写真の日の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 03:42 UTC 版)
1951年制定された写真の日は梅本の説に基づいて6月1日になっている。上野俊之丞は蘭語、理化学、特に光学に精通していた。彼の熱心な研究により、ダゲレオタイプで撮影することは、短期間に習得しえると考えられた。天保12年(1841年)、西洋機器と薬物製造の委嘱を受けて薩摩藩の蘭学者松木雲徳、その養子藤太郎の案内で海路薩摩に渡り、6月1日、島津斉彬を撮影した。 しかし、現在(2014年)の時点でこれは誤りとされる。俊之丞の確実な輸入は嘉永元年(1848年)とされる。天保14年(1843年)には、蘭船がダゲレオタイプを船に載せたが、日本国内に上陸していない。しかも、天保12年(1841年)6月1日には島津斉彬は江戸藩邸に滞留中であった。 なお、日本に写真が渡来したのは嘉永年間とされる。最初にダゲレオタイプ(銀板写真)の撮影が成功したのは、安政4年(1857年)9月17日に、薩摩藩士市来四郎、宇宿彦右衛門らが藩主島津斉彬を撮影したもので、現在鹿児島の尚古集成館に保存されている。平成11年(1999年)6月、この銀板写真が写真としては初めて、国の重要文化財に指定された。しかし、一度決定した写真の日の変更はない。
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