コンコルダ体制とナポレオンの帝国
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「コンコルダ体制とナポレオンの帝国」の解説
「コンコルダ」、「帝国代表者会議主要決議」、「フランス民法典」、および「ナポレオン1世の要理書」も参照 革命政府は上述のように組織的にフランスの世俗化を推し進め、非キリスト教化運動においては革命的信仰創設の最後の試みであった敬神博愛教(フランス語版、英語版)も不調に終わり、1799年ころまでに国民の多数はカトリックの復興を望むことが明らかになった。1799年8月、教皇ピウス6世はフランスでの幽閉中にヴァランスで没し、1800年3月に彼の友人であったジョルジョ・キアラモンティ枢機卿がピウス7世として新教皇に選出された。フランスでは1799年11月9日から10日にかけて総裁政府が打倒され、将軍ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した(ブリュメールのクーデター)。12月22日には新しい憲法(共和暦8年憲法)が発布され、ナポレオンが第一統領として強力な執政権をにぎる統領政府が成立した。執政官ナポレオンはオーストリアやイギリスとの戦争状態を終結させ、フランスに10年ぶりの平和をもたらす一方、亡命者の帰国を促して全般的な恩赦を布告するなど、国民の和解に務めた。 ナポレオンはフランス革命によって生じた宗教的分裂を解決するため、カトリック教会との和解も試みた。第二次イタリア戦役によって得た北イタリアでの軍事的優勢を背景として、1801年7月15日にナポレオンはピウス7世とコンコルダ(政教協約)を結んだ。ナポレオン側の目的としては、宗教に社会の管理の一端を担わせること、カトリック教徒に新政体を容認させること、王党派から統領政府に反対する根拠を奪うことなどがあげられる。政教協約はカトリックを国家の宗教(国教)としては承認せず、「フランス国民の多数の宗教」であるとして司教はフランス政府が指名し、教皇によって教会法上任命されるように規定して教会は広い分野で国家の統制に服すべきこととされた。在俗聖職者は国家からの俸給を受けることになり、代わりに教皇は革命によって没収された教会財産の返還を求めないことに同意した。ただし、国家が聖職者の損害を弁償することは約束された。政教協約によって教会は「良心の自由」を保障し、カトリックとプロテスタントの2宗派(カルヴァン派とルター派)を公認宗教とすること、各宗派間で法的平等を共有することを認めさせられた。1806年にはユダヤ教も公認宗教と認められたことにより、ユダヤ教徒はキリスト教徒と同一の権利をもつこととなった。コンコルダの締結は、啓蒙思想の流れを汲む学者や政治家から批判されたが、実際には帝政期を含めてフランス政府はあらゆる宗教権力から自立しており、その意味では非宗派的であって少なくとも革命期の宗教政策を否定するものではなく、カトリック教徒も多くはこれを歓迎したが、それは宗教基盤そのものを脅かす国家と教会の対立を終わらせることができるだろうと期待されたからであった。革命期に廃止された修道会については、1800年末以降に個別で認可を与える形式での復活を認めたが、実際に認可されたのは教育や看護にあたる女子修道会が中心であり、イエズス会は復活が許されなかった。政教協約のこのような内容は、1814年憲章、1830年憲章、1848年憲法のいずれにおいても維持され、1905年の政教分離法まで、ローマとフランス国家との関係を基本的に規定することとなった。 なお、ナポレオンは政教協約締結直後「基本条項」を付加し、国家が教会に与えることを約束した譲歩のいくつか(国家による聖職者の損害弁償など)について、これを撤回した。この経過により、フランス教会の当事者は世俗主義的かつ反カトリック的となったフランス政府を信用しなくなり、ローマ教皇庁への傾斜を強めるようになった。こうしてフランスのカトリック教会には、従来のガリカニスムに対抗してユルトラモンタニスム(ウルトラモンタニズム、教皇至上主義)を主張する聖職者たちも増えていった。 1802年1月、イタリアではチザルビーナ共和国がイタリア共和国に改組された。大統領にはフランスの第一統領ナポレオン・ボナパルトが就任し、副大統領にはミラノ貴族のフランチェスコ・メルツィ・デリル(英語版)が任命され、大統領府はミラノに置かれた。1803年9月、イタリア共和国はカトリックを国教としたうえで信教の自由を認め、司教の任命権を国家が有するという内容の政教協約をローマ教皇と結んだ。1805年3月、イタリア共和国はナポレオンを王とするイタリア王国に移行した。一方、イタリア半島北西部ではフランス共和国(のち帝国)が1803年9月にトリノのピエモンテ、1805年3月にリーグレ共和国、1807年以降はエトルリア王国、パルマ公国、教皇国家を次々と併合してフランス直轄領とし、南イタリアでは1806年にブルボン王家がナポリを去ってシチリア島に逃れ、ナポレオン一族を君主とする新生ナポリ王国が成立した。こうしてイタリア半島は、フランス帝国領、イタリア王国、ナポリ王国にほぼ三分割され、それぞれフランスの強い影響を受けることとなった。 こうしたフランスのヨーロッパにおける軍事的優勢は、1793年に敷かれた一般兵役義務によって国民軍が成立したことによっていた。徴兵制は兵力のいわば無尽蔵な供給を可能とし、傭兵よりも費用が安く脱走の心配も少なく、食糧の現地補給方針とあいまって高い機動力を可能とした。フランス国民軍を率いたナポレオンは、第一次イタリア戦役を経てアルプス山脈越えをおこない、オーストリアと抗争した。 神聖ローマ帝国(ドイツ)の帝国クライス軍が撃破された結果、オーストリアは1797年のカンポ・フォルミオ条約および1801年のリュネヴィル条約によってフランスのライン川左岸地域(ラインラント)の領有を認めることとなった。ライン左岸が神聖ローマ帝国から離脱することによって多くのドイツ諸侯が領土を失うこととなり、その補償を帝国内で行うことが決められた。補償内容を決定するにあたり、ドイツ皇帝が独断でそれを行う権利はないものの、帝国議会で審議するにはあまりに時間がかかりすぎると予想されたところから、1801年11月7日にはレーゲンスブルクの帝国議会に代表者会議が設置された。ナポレオンのラインラント支配はルイ14世以来の「再統合政策」の継続と完成を意味しており、明白にフランスの領土拡張の意図の賜物であったが、こうした国家利害の考え方は領土の取引というかたちでドイツの全諸領邦に強い影響を与えた。神聖ローマ帝国全体としてみた場合、帝国議会と帝国最高法院は国内的ないし国際的な圧力への反応を調整する働きが評価されて1790年代には再び活性化したものの、結局は有力諸侯、とくにプロイセン王国とオーストリアの二大国には帝国を維持していこうという熱意に欠けており、近隣の弱小領邦を維持しようというよりはむしろそれを犠牲にしてフランスやロシアと和解する道を選んだ。1802年から1803年にかけての帝国代表者会議では、そのことがさらに鮮明となったのである。 1803年2月25日に帝国代表者会議主要決議が成立した結果、ドイツではマインツ以外の全教会領が接収され、領邦司教の領土が世俗権力の下に置かれる世俗化が進んだ。また、帝国騎士はすべてが地位を失い、帝国都市や小侯国など112におよぶ帝国等族の所領が取り潰されて帝国都市は6つに減少し、すべては大中の諸領邦に併合されて陪臣化の傾向が顕著になった。ドイツの領域は大幅に再編成され、神聖ローマ帝国は約40の中規模の邦国の集合体となったが、世俗化と陪臣化は帝国を切り崩すのに大きな影響力をもっており、実際に帝国がほとんど有名無実化した結果、「ドイツの自由」というヴェストファーレン条約以来のドイツの国制の原則は完全に破綻した。 フランスでは1802年8月のナポレオンの終身統領就任を経て、1804年5月には元老院決議によって帝政(フランス第一帝政)が成立した。世襲制を含めた帝政移行は人民投票にかけられ、99パーセントの賛成で批准された。同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂で、ローマ教皇ピウス7世を招いての聖別式が挙行された。法的には元老院決議と人民投票による批准があれば帝政そのものの実現は可能であったが、ナポレオンは自分をカール大帝(シャルルマーニュ)になぞらえ、フランス君主政の伝統にもとづいた壮大な儀式をおこなうことによって帝政に威厳を与えようとしたのであり、ピウス7世はナポレオンに皇帝冠を授けるためにパリに赴いたのであった。しかし、ナポレオンは教皇の目の前で皇帝冠を被り、皇后となるジョゼフィーヌには冠を授け、これを画家ダヴィドに描かせた。この行為は、教会を政治の支配下に置く意志の現れとされる。第一帝政期の政教関係を特徴づけたのは、ここに象徴的にみられるナポレオン1世とピウス7世のあいだの葛藤であり、フランスは近代における国家と教会の対立の典型例となった。 1804年3月、のちに「ナポレオン法典」とよばれる民法典が発布され、法の前での平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由が規定された。1806年5月1日、皇帝となったナポレオンは「皇帝要理書」と通称されるカトリック要理書を発布し、その起草はダストロとジョフレの両師が中心になっておこなわれ、皇帝とその後継者への忠誠義務を付加した。こうして、ナポレオンは秩序回復のために教会を復活させて国内の教区を再編成し、政府中央の官吏・統率が宗教分野におよぶよう努めたが、ピウス7世は皇帝要理書(ナポレオン1世の要理書)の公認を拒んだ。なお、1806年にフランスでは共和暦が正式に廃され、グレゴリウス暦が完全なかたちで復活しており、「共和国」の呼称も1807年まで公文書に使用された。 最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右) 帝国代表者会議主要決議で特に領土を多く獲得したドイツの領邦にはプロイセン、バーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクがあったが、西南ドイツの中規模国家となったバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクほか計16邦は1806年7月にナポレオン1世を保護者とし、マインツ大司教のカール・テオドール・フォン・ダールベルクを総裁とするライン同盟を結成し、帝国議会に対して正式にドイツ帝国からの離脱を表明した。ドイツの弱小領邦にとっては、フランスに編入されるかドイツの周辺の大領邦に併合されるかしか道が残されておらず、今や選択肢は連邦主義しか残っていなかったのである。1804年以来「オーストリア皇帝」の称号を用いていた神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)は、ライン同盟の帝国離脱を受けて1806年8月6日にドイツ皇帝の退位と神聖ローマ帝国の解散を宣言した。これは、ナポレオンが神聖ローマ帝国の解体に乗り出した結果ともいえるが、彼が神聖ローマ皇帝となってヨーロッパに君臨しようとする野心を棄てていないことに対し、フランツ側が機先を制した結果とも考えられる。いずれにせよ、ここに10世紀後半以来850年有余続いてきた神聖ローマ帝国はその長い歴史を閉じた。 これに前後し、オーストリアは1805年12月のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)、プロイセンは1806年10月のイエナ・アウエルシュタットの戦いでそれぞれフランス帝国軍に敗れた。反撃の機会をうかがっていたオーストリアはスペインの反ナポレオン蜂起を契機として1809年にフランスに宣戦布告したが、同年7月のヴァグラムの戦いで大敗した。プロイセンはティルジットの和約、オーストリアはシェーンブルンの和約をフランスと結び、フランスへの屈服を余儀なくされた。これによってドイツの勢力図は、 フランスに併合された地域(ラインラント、北ドイツ) ライン同盟 ナポレオンの従属国(ヴェストファーレン王国、ベルク大公国) ナポレオンと同盟関係にあるプロイセン・オーストリア に塗り替えられ、ここにナポレオンのドイツ支配が決定的なものとなった。 ラインラントでは、かつてこの地に独立していた97の聖俗諸侯領が一挙に取り壊され、フランス的な地方自治制度がもたらされ、身分制の廃止、法の下の平等、領主制の廃止、ナポレオン法典の適用などフランス革命の全成果が直接持ち込まれた。ヴェストファーレン王国やベルク大公国でもナポレオン法典が適用され、1807年制定のヴェストファーレン憲法(英語版)はドイツ最初の憲法となった。プロイセンの場合は1807年に不名誉なティルジットの和約を強いられ、国民の総力を国家に結集する体制を構築することが国内的に求められたため、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインとカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクらを中心とする抜本的な自由主義諸改革(プロイセン改革)の進展がみられた。ライン同盟の加盟国であるバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクの場合は歴史的伝統も信仰する宗教も異なる多くの多様な旧領邦国家を併合し、支配領域を数倍に増やしたため、国家と社会の体制をまったく新しく、しかも独力で整えていかなければならなかった。バイエルン王国では1808年に憲法が制定され、身分制の廃止、法の下の平等、財産権の保護、信仰と出版の自由などが規定されたが、これはヴェストファーレン憲法を除けばドイツ人による初めての憲法であった。バーデンとヴュルテンベルクでは、内閣制度の導入や領主裁判権の破棄、身分制の廃止、思想や信仰の自由が保障された。プロイセン改革とライン同盟諸国の改革はその後のドイツ史に与えた影響が大きく、いずれの地域でも政教分離の進展がみられた。 ナポレオンと教皇ピウス7世の関係は、ナポレオンの離婚問題と大陸封鎖令に関連して再び悪化した。1808年にフランスは再度教皇領を占領して帝国直轄地とし、1809年にティブル県とトラジメーヌ県を置いたのに対し、同年に教皇はナポレオンを破門に処した。それに対してナポレオンは教皇逮捕で応じ、1809年から1814年まで中部イタリアのサヴォーナへの幽閉を経てフランス国内に移し、新しい政教協約に署名するよう圧力をかけた。1813年にピウス7世はいわゆる「フォンテーヌブローの政教協約」に署名したが、同年のライプツィヒの戦いでプロイセン・オーストリア・ロシアを中心とする同盟軍がナポレオンを破り、1814年にはパリ入城を果たした。これによって教皇はローマに帰還し、ただちに「フォンテーヌブローの政教協約」の無効を宣言した。第一帝政と教皇庁との争いは、ナポレオンの失脚によって終焉を迎えたのである。
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