第二帝政とは? わかりやすく解説

第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 13:54 UTC 版)

ドイツ国首相」の記事における「第二帝政」の解説

ドイツ諸邦最大国家であるプロイセン王国覇権のもとに、1867年成立した北ドイツ連邦は、プロイセン王連邦主席とし、加盟各邦の調整機関である連邦参議院帝国議会Reichstag)、簡素な連邦行政府有していた。この行政府頂点としてプロイセン首相(Ministerpräsident)、オットー・フォン・ビスマルク連邦宰相Bundeskanzler) を兼務した(連邦参議院業務プロイセン外相が行っていたため、立場プロイセン外相連邦宰相より上位となる。それ故ビスマルク連邦宰相プロイセン首相外相兼務していた)。 宰相(Kanzler)という称号中世前期から皇帝ないし国王の最高輔弼者に与えられており、プロイセン改革におけるカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの「宰相独裁」のように、君主制的・官僚制的・反議会的な要素象徴していた。すなわち、宰相権限君主信任にのみ依拠し議会から独立しているという点、さらに内閣において他の大臣より特別の地位例えば、ハルデンベルクプロイセン宰相在職中国王の上独占認められていた)を占めているという点において、「宰相」と内閣首席大臣たる「首相」(Ministerpräsident)は異なっていた。従って、連邦宰相ないし帝国宰相という職、そして宰相によって統率される行政府は、1848年三月革命成立したフランクフルト国民議会において選出され帝国大臣主席(Reichsministerpräsident)と、大臣主席を長とする帝国内閣(Reichsministerium)と違うものとして捉えられていた。 1871年1月18日南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦編入されドイツ帝国ドイツ・ライヒ)が成立したこれに伴い連邦主席称号皇帝に、連邦宰相帝国宰相(Reichskanzler)に改められた。初代帝国宰相には引き続きオットー・フォン・ビスマルク就任した同年4月16日ドイツ帝国憲法発布され新帝国の統治体制定まった帝国宰相は、ドイツ帝国元首である皇帝によって任命され皇帝権限である帝国法律制定公布執行監督勅令及び処分について責任負った。すなわち、帝国宰相政治上の責任皇帝に対してのみ負い帝国議会から独立して政務当たったのである。なお、帝国宰相連邦参議院議長務め、その諸事務を主宰した。帝国中央政府は、帝国構成する諸邦の既得権を侵さないという条件設置されたため、正式に帝国指導部(Reichsleitung)とよばれたこのため建国当初中央省庁の数は少なく多く法案作成や行政事務をプロイセン政府依存した。ゆえに帝国宰相は、1892年から1894年一時期除いてプロイセン首相兼任した。また憲法上、帝国宰相助け大臣内閣についての規定はなく、1918年まで帝国各省庁の長は、君主に対して宰相同様に責任を負う大臣Minister)という称号帯びなかった。つまり、帝国各省庁の長はその業務について自立した大臣ではなく帝国宰相下僚としてその指示厳格に従う国務長官(Staatssekretär)であったこのように帝国宰相ドイツ帝国統治体制上大きな権限掌握していたのであるが、皇帝意向プロイセンはじめとする諸邦政府動向配慮せねばならず、また自己の政策に対して国民的支持取り付けようとする場合帝国議会与党多数派形成しなくてはならないなど、その地位複雑なものであった1918年第一次世界大戦ドイツ敗戦濃厚になり、改革気運高まっていった。10月28日憲法修正され帝国宰相はその職務遂行に際して帝国議会信任を必要とし、連邦参議院及び帝国議会に対して責任を負うこと、皇帝権限行使する際に帝国宰相責任を負うこととなった。しかし、このような議会主義帝政」も国民の支持するところとなり得ず11月3日ドイツ革命始まった9日帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデン皇帝退位独断発表し社会民主党党首フリードリヒ・エーベルト帝国宰相職を譲り渡した同日フィリップ・シャイデマン共和国成立宣言し帝政崩壊した

※この「第二帝政」の解説は、「ドイツ国首相」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「ドイツ国首相」の記事については、「ドイツ国首相」の概要を参照ください。


第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:18 UTC 版)

ドイツ統一の日」の記事における「第二帝政」の解説

1871年1月18日ドイツ統一によるドイツ帝国樹立といった日は、国家記念日とならなかった。しかし9月2日は、普仏戦争におけるセダンの戦いでの勝利を祝う「セダン記念日」(Sedantag)として祝われた。ただしこの記念日皇帝ヴィルヘルム1世正式に認めたものではなかった。 1871年ドイツ帝国樹立されると、国家全体として記念日求め機運盛り上がるが、結局は3つ出された案の中から記念日指定されたものはなかった。1873年までにはセダン記念日国民のあいだでしだいに定着する一方でヴィルヘルム1世戴冠の日である1月18日普仏戦争講和条約であるフランクフルト条約調印の日である5月10日記念日としての関心が集まらなかった。セダン記念日には国内各地大学において祝賀行事が行われ、また9月の上旬になると戦争記念碑落成された。さらにプロイセン王国などの領邦一部教育省は、セダン記念日正式な休校日とした。その一方で皇帝パレード皇帝誕生日といったものの重要性は広まることがなかった。また、皇帝戴冠の日である1月18日国家記念日指定しようとする動きはたびたびあったが、ヴィルヘルム1世はこれを拒否した1月18日また、プロイセン王国初代国王フリードリヒ1世戴冠の日でもあり、そのために帝国全体祝日とはならなかった。 セダン記念日軍隊要素大きいため、民間人祝日としては疑問を呈するむきもある。このためラインヴェストファーレン県では、9月2日前夜ベル鳴らしかがり火をたき、愛国的な歌を歌い、また一部ではアウクスブルク平和祭のような催し実施するなど、「ドイツらしい」祝祭パレード行なうことを提案している。

※この「第二帝政」の解説は、「ドイツ統一の日」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「ドイツ統一の日」の記事については、「ドイツ統一の日」の概要を参照ください。


第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)

パリの歴史」の記事における「第二帝政」の解説

詳細は「フランス第二帝政」および「パリ改造」を参照 ナポレオン大統領地位には満足せず1851年12月2日クーデター起こし権力を掌握して、自らを皇帝ナポレオン3世称しテュイルリー宮殿に居を構えたナポレオン3世のもとで、近代パリ作られた。1853年ナポレオン3世ジョルジュ・オスマンセーヌ県知事任命しパリ近代化を行わせた。ジョルジュ・オスマン抜本的なパリ改造行い疫病などの温床となっていた旧市街大半解体し広く直線的な大通りブールバール)や放射状広がる大通りネットワーク置き換えたブローニュの森ヴァンセンヌの森は、大きな公園変わった1869年ジョルジュ・オスマン不祥事により辞任したが、オスマン計画今日パリ都市構造景観多く形作っている。

※この「第二帝政」の解説は、「パリの歴史」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「パリの歴史」の記事については、「パリの歴史」の概要を参照ください。


第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/29 11:00 UTC 版)

セナテュス=コンシュルト」の記事における「第二帝政」の解説

1851年12月2日のクーデターフランス語版)の後、フランスにはナポレオン1世時代統治機構再建された。皇帝ナポレオン3世在位1852年-1870年)は執行権掌握し立法権立法院Corps législatif)・元老院Sénat両院共有するものとされたが、法案起草公選議員からなる立法院ではなく官吏からなる国務院(Conseil d'Étatが行うものとされ、元老院終身勅選議員からなるものとされた。また、元老院法的拘束力をもつ元老院決議sénatus-consulte)により統治機構再編し1852年憲法修正することができるものとされた。元老院決議当初権威帝政フランス語版)の確立用いられたが、1860年代以降議会権限拡張による自由帝政フランス語版)への構造転換用立てられるようになった

※この「第二帝政」の解説は、「セナテュス=コンシュルト」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「セナテュス=コンシュルト」の記事については、「セナテュス=コンシュルト」の概要を参照ください。


第二帝政(1864年 – 1867年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 17:00 UTC 版)

メキシコ皇帝」の記事における「第二帝政(1864年1867年)」の解説

肖像名前在位年備考 マクシミリアーノ1世(フェルナンド・マクシミリアーノ・デ・アブスブルゴ=ロレーナ1832年 - 1867年 1864年4月10日 - 1867年5月15日 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。

※この「第二帝政(1864年 – 1867年)」の解説は、「メキシコ皇帝」の解説の一部です。
「第二帝政(1864年 – 1867年)」を含む「メキシコ皇帝」の記事については、「メキシコ皇帝」の概要を参照ください。


第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)

サロン・ド・パリ」の記事における「第二帝政」の解説

第二共和政フランスで有産階級無産階級対立激しくなる中、ルイ・ナポレオン1851年12月クーデター起こし1852年12月皇帝即位してナポレオン3世となったフランス第二帝政)。ナポレオン3世は、ジョルジュ・オスマンセーヌ県知事任命しパリ市街の大改造を行わせた。これによって中産階級市民生活大幅に近代化されパリヨーロッパ最先端文化都市となったサロン社会的行事として定着した。この時期絵画界を支配したのは新古典主義受け継ぐアカデミズム絵画であった画家出世コースは、まずエコール・デ・ボザール教育を受け、ローマ賞大賞をとればローマのフランス・アカデミーに国費留学ができ、さらにサロン入選すれば画家として認められ評価高まれば政府買上げ対象となり、最終的に芸術アカデミー会員絵画部門14名)に選ばれるというものであったローマ賞コンクールサロン審査委員務めたのも、保守的な芸術アカデミー会員であった。もっとも、第二帝政政府帝室美術館総局長(のち美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク取り仕切る美術行政の側は、芸術アカデミー余り保守性好まず芸術アカデミー弱体化を図る政策打ち出していった。

※この「第二帝政」の解説は、「サロン・ド・パリ」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「サロン・ド・パリ」の記事については、「サロン・ド・パリ」の概要を参照ください。


第二帝政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 23:53 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「第二帝政」の解説

詳細は「フランス第二帝政」、「パリ改造」、および「普仏戦争」を参照 第二帝政は皇帝国家元首として内閣任命し内閣皇帝に対してのみ責任負った議員公務員司法官らはその職務への就任にあたって皇帝への忠誠宣誓義務付けられた。皇帝法案発議司法権、軍の統帥権掌握していた。一方で1848年からの男性普通選挙維持されかねてよりナポレオン3世反対示し第二共和制時代には否決され1850年5月選挙法撤廃された。また一連のクーデター帝政復活過程行われた人民投票制度化された。 第二帝政では第二共和制比較して立法院議員定数750から約三分の一削減され小選挙区単記式で行われる選挙では、行政体制派の候補者に対して露骨に肩入れ行なわれるなど、権威主義的な選挙改革が行われた。 またナポレオン3世1853年6月29日セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン任命し、大規なパリ市改造計画推進させた。当時パリ中世以来名残残しており、所によって乞食浮浪者溢れ治安的な問題衛生的な問題から、犯罪疫病温床となっていた。そうした背景から、古い家は容赦なく取り壊され跡地には大通り高層建築などが建てられた。こうしたパリ改造とどまらずナポレオン3世サン=シモン主義影響から、全国的な鉄道の整備金融改革実行し、また農業工業分野においても、国家的な指導が行われ、フランス急速な近代化推し進められた。1860年にはニースサヴォワ住民投票を受け、サルディーニャ王国から併合した1853年10月クリミア戦争開戦すると、翌年1854年3月フランスイギリスなどとともにオスマン帝国陣営として参戦し、軍を派兵する。クリミア戦争勝利すると、講和会議パリ開催しフランス優位性名声示した。 しかし一方で1859年イタリア統一戦争では普墺戦争勝利していたプロイセン動向伺って中途半端な態度取っていたことイタリア人のみならず国内共和派カトリック支持者などを敵に回しこうした優柔不断なイタリア政策に不安を持っていたイギリス懐柔するために1860年締結され英仏通商条約は、自由貿易反対していた産業界からの支持を失わせていったこのようにヨーロッパ地域での対外政策一貫性欠いていた。 ヨーロッパ以外での対外政策では、フランス国内での資本集中化アジアアフリカへ植民政策実行させた。 アジア方面では、1856年にはアロー号事件契機に、アロー戦争経てイギリスなどとともに清国門戸を開くことに成功し1858年には開国たばかり日本日仏修好通商条約を、1859年にはサイゴンコーチシナ占領しカンボジア保護国化フランス領インドシナ樹立させた。アフリカ方面ではチュニジアモロッコに対して財政借款通じて影響力浸透させ、すでに植民地であったアルジェリアセネガルではその支配強化し支配域の拡大が行われた。 1861年借款返済停止宣言したメキシコに対してイギリススペインとともに出兵を行う、メキシコ出兵を行うも、あくまで借款返済再開意図し、それらが達成して兵を引き上げたイギリススペイン側と、メキシコ支配固執しメキシコに兵を残留させたフランス側とで齟齬生じフランスメキシコとの戦闘続けざるを得なくなった1864年にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン皇帝とする傀儡政権メキシコ第二帝政樹立させるも、南北戦争集結させたアメリカや、普墺戦争勝利したプロイセンなどの影響から、フランスメキシコからの撤兵余儀なくされた。その後銃殺刑となったマクシミリアン6000人以上の犠牲者出したこのメキシコ出兵失敗は、ナポレオン3世とその政府威信大きく落とす結果となったこうした失政を受け、議会おさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協迫られることが多くなった。その過程で、それまで禁止していた労働者団結権などを認めたこうした背景から、議会では共和派復権始め、またプルードン主義影響受けた労働者らは、イギリス労働組合連携取って第一インターナショナル結成するなど、反政府色を強めていった。 1870年5月には自由主義的な改革認否を問う人民投票で8割以上の支持得て国民からの信任得た。 さらに、世論を自らの権力正当化基盤としていたため、ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況追い込まれた。こうして1870年7月19日よりスペイン王位継承端を発する普仏戦争勃発したが、準備万全構えであったドイツに対して急ごしらえ貧弱な装備で挑まざるを得なかったフランス敗北重ね8月にはドイツ軍ライン河越えてフランスへ入り9月セダンの戦いナポレオン3世ドイツ軍捕虜となり、9月2日には10万兵士とともに降伏した。この降伏報せ受けたパリ住民4日議会押しかけ共和政宣言され、第二帝政は崩壊、ただちに「臨時国防政府」が組織された。失脚したナポレオン3世その後ロンドンへ亡命した。

※この「第二帝政」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「第二帝政」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二帝政」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から第二帝政を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から第二帝政を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から第二帝政 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二帝政」の関連用語

第二帝政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二帝政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドイツ国首相 (改訂履歴)、ドイツ統一の日 (改訂履歴)、パリの歴史 (改訂履歴)、セナテュス=コンシュルト (改訂履歴)、メキシコ皇帝 (改訂履歴)、サロン・ド・パリ (改訂履歴)、フランスの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS