星条旗の掲揚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:59 UTC 版)
ローゼンタールの「硫黄島の星条旗」は摺鉢山制圧後、2度目に行われた星条旗掲揚の様子を写したものである。2月23日早朝、最初の星条旗掲揚が行われた。第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊E中隊長デイヴ・サヴァランス(Dave E. Severance)大尉はハロルド・シュリアー(Harold G. Schrier)中尉に摺鉢山の制圧を味方に知らせるため、頂上に星条旗を立てるよう命じていたのだ。頂上付近が制圧された後で掲げられた最初の星条旗は131×71cmのもので、その模様をロイス・ロウェリー(Louis Lowery)軍曹が撮影している。しかし、この旗は小さかったので海岸付近からは見ることができなかった。 一方で、マイク・ストランク(Michael Strank)、ハーロン・ブロック(Harlon Block)、アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)、 フランクリン・スースリー(Franklin Sousley)たちは23日の午前中、摺鉢山頂上へ電話線をひく任務を遂行していた。チャンドラー・ジョンソン大佐(Chandler Johnson)からサヴァランス司令官へその旨が伝えられ、サヴァランスはSCR300電池の予備をもたせてレイニー・ギャグノン(Rene Gagnon)を急派した。アメリカ合衆国海兵隊公式戦史によればタトルはLST779号のそばで星条旗を見つけてジョンソンに渡し、さらにジョンソンがギャグノンにそれを渡して頂上に立てさせたという。戦史ではジョンソンがLST779号の乗員で真珠湾の基地から星条旗を持ってきていたアラン・ウッド少尉から受け取ったとしている。しかし沿岸警備隊歴史部によれば、ギャグノンは星条旗を探してLST758号の近くへやってきたという。2004年に死去したロバート・レズニック (Robert Resnick) が2001年に初めて行った証言によれば、ギャグノンが星条旗を探していたのでレズニックは自分の船から星条旗を取り出し、上官のフェリックス・モレンダ大尉の許可を得た。この旗はメア島の海軍工廠の技師メイベル・ソヴァギューが縫ったものだという。 40名の海兵隊員たちは正午ごろ頂上付近に到達、ギャグノンが後から加わった。日本兵たちの抵抗はまだ続いていたがアメリカ軍の砲撃によってほぼ制圧されていたので頂上にたどりつくことができた。 ローゼンタールと従軍カメラマンのボブ・キャンベルおよびビル・ジェノウストの3人も頂上を目指して登っていたが、途中で最初の星条旗掲揚を撮影しておりてきたロイス・ロウェリーと出会った。3人はいったん下りようかと思ったが、ロウェリーから頂上は写真をとるのにいい場所だと聞いたため上がっていくことにした。 海兵隊員たちは頂上に星条旗を立てていた。旗のポールとして日本軍の水道管が使われた。ローゼンタールたちが頂上につくと海兵隊員が旗を水道管にゆわえたところであった。ローゼンタールはすばやく高速度撮影カメラを取り出して岩の上にカメラを固定しようとした。彼がカメラを構える前に星条旗が掲げられているのを見たローゼンタールはとっさにカメラを旗に向け、ファインダーをのぞかずにシャッターを切った。 ローゼンタールの90センチ程の隣にはビル・ジェノウスト(en:Bill Genaust)がいて、星条旗の掲揚の様子を映像で記録しており、ローゼンタールの写真とほぼ同じアングルで撮られた映像になっている。 写真に写った6人(マイク・ストランク、レイニー・ギャグノン、フランクリン・スースリー、ハロルド・シュルツ、ハーロン・ブロック、アイラ・ヘイズ)のうち、戦後まで生き残ったのはヘイズ、ギャグノン、シュルツの3人だけだった。ストランクは星条旗掲揚の6日後に味方駆逐艦の誤射を受け死亡、ブロックはその数時間後に迫撃砲による攻撃を受け戦死、スースリーは3月21日に狙撃兵の銃弾を受けてそれぞれ戦死している。また、ハロルド・シュルツは2016年までジョン・ブラッドリーであるとされ、2019年にはレニー・キャグノンも実際には写真に写っていなかったことが判明した(後述)。
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