臨時国防政府とは? わかりやすく解説

臨時国防政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「臨時国防政府」の解説

1870年9月2日セダンの戦いでのナポレオン3世捕縛が、ただちに第三共和政生み出したわけではなかった。2日後4日成立した臨時国防政府は共和派によって即席作られたもので、徹底抗戦訴えたパリ民衆からの圧力相まってプロイセン首相ビスマルク提示した休戦条件拒否され戦争継戦方向へと舵が切られるパリでは各地監視委員会が設置され物資不足の中での戦闘続けられた。9月にはパリ攻囲され、11月には降雪による飢えパリを襲う。10月には国防政府一員であった共和主義者レオン・ガンベッタ気球パリ脱出しボルドーといった地方での抗戦訴えた翌年1871年1月28日フランスドイツ休戦した翌月には国民議会選挙が行われ、継戦派を退けて和平派圧勝した。またこの選挙では、普仏戦争継戦和平かが選挙の争点となり、ナポレオン3世失脚対す共和政復活か、王政復古かは争点とはならなかった。新し首脳には七月王政時代進歩党率いていたアドルフ・ティエール王党派オルレアン派として当選し行政長官選ばれるティエールドイツとの講和交渉行い50フラン賠償金アルザス・ロレーヌ割譲、そしてこれら条約の批准までのドイツ軍パリ占領と、賠償金支払い保証としてのドイツ軍フランス駐留という屈辱的な内容仮条約調印し3月1日には議会でも546107圧倒的多数批准された。アルザス・ロレーヌ割譲は両州の議員強硬に反対示したが、ティエールにとってはこの両州の割譲よりも、賠償金の支払いが重要であった結果迅速な条約の批准によって、ドイツ軍によるパリ占領はわずか1日シャンゼリゼ通りでのパレードのみに短縮された。条約5月10日フランクフルト講和条約として正式に締結された。 この年1月18日にはプロイセン王ヴィルヘルム1世ヴェルサイユ宮殿ドイツ皇帝戴冠式挙行され3月1日にはドイツ軍パリ入城するなどが行われ、上述屈辱的な講和条約なども相まってフランスの対独復讐熱を加速させた。

※この「臨時国防政府」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「臨時国防政府」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。

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