても何の意味も無いと言ったが、カレオハノは返却を拒否した。

住民が真珠湾攻撃を知る

ニイハウは電話はおろか電力も来ていなかったが、その夜、住民たちは、電池式のラジオで真珠湾攻撃の事を知った。住民たちは西開地を詰問し、原田は攻撃の事を今度は彼らに伝えた。島の持ち主のロビンソンが翌朝、週末の日課通りにカウアイ島から到着する予定だったため、西開地はロビンソンと共にカウアイ島へ移されることになった。

しかし、アメリカ軍が真珠湾攻撃の数時間の内に、島へのボート移動を禁止したため、ロビンソンは月曜日に到着できなかった。その後も数日の間、彼は足止めされた。禁止令の事を知らない住民たちは、ロビンソンが到着しない事に不安になった。原田家の要請によって、西開地は5人の監視と共に原田家に移され、彼らには十分な会話をする機会ができた。

12月12日の4時に、西開地の依頼を受けたシンタニは、カレオハノに対して、ニイハウの住民にとっては高額の「200ドルで西開地の書類を買う」と持ちかけたが、カレオハノは再び拒否した。シンタニは、「書類が西開地に戻らないと問題になり、生死に関わる事態になる」と言ったが、カレオハノは聞き入れず、シンタニは出て行った。

シンタニの帰りを待たず、原田と西開地は、家の外にいた監視の一人を襲った。その間、梅乃が騒動の音をかき消すために蓄音機で音楽を流した。5人の監視のうち、3人は職務を放棄して別の場所にいた。監視は倉庫に閉じ込められ、原田たちは散弾銃と倉庫に保管してあった西開地の銃で武装し、カレオハノの家へ向かった。

シンタニが出て行って数十分後、カレオハノは納屋にいた。そこで彼は、原田と西開地が銃を持ち人質を取ってやって来るのを見て隠れた。原田たちはカレオハノを見つけられず、彼らの注意は近くにあった西開地の零戦に向かった。カレオハノはそれを見て納屋から出て逃げた。「止まれ」という言葉と散弾銃の音を聞きながら、カレオハノは走った。カレオハノは、近くの村の住民に逃げるように言ったが、住民たちは原田がそのような行動を取るとは信じられなかった。原田は彼らと共に3年近く暮らし、良き隣人と思われていたからである。それから、捕らえられていた監視が逃げ出し、村へ戻った。住民たちは洞窟、藪の中、遠くの浜辺へと逃れた。

カレオハノは書類を家族に預けた。午前12時30分、彼は一連の出来事をロビンソンに伝えるため、5人の住民とともに救命ボートでカウアイ島へ向かった。これはボートを人力で漕ぐ、10時間に及ぶ旅程だった。ニイハウ島の住民が灯油ランタン反射板を使い、カウアイ島へ信号を送っていたため、ロビンソンはニイハウ島で問題が起こっている事を把握していた。その前夜には、住民たちは自暴自棄になり、たき火を行っていた。しかし、ロビンソンのニイハウ島への渡航は許可されなかった。

一方、原田と西開地は、西開地の零戦の無線を使おうと試みたが失敗し、機体に火を付けた。午前3時頃、カレオハノ宅にも火を付けた。




  1. ^ 土本匡孝, 平和:「ニイハウ島事件 日系2世の汚名返上を」, オッショイ!九州, 毎日新聞, 2011年12月7日.
  2. ^ 高橋賢三, 「甲飛の友」, 蒼空の記憶.
  3. ^ #飛龍飛行機隊調書(1)p.4
  4. ^ a b Lord, Walter (1957). Day of Infamy. Henry Holt and Company. pp. 188–191. ISBN 0-8050-6803-1. 
  5. ^ 姓の「カナヘレ」は、定冠詞の「カ」、「森」の意の「ナヘレ」で構成されている。(Dictionary translation.) カナヘレはニイハウ島に祖先を持つ家族にとって一般的な姓である
  6. ^ Prange, Gordon W. (1962). December 7, 1941: The Day the Japanese Attacked Pearl Harbor. New York: McGraw Hill. pp. 375–77
  7. ^ a b William Hallstead (2000年11月). “The Niihau Incident”. 2017年3月15日閲覧。
  8. ^ Beekman 1982, p. 112


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