写真の戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:59 UTC 版)
ローゼンタールの「硫黄島の星条旗」は1945年度のピューリッツァー賞 写真部門を受賞した唯一の写真となった。ローゼンタールの写真は現在[いつ?]、ロイ・ウィリアムスが所有している。ウィリアムスはこの写真をローゼンタールから譲り受けて国立報道写真家協会のために保管していたジョン・フェーバーから購入した。2度の掲揚で用いられた2本の星条旗はワシントンにある海兵隊記念館に保管されている。 1951年、彫刻家のフェリックス・ド・ウェルドンは海兵隊記念碑として、ローゼンタールの写真をもとにした彫像の制作に着手した。生還した3人の兵士たちはウェルドンのためにポーズをとり、戦死した3人に関しては写真をもとに頭部を制作した。 ローゼンタールの写真があまりにも有名になりすぎたため、この写真が摺鉢山での「2度目」の星条旗掲揚であることがあまり知られない結果となってしまった。最初の掲揚に立ち会ったチャールズ・W・リンドバーグ伍長(最初の掲揚時に右端に立っている人物)は「自分が星条旗の掲揚を行ったといってもさんざんうそつき呼ばわりされてきた。ろくなことがなかった」とこぼしていた。 戦後、アイラ・ヘイズは生き残ったことへの罪悪感から酒びたりになり、うつ状態に陥った。カントリー歌手のジョニー・キャッシュは「アイラ・ヘイズのバラッド」(1964年)でアイラの人生を歌っている。後にボブ・ディランもこれをカバーしている。 ブラッドリーはこの硫黄島の体験を「忘れた」といってほとんど語らなかった。47年に及んだ結婚生活でもブラッドリーがこのことを語ったのは妻のベティに対してだけで、しかも最初のデートでの一度きりだった。家族の中でこの話はタブーにすらなっていた。1985年、一度だけブラッドリーは自らの思い出を語った。これはどうしても孫たちのために語り残してほしいという妻の強い願いに応えたものであった。ブラッドリーが1994年に死去したあと、家族は1997年に硫黄島を訪れ、星条旗が掲揚された場所に記念碑を設置した。息子のジェイムズ・ブラッドリーは父が死去したとき、父の硫黄島の体験について何も知らないことに気づき、4年かけて星条旗掲揚に立ち会った兵士たちの家族を訪れて聞き書きし、『硫黄島の星条旗』(Flags of Our Fathers)というタイトルで出版した。これをもとにクリント・イーストウッド監督の2006年の映画『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)が、また硫黄島の戦いを日本軍の視点から見た『硫黄島からの手紙』がつくられた。
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