コンコルダ体制とナポレオンの帝国とは? わかりやすく解説

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コンコルダ体制とナポレオンの帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「コンコルダ体制とナポレオンの帝国」の解説

コンコルダ」、「帝国代表者会議主要決議」、「フランス民法典」、および「ナポレオン1世の要理書」も参照 革命政府上述のように組織的にフランス世俗化推し進め非キリスト教運動においては革命的信仰創設最後試みであった敬神博愛教(フランス語版英語版)も不調に終わり1799年ころまでに国民多数カトリック復興を望むことが明らかになった。1799年8月教皇ピウス6世フランスで幽閉中にヴァランス没し1800年3月彼の友人であったジョルジョ・キアラモンティ枢機卿ピウス7世として新教皇に選出された。フランスでは1799年11月9日から10日にかけて総裁政府打倒され将軍ナポレオン・ボナパルト権力を掌握した(ブリュメールのクーデター)。12月22日には新し憲法共和暦8年憲法)が発布されナポレオン第一統領として強力な執政をにぎる統領政府成立した執政官ナポレオンオーストリアイギリスとの戦争状態を終結させ、フランス10年ぶりの平和をもたらす一方亡命者帰国促して全般的な恩赦布告するなど、国民和解務めたナポレオンフランス革命によって生じた宗教的分裂解決するため、カトリック教会との和解試みた第二次イタリア戦役によって得た北イタリアでの軍事的優勢背景として、1801年7月15日ナポレオンピウス7世コンコルダ政教協約)を結んだナポレオン側の目的としては、宗教社会管理一端を担わせること、カトリック教徒新政体を容認させること、王党派から統領政府反対する根拠を奪うことなどがあげられる政教協約カトリック国家宗教国教)としては承認せず、「フランス国民多数宗教」であるとして司教フランス政府指名し教皇によって教会法任命されるように規定して教会は広い分野国家統制服すべきこととされた。在俗聖職者国家からの俸給を受けることになり、代わりに教皇革命によって没収され教会財産返還求めないことに同意した。ただし、国家聖職者損害弁償することは約束された政教協約によって教会は「良心の自由」を保障しカトリックとプロテスタントの2宗派カルヴァン派ルター派)を公認宗教とすること、各宗派間で法的平等を共有することを認めさせられた。1806年にはユダヤ教公認宗教認められたことにより、ユダヤ教徒キリスト教徒同一権利をもつこととなったコンコルダ締結は、啓蒙思想流れを汲む学者政治家から批判されたが、実際に帝政期含めてフランス政府あらゆる宗教権力から自立しており、その意味では非宗派的であって少なくとも革命期の宗教政策否定するものではなくカトリック教徒多くはこれを歓迎したが、それは宗教基盤そのものを脅かす国家教会対立終わらせることができるだろうと期待されたからであった革命期に廃止され修道会については、1800年以降個別認可与え形式での復活認めたが、実際に認可されたのは教育看護にあたる女子修道会中心であり、イエズス会復活許されなかった。政教協約このような内容は、1814年憲章1830年憲章1848年憲法のいずれにおいても維持され1905年政教分離法まで、ローマフランス国家との関係を基本的に規定することとなった。 なお、ナポレオン政教協約締結直後基本条項」を付加し国家教会与えることを約束した譲歩いくつか国家による聖職者損害弁償など)について、これを撤回した。この経過により、フランス教会当事者世俗主義的かつ反カトリックとなったフランス政府信用しなくなりローマ教皇庁への傾斜強めようになった。こうしてフランスのカトリック教会には、従来ガリカニスム対抗してユルトラモンタニスムウルトラモンタニズム教皇至上主義)を主張する聖職者たちも増えていった。 1802年1月イタリアではチザルビーナ共和国イタリア共和国改組された。大統領にはフランス第一統領ナポレオン・ボナパルト就任し副大統領にはミラノ貴族のフランチェスコ・メルツィ・デリル(英語版)が任命され大統領府ミラノ置かれた。1803年9月イタリア共和国カトリック国教としたうえで信教の自由認め司教任命権国家有するという内容政教協約ローマ教皇結んだ1805年3月イタリア共和国ナポレオンを王とするイタリア王国移行した一方イタリア半島北西部ではフランス共和国(のち帝国)が1803年9月トリノピエモンテ1805年3月リーグレ共和国1807年以降エトルリア王国パルマ公国教皇国家次々と併合してフランス直轄領とし、南イタリアでは1806年ブルボン王家ナポリ去ってシチリア島逃れナポレオン一族君主とする新生ナポリ王国成立した。こうしてイタリア半島は、フランス帝国領、イタリア王国ナポリ王国にほぼ三分割され、それぞれフランスの強い影響を受けることとなったこうしたフランスヨーロッパにおける軍事的優勢は、1793年敷かれ一般兵義務によって国民軍成立したことによっていた。徴兵制兵力のいわば無尽蔵な供給を可能とし、傭兵よりも費用安く脱走の心配も少なく食糧現地補給方針あいまって高い機動力を可能とした。フランス国民軍を率いたナポレオンは、第一次イタリア戦役経てアルプス山脈越えおこないオーストリア抗争した。 神聖ローマ帝国ドイツ)の帝国クライス軍が撃破された結果オーストリア1797年カンポ・フォルミオ条約および1801年リュネヴィル条約によってフランスライン川左岸地域ラインラント)の領有認めることとなったライン左岸神聖ローマ帝国から離脱することによって多くドイツ諸侯領土を失うこととなり、その補償帝国内で行うことが決められた。補償内容決定するにあたりドイツ皇帝独断でそれを行う権利はないものの、帝国議会審議するにはあまりに時間がかかりすぎると予想されたところから1801年11月7日にはレーゲンスブルク帝国議会代表者会議設置された。ナポレオンラインラント支配ルイ14世以来の「再統合政策」の継続完成意味しており、明白にフランス領土拡張意図賜物であったが、こうした国家利害考え方領土取引というかたちでドイツの全諸領邦に強い影響与えた神聖ローマ帝国全体としてみた場合帝国議会帝国最高法院国内的ないし国際的な圧力への反応調整する働き評価され1790年代には再び活性化したものの、結局は有力諸侯、とくにプロイセン王国オーストリアの二大国には帝国維持してこうとい熱意欠けており、近隣弱小領邦維持しようというよりはむしろそれを犠牲にしてフランスロシア和解する道を選んだ1802年から1803年にかけての帝国代表者会議では、そのことがさらに鮮明となったのである1803年2月25日帝国代表者会議主要決議成立した結果ドイツではマインツ以外の全教会領が接収され領邦司教領土世俗権力の下に置かれる世俗化進んだまた、帝国騎士はすべてが地位失い帝国都市や小侯国など112におよぶ帝国等族所領取り潰され帝国都市6つ減少し、すべては大中の諸領邦併合され陪臣化傾向顕著になった。ドイツ領域大幅に再編成され神聖ローマ帝国は約40中規模邦国集合体となったが、世俗化陪臣化帝国切り崩すのに大きな影響力をもっており、実際に帝国がほとんど有名無実化した結果、「ドイツの自由」というヴェストファーレン条約以来ドイツ国制原則は完全に破綻したフランスでは1802年8月ナポレオン終身統領就任経て1804年5月には元老院決議によって帝政フランス第一帝政)が成立した世襲制含めた帝政移行人民投票かけられ99パーセント賛成批准された。同年12月2日パリノートルダム大聖堂で、ローマ教皇ピウス7世招いて聖別式が挙行された。法的に元老院決議人民投票による批准があれば帝政そのもの実現は可能であったが、ナポレオン自分カール大帝シャルルマーニュ)になぞらえフランス君主政伝統にもとづいた壮大な儀式をおこなうことによって帝政威厳与えようとしたのであり、ピウス7世ナポレオン皇帝冠を授けるためにパリ赴いたであった。しかし、ナポレオン教皇目の前で皇帝冠を被り皇后となるジョゼフィーヌには冠を授け、これを画家ダヴィドに描かせた。この行為は、教会政治支配下に置く意志現れとされる第一帝政期政教関係を特徴づけたのは、ここに象徴的にみられるナポレオン1世ピウス7世のあいだの葛藤であり、フランス近代における国家教会対立典型例となった1804年3月、のちに「ナポレオン法典」とよばれる民法典発布され、法の前での平等、信仰労働の自由、私的所有権絶対契約の自由規定された。1806年5月1日皇帝となったナポレオンは「皇帝要理書」と通称されるカトリック要理書発布し、その起草はダストロとジョフレの両師が中心になっておこなわれ皇帝その後継者への忠誠義務付加した。こうして、ナポレオン秩序回復のために教会復活させて国内教区再編成し政府中央の官吏統率宗教分野におよぶよう努めたが、ピウス7世皇帝要理書ナポレオン1世の要理書)の公認拒んだ。なお、1806年フランスでは共和暦正式に廃されグレゴリウス暦が完全なかたちで復活しており、「共和国」の呼称1807年まで公文書使用された。 最後の神ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右) 帝国代表者会議主要決議で特に領土多く獲得したドイツ領邦にはプロイセンバーデンバイエルンヴュルテンベルクがあったが、西南ドイツ中規模国家となったバーデンバイエルンヴュルテンベルクほか計16邦は1806年7月ナポレオン1世保護者とし、マインツ大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルク総裁とするライン同盟結成し帝国議会に対して正式にドイツ帝国からの離脱表明したドイツ弱小領邦にとっては、フランス編入されるドイツ周辺大領邦に併合されるかしか道が残されておらず、今や選択肢連邦主義しか残っていなかったのである1804年以来オーストリア皇帝」の称号用いていた神聖ローマ皇帝フランツ2世オーストリア皇帝としてはフランツ1世)は、ライン同盟帝国離脱受けて1806年8月6日ドイツ皇帝退位神聖ローマ帝国解散宣言した。これは、ナポレオン神聖ローマ帝国解体乗り出した結果ともいえるが、彼が神聖ローマ皇帝となってヨーロッパ君臨しようとする野心棄てていないことに対しフランツ側が機先を制した結果とも考えられるいずれにせよ、ここに10世紀後半以来850年有余続いてきた神聖ローマ帝国はその長い歴史閉じた。 これに前後しオーストリア1805年12月アウステルリッツの戦い三帝会戦)、プロイセン1806年10月イエナ・アウエルシュタットの戦いそれぞれフランス帝国軍敗れた反撃機会うかがっていたオーストリアスペインの反ナポレオン蜂起契機として1809年フランス宣戦布告したが、同年7月ヴァグラムの戦い大敗したプロイセンティルジットの和約オーストリアシェーンブルンの和約フランスと結び、フランスへ屈服余儀なくされた。これによってドイツ勢力図は、 フランス併合され地域ラインラント北ドイツライン同盟 ナポレオン従属国ヴェストファーレン王国ベルク大公国ナポレオン同盟関係にあるプロイセン・オーストリア に塗り替えられ、ここにナポレオンドイツ支配決定的なものとなったラインラントでは、かつてこの地に独立していた97聖俗諸侯領が一挙に取り壊されフランス的な地方自治制度もたらされ身分制廃止法の下の平等領主制廃止ナポレオン法典適用などフランス革命の全成果直接持ち込まれた。ヴェストファーレン王国ベルク大公国でもナポレオン法典適用され1807年制定ヴェストファーレン憲法英語版)はドイツ最初の憲法となったプロイセン場合1807年不名誉なティルジットの和約強いられ国民総力国家結集する体制構築することが国内的に求められたため、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクらを中心とする抜本的な自由主義改革プロイセン改革)の進展がみられた。ライン同盟加盟国であるバーデンバイエルンヴュルテンベルク場合歴史的伝統信仰する宗教異な多く多様な旧領邦国家を併合し支配領域を数倍に増やしたため、国家社会体制をまったく新しく、しかも独力で整えていかなければならなかった。バイエルン王国では1808年憲法制定され身分制廃止法の下の平等財産権保護信仰出版の自由などが規定されたが、これはヴェストファーレン憲法除けばドイツ人による初めての憲法であったバーデンヴュルテンベルクでは、内閣制度の導入領主裁判権破棄身分制廃止思想信仰の自由保障された。プロイセン改革ライン同盟諸国改革その後ドイツ史与えた影響大きくいずれの地域でも政教分離進展がみられた。 ナポレオン教皇ピウス7世の関係は、ナポレオン離婚問題大陸封鎖令関連して再び悪化した1808年フランス再度教皇領占領して帝国直轄地とし、1809年にティブル県とトラジメーヌ県を置いたのに対し同年教皇ナポレオン破門処した。それに対してナポレオン教皇逮捕応じ1809年から1814年まで中部イタリアサヴォーナへの幽閉経てフランス国内に移し新し政教協約署名するよう圧力をかけた。1813年ピウス7世いわゆるフォンテーヌブロー政教協約」に署名したが、同年ライプツィヒの戦いでプロイセン・オーストリア・ロシアを中心とする同盟軍ナポレオン破り1814年にはパリ入城果たした。これによって教皇ローマ帰還し、ただちに「フォンテーヌブロー政教協約」の無効宣言した第一帝政教皇庁との争いは、ナポレオン失脚によって終焉迎えたのである

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コング詳細は「キングコング 」を参照演 - テリー・ノタリー及びトビー・ケベル体長:31.6メートル / 体重:158トン。髑髏島の生態系の頂点に君臨する超大型類人猿。しかし、種としてはスカル・クローラーとの生存競争に敗れており、本作に登場したコングが最後の生き残りとなっている。両親を殺害したスカル・クローラーをはじめ、島の調和を乱す生物には容赦ないが、基本的には博愛精神の強い温厚な性格で、スカル・クローラーの脅威から守られている島民イーウィス族からは神として崇められている。マーロウは「この島の王」と呼称している。このコングはまだ若いオスであり、さらに巨大に成長することがマーロウの台詞から示唆されている。本作のコングの体長について、監督のロバーツは「将来的にゴジラと対決させるため」という理由のほか、「見上げたときに『神だ』と思うサイズを意識しているんだよ。『ワンダと巨像』に感じるような威厳をね」と述べている。また、モーションキャプチャを用いていることについては、「コングの動きをどうするのか、試行錯誤の中で使っているに過ぎない」と語っており、主にCGアニメーションで作られている。スカル・クローラー

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