ぎんばん‐しゃしん【銀板写真】
銀板写真(松前勘解由と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉
主名称: | 銀板写真(松前勘解由と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉 |
指定番号: | 143 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 2006.06.09(平成18.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1枚 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 嘉永7年(1854年) |
検索年代: | |
解説文: | 本件はエリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影にかかる松前勘解由【かげゆ】と従者三人の集合写真である。被写体である松前勘解由は嘉永七年(一八五四)の撮影時、松前藩の家老で、幕府の公達により箱館においてペリーの応接にあたった。画像は鮮明さを欠くが、画面の角度を操作することにより像の存在を確認できる。画像は中央に裃姿の松前勘解由が椅子に座り、その背後に羽織袴姿の二人の従者と斜めに槍を持った僕が控える。 本件の銀板はハーフプレートで、化粧箱からそれを引き出すことが可能である。銀板右下隅に「E.Brown Jr/Hakotadi/Japan/1854」と刻銘があり、撮影者、撮影地、撮影時期を裏づける。ハーフプレート部分の構造は、底が銅板、さらに銀板、ガラス等をのせて周囲を真鍮の薄板でかしめて固定している。 化粧箱の装飾は表裏ともに中央に楕円を置き、周囲を花卉文で飾り、さらに唐草文を配し、周縁に金箔を押して施文する。蝶番破損のため蓋と身が分離している。化粧箱の内側底部には「E.Brown Jr/Daguerreotype Artist/United States Steam frigate Porhatan/Flag Ship of Commodore Perry/Hakotadi,Island Jesso/Japan/June 1st 1854,」と鉛筆書きされた洋紙の添状が貼りこまれている。これを附としてあわせて保存を図る。 本資料は写真技術の黎明を飾るダゲレオタイプの技術により、外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の一枚であり、幕末開港交渉というわが国の歴史上に重要な事象を跡づける遺品として、写真史および対外交渉史上貴重である。 なお、本資料は昭和六十三年に子孫の松前鼎一【ていいち】氏より松前町に寄贈された。 |
銀板写真(田中光儀像)<エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年>
主名称: | 銀板写真(田中光儀像)<エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年> |
指定番号: | 145 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 2006.06.09(平成18.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1枚 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 嘉永7年(1854年) |
検索年代: | 1854 |
解説文: | 本件はエリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影にかかる田中光儀【みつよし】の全身像である。 被写体である田中光儀は嘉永七年(一八五四)の撮影時、浦賀奉行所与力【よりき】としてペリーとの諸交渉にあたった。画像は羽織・袴姿で左手に扇子を持ち、太い鼻緒の草履を履いて中央に立つ田中光儀の姿が鮮明に映し出されている。また、首押さえの台が認められ、露光時間の長さを知る。 本件の銀板はクォータープレートである。銀板右下隅に「E.Brown Jr/Japan/1854」と刻銘があり、撮影者、撮影地、撮影時期を裏づける。銀板写真を納める化粧箱の装飾は、表裏ともに中央に花卉文で置き、周縁に金箔を押して施文する。 本資料は写真技術の黎明を飾るダゲレオタイプの技術により、外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の一枚であり、幕末開港交渉というわが国の歴史上に重要な事象を跡づける遺品として、写真史および対外交渉史上貴重である。 なお、本資料は子孫にあたる志村家に伝えられ、現在は東京都写真美術館に寄託され保存の措置が図られている。 |
銀板写真(黒川嘉兵衛像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉
主名称: | 銀板写真(黒川嘉兵衛像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉 |
指定番号: | 146 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 2006.06.09(平成18.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1枚 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 嘉永7年(1854年) |
検索年代: | 1854 |
解説文: | ペリー配下の写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影にかかる黒川嘉兵衛【かへえ】の半身像である。 被写体である黒川嘉兵衛は、嘉永七年(一八五四)の撮影時、浦賀奉行支配組頭【くみがしら】としてペリーとの諸交渉にあたった。彼はまた、吉田松陰【しょういん】が米艦搭乗に失敗、自首に及んだとき、その尋問にあたった人物でもある。銀板写真の嘉兵衛の画像は鮮明で、陣羽織を着し、大小を差している。向かって右の手を軽く握り、左の手は開き気味である。心もち緊張している様子が看取される。 本件の銀板はハーフプレートである。銀板左下隅に「E.Brown Jr/Japan/1854」と刻銘があり、撮影者、撮影地、撮影時期を裏づける。銀板写真を納める化粧箱の装飾は、表裏ともに中央に楕円、周囲に花卉文や唐草文を配し、周縁を金箔で施文している。化粧箱の蝶番は失われているため、蓋部分と身部分とが分離しているが、留金具は残存している。 本資料は写真技術の黎明を飾るダゲレオタイプの技術により、外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の一枚であり、幕末開港交渉というわが国の歴史上に重要な事象を跡づける遺品として、写真史および対外交渉史上貴重である。 なお、本資料は子孫の黒川家に伝えられ、現在は日本大学芸術学部写真学科に寄託され、保存の措置が図られている。 |
銀板写真(遠藤又左衛門と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉
主名称: | 銀板写真(遠藤又左衛門と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉 |
指定番号: | 147 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 2006.06.09(平成18.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1枚 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 嘉永7年(1854年) |
検索年代: | 1854 |
解説文: | ペリー配下の写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影にかかる遠藤又左衛門【またざえもん】と従者二人の集合写真である。 被写体である遠藤又左衛門は松前藩士で、嘉永七年(一八五四)の撮影時、箱館で松前勘解由の配下でペリーとの応接にあたった。銀板写真の画像は鮮明で、又左衛門は中央の椅子に座り、羽織・袴で威儀を正し、襟や刀の位置を正しくしている。一方、その背後に控える向かって左側の笠を持った従者の刀の位置と襟合わせは逆であり、右側の半纏股引の下僕の襟も左前である。この対比によって左右逆像となる銀板写真の特徴を知る。 本件の銀板はハーフプレートで、右下にブラウン・ジュニアの刻銘「E.Brown Jr/Hakotadi/Japan/1854」があり、撮影者、撮影地、撮影時期を裏づける。銀板写真を納める化粧箱の装飾は、表裏ともに中央に楕円を置き、四周を花卉文で飾り、さらに唐草文を配し、周縁に金箔を押して施文する。 「Presented by Commodore M.C.Perry/June 1st 1854./Hakodadi,Yesso」というインク書とその下に「此日影像/亜国提督被理/呈贈/遠藤又左衛門/甲寅五月初六日」という墨書がある洋紙一枚が附属しており、これを附としてあわせて保存を図る。 本資料は写真技術の黎明を飾るダゲレオタイプの技術により、外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の一枚であり、幕末開港交渉というわが国の歴史上に重要な事象を跡づける遺品として、写真史および対外交渉史上貴重である。 なお、本資料は昭和六十年に横浜市が遠藤家より購入し、現在横浜美術館で保存されている。 |
銀板写真(石塚官蔵と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉
主名称: | 銀板写真(石塚官蔵と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉 |
指定番号: | 148 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 2006.06.09(平成18.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 1枚 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 嘉永7年(1854年) |
検索年代: | 1854 |
解説文: | ペリー配下の写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影にかかる石塚官蔵【かんぞう】と従者三人の集合写真である。 被写体である石塚官蔵は松前藩士で、嘉永七年(一八五四)の撮影時、箱館で松前勘解由の配下としてペリーとの応接にあたった。画像はきわめて不鮮明であるが、劣化進行以前に作成された複製によりその画像を知ることができる。それによれば、中央に羽織・袴姿の官蔵が椅子に座り、背後向かって左に羽織・股引で笠を持つ男と、中央に草履を持つ男、右に槍を持つ男が控えている。 本件の銀板はハーフプレートで、右下にブラウン・ジュニアの刻銘「E.Brown Jr/Hakotadi/Japan/1854」があり、撮影者、撮影地、撮影時期を裏づける。銀板写真を納める化粧箱の装飾は、表裏ともに中央に楕円を置き、周囲を花卉文で飾り、さらに唐草文を配し、周縁に金箔を押して施文する。なお、化粧箱の蝶番は破損しているため、蓋部分と身部分とが分離している。 化粧箱の底には、鉛筆で「E.Brown Jr./Daguerreotype Artist/U.S.Steam Frigate Porhatan/Hakotadi/Island Jesso/Japan/June 1st 1854」と書かれた添状が一通貼られている。また、「Presented by Commodore M.C.Perry/Hakodadi,Yesso/June 1st 1854.」とインク書され、その下部に「此日影像/亜国提督被理呈贈/石塚官蔵/甲寅五月初六日」と墨書された洋紙の添状一通も別途附属している。さらにペリー一行に同行した通訳のウィリアムスと羅森【らしん】が書いた扇面一幅が伝えられており、これらをともに附としてあわせて保存を図る。 本資料は画像は不鮮明ながら、撮影にかかる歴史の明らかなものであり、写真技術の黎明を飾るダゲレオタイプの技術により、外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の一枚として、また幕末開港交渉というわが国の歴史上に重要な事象を跡づける遺品として、写真史および対外交渉史上貴重である。 なお、本資料は子孫である石塚家に伝えられ、現在は函館市に寄託されている。 |
銀板写真(島津斉彬像)
歴史資料: | 銀板写真 銀板写真 銀板写真 銀板写真 銅人形 長崎奉行所キリシタン関係資料 長崎奉行所関係資料 |
ダゲレオタイプ
(銀板写真 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/03 15:54 UTC 版)
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ダゲレオタイプ(仏: daguerréotype)とは、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界初の実用的写真撮影法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法。銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。転じて、その技法を採用した世界最初の写真用カメラ「ジルー・ダゲレオタイプ」もダゲレオタイプと呼ばれる。
主な特徴
ダゲレオタイプの最も大きな特徴は、ポジティブ画像をダイレクトに得る写真技術であるという点である。ダゲレオタイプ以降に登場した写真技術では、基本的に明暗の反転したネガティブ画像を得て、そこから明暗の反転しないポジティブ画像をプリントする方式が主流であったのに対し、ダゲレオタイプは銀板上に定着されたポジティブ画像そのものが最終的に鑑賞に供される画像となる。このことは、ダゲレオタイプで撮影された写真は一枚しか存在しないことを意味する。またダゲレオタイプに使う銀板は不透明であるから、感光面側から像を鑑賞する形となり、左右が反転した像を見ることとなる。 接触などによって銀板上に定着した像が壊されやすいのもダゲレオタイプの欠点の一つであり、ガラスなどで保護するなどの対策が必要となる。
最初期のジルー・ダゲレオタイプは感度が低いことに加えて、レンズの開放値も暗かったため、露光時間が日中屋外でも10-20分かかり、肖像写真に使えるようなものではなかったが、1840年代初頭にペッツヴァールが明るいレンズを開発したほか、感光材料も改良されていったことによって、1-2分から最短で数秒程度の露光時間で済むようになった。これは写真湿板よりもやや高感度か、ほぼ同様の性能である。
歴史

カメラ・オブスクラの画像を固定して残そうとする試みは18世紀末以降さまざまに行われてきた。最も早く発表されたのは1802年発表のトマス・ウェッジウッドによる硝酸銀を用いた方法だが、彼は得られた画像を定着する方法にはたどり着いていない。
ダゲレオタイプの発明に直接つながる動きとしては、ダゲレオタイプ発明のもう一人の立役者ニセフォール・ニエプスがカメラ・オブスクラの画像を固定するヘリオグラフィーを1824年に開発している。これは、ピューター板(鉛とすずの合金。後には銀メッキ銅板も使用)の上にアスファルトを塗ったものを感光剤として使う方法である。このヘリオグラフィこそが世界最初の写真技法だと言えるが、露光時間が日中の屋外でも8時間もかかるなど、とても実用的とは言えなかった。
パノラマ館やジオラマ館など光学技術を用いた興行を行っていたダゲールは、1824年前後から独自に写真の研究を始めていた。ダゲールは、カメラ・オブスクラなどの光学機器を購入していたシャヴァリエ店のシャルル・シャヴァリエからニエプスの成功を知らされる。ダゲールは1829年12月14日にニエプスと共同研究を行う契約を結んだ。これによって、ダゲールはニエプスの発明の詳細を知ることができた。
ヘリオグラフィとダゲレオタイプはその原理の面から見ればほとんど別物といっていい写真技法である。しかし銀板やヨウ素を使うこと、現像というプロセスのアイディアなどヘリオグラフィからダゲレオタイプに引き継がれた要素も多い。
始めの契約では完成した写真技法にはニエプス、ダゲール両名の名前を残すことになっていた。共同研究の途上でニエプスは死亡し共同研究のパートナーはその息子イジドール・ニエプスに引き継がれた。その後の契約変更でニエプスの名は残されないこととなった。
ダゲレオタイプを完成させたダゲールは、自分の発明に箔をつけるため物理学者のフランソワ・アラゴなど、当時高名だった科学者・芸術家にダゲレオタイプを見せている。アラゴはこの発明を世界に公開するというアイデアを思いつき、そのために特許をフランス政府が買い取り、ダゲールと、イジドール・ニエプスに年金を支払うように働きかけた。そしてこの提案は実現し、ダゲレオタイプは誰もが使えるものとなった。
1839年8月19日、フランス学士院科学アカデミーの定例会において芸術アカデミーとの共催によりダゲレオタイプに関する公開講演が行われた。講演者はフランソワ・アラゴである。ここでダゲレオタイプの全てが公開された。
ダゲレオタイプ発表当時、既にカメラ・オブスクラの画像を固定する技術はいくつか存在した。たとえば現代につながるネガ=ポジ法の創始者であるタルボットは、カロタイプをダゲールの発明以前に完成していたと主張している。しかし、ダゲレオタイプは圧倒的に高精細であり、またフランス政府が特許を買い上げたこともあって瞬く間にヨーロッパとアメリカ大陸に普及した。
後に、銀板をヨウ素蒸気にさらす際に臭素を加えるゴッダード法の開発等により感度を向上させるなど改良が加えられた。
アメリカ大陸では、家族の肖像写真をダゲレオタイプで撮影したものが多く残っている。後に写真湿板が発明されヨーロッパ大陸ではダゲレオタイプが駆逐された後においても、アメリカではしばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれており、残ることとなった。
現代の日本でも、新井卓らダゲレオタイプで作品を撮影する写真家がいる[1]。
原理
準備
銀メッキした銅板を鏡面に磨き上げ、ヨウ素蒸気に晒して表面にヨウ化銀の膜を形成し、これを日光などに当たらないようにカメラへ取り付ける。
露光
日中屋外での露光時間は初期のタイプで10 - 20分、改良されたものは最も短いもので数秒程度である。光が当たった部分のヨウ化銀がイオン励起状態を作ることにより像(潜像)が記録される。この段階では直接銀板表面を見ても画像を鑑賞することはできない。
現像
撮影した銀板を水銀蒸気に晒すことによって、目に見えなかった撮影済みの画像を目に見える画像にすることができる。露光時に励起した銀イオンに水銀が作用して銀水銀アマルガムを形成することによって像が浮かび上がる。
定着
現像してできた像は、放って置くと感光が進んで崩れてしまう。そこで、ダゲールオリジナルの方法では食塩水を用いて定着させるという操作が必要になる。のちにジョン・ハーシェルによってチオ硫酸ナトリウムを用いる方法が考案された。
ジルー・ダゲレオタイプ
ジルー商会から発売された最初の市販ダゲレオタイプカメラ「ジルー・ダゲレオタイプ」は、シャルル・シャヴァリエ製作の色収差を補正したメニスカス・レンズを使っていたが、このレンズはF17程度と非常に暗く、露光時間はパリの日中で10 - 20分程度かかったとされる。「どのカメラもダゲールの署名とジルーの印のないものは保証しない。ダゲレオタイプはパリのダゲールの指導により、アルフレッド・ジルー商会が製造したものである」とのプレートがつけられている。日本では「日本カメラ博物館」にオリジナルが展示されており、「ペンタックスカメラ博物館」にはレプリカが展示されていた。167×216mm判。
ギャラリー
- 人物・群像
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ウェリントン公爵(1844年)
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アンドリュー・ジャクソン(1845年)
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下院議員選挙に出馬したエイブラハム・リンカーン(1846年)
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ボストンでの外科手術(1847年)
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エドガー・アラン・ポー(1848年)
- 静物・風景
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ダゲールのアトリエ(1837年)
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ダゲールによる写真「タンプル大通り(Boulevard du Temple)」。1838年から1839年に撮影。10分以上の露光により、道路を行き交う人馬は全く写っていないが、唯一画面左下に靴磨きをしてもらっている人物が写っており、人類史上初めて写真に写った人物とされている。
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サンフランシスコの町並み(1851年頃)
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ペンシルベニア大通り(1865年頃)
脚注
参考資料
- 『ダゲレオタイプ教本』 著:L.J.M.ダゲール 解説・訳:中崎昌雄 ISBN 4-257-12020-7
- 『写真の歴史入門 第1部「誕生」 新たな視覚のはじまり』 著:三井圭司 監修:東京都写真美術館 ISBN 4-10-602126-9
関連項目
- シュタインハイル グロッシェンカメラ (1839年) 8.6×11.5mm判。
- フォクトレンダー 肖像写真用ダゲレオタイプ (1841年) 直径79mmまたは93mm判。
- 写真史
- 写真技法
外部リンク
「銀板写真」の例文・使い方・用例・文例
銀板写真と同じ種類の言葉
- 銀板写真のページへのリンク