臨時国防政府
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1870年9月2日のセダンの戦いでのナポレオン3世の捕縛が、ただちに第三共和政を生み出したわけではなかった。2日後の4日に成立した臨時国防政府は共和派によって即席で作られたもので、徹底抗戦を訴えたパリ民衆からの圧力も相まって、プロイセン首相ビスマルクが提示した休戦条件は拒否され、戦争は継戦の方向へと舵が切られる。パリでは各地で監視委員会が設置され、物資不足の中での戦闘が続けられた。9月にはパリが攻囲され、11月には降雪による飢えがパリを襲う。10月には国防政府の一員であった共和主義者のレオン・ガンベッタが気球でパリを脱出し、ボルドーといった地方での抗戦を訴えた。翌年1871年1月28日、フランスはドイツと休戦した。翌月には国民議会選挙が行われ、継戦派を退けて和平派が圧勝した。またこの選挙では、普仏戦争の継戦か和平かが選挙の争点となり、ナポレオン3世の失脚に対する共和政の復活か、王政復古かは争点とはならなかった。新しい首脳には七月王政時代に進歩党を率いていたアドルフ・ティエールが王党派のオルレアン派として当選し、行政長官に選ばれる。 ティエールはドイツとの講和交渉を行い、50億フランの賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲、そしてこれら条約の批准までのドイツ軍のパリ占領と、賠償金支払いの保証としてのドイツ軍のフランス駐留という屈辱的な内容の仮条約に調印し、3月1日には議会でも546対107の圧倒的多数で批准された。アルザス・ロレーヌ割譲は両州の議員が強硬に反対を示したが、ティエールにとってはこの両州の割譲よりも、賠償金の支払いが重要であった。結果、迅速な条約の批准によって、ドイツ軍によるパリ占領はわずか1日のシャンゼリゼ通りでのパレードのみに短縮された。条約は5月10日にフランクフルト講和条約として正式に締結された。 この年の1月18日にはプロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が挙行され、3月1日にはドイツ軍がパリに入城するなどが行われ、上述の屈辱的な仮講和条約なども相まって、フランスの対独復讐熱を加速させた。
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