カメラ‐オブスクラ【camera obscura】
読み方:かめらおぶすくら
カメラ・オブスクラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/19 22:22 UTC 版)
カメラ・オブスクラ(ラテン語: camera obscura、「暗い部屋」の意味。カメラ・オブスキュラ、カメラ・オブスクーラとも)は、写真の原理による投影像を得る装置で、実用的な用途としてはもっぱら素描などのために使われた。写真術の歴史においても重要で、写真機を「カメラ」と呼ぶのはカメラ・オブスクラに由来する。最初に「カメラ・オブスクラ」という言葉を用いたのはヨハネス・ケプラーとされる[1]。
注釈
- ^ 経説下「足敝下光,故成景於上;首敝上光,故成景於下,在遠近有端與於光,故景㢓內也」。『墨子』の「経説上・下」各段は「経上・下」の対応する段に対応に対する注になっているものが多い。(薮内清訳注『墨子』東洋文庫、Needham, 1986 Page 82.)
- ^ 少なくとも同書の全部がアリストテレスによるとは考えられていない。6世紀ごろまでの長い期間に逍遥学派によって少しづつ書き継がれてきたと思われる。『問題集』の執筆の時期についてはA. Blair, ‘The Problemata as a natural philosophical genre’;and J. Monfasani, ‘The pseudo-Aristotelian Problemata and Aristotle’s De Animalibus in the Renaissance’,both in Natural Particulars: Nature and the Disciplines in Renaissance Europe (ed. A. Grafton and N. Siraisi),Cambridge, MA, 1999, 171–204.
- ^ 理由としては、①たまたま曇りであるなどの幸運がなければ特別な装置を用いずに直接観測することは不可能、②カメラ・オブスクラの原理は既知、という二点を挙げている。(Mozaffari 2013などを参照)
- ^ ロジャー・ベーコンやPechamは「光は丸くなる傾向がある」という理論で像ぼやけることを説明しようとし、Pechamは光の直進性に例外がある可能性を示唆した。ウィテロは一点から発した光が様々な形の穴を通るときに像が丸みを帯びるという誤った命題を「証明」した (Lindberg, 1968)。
出典
- ^ History of Photography and the Camera - Part 1: The first photographs
- ^ 『墨子国字解 下』明治44年
- ^ Needham 1986
- ^ a b Wang, Jinguang & Wang, Caiwu 2008.
- ^ Zhao Youqin, Encyclopedia of Britanica https://www.britannica.com/biography/Zhao-Youqin また、中国版Wikipediaを参照。
- ^ a b c d e f g h Raynaud,Dominiqu. 2016.
- ^ Aristotle, Problems, Book XV(912b28)
- ^ Aristotle, Problems, Book XV, 6 (911b3)
- ^ David H. Kelley, Exploring Ancient Skies: An Encyclopedic Survey of Archaeoastronomy: "The first clear description of the device appears in the Book of Optics of Alhazen."
- ^ Bradley Steffens (2006), Ibn al-Haytham: First Scientist, Chapter Five, Morgan Reynolds Publishing, ISBN 1-59935-024-6, Lindberg, 1968
- ^ BBC - The Camera Obscura
- ^ Mancha J.L. (1989) “Egidius of Baisiu’s theory of pinhole images,” Archive for History of Exact Sciences 40: 1–35.
- ^ Goldstein B.R. (1985) The Astronomy of Levi ben Gerson (1288–1344). A Critical Edition of Chapters 1–20 with Translation and Commentary. SpringerのIntroductionなどを参照。
- ^ a b c d e 『発明の歴史カメラ』pp.2-8「カメラ先史」
- ^ https://micro.magnet.fsu.edu/optics/timeline/people/cardano.html
- ^ John Francis Campbell, My Circular Notes, 1876, p.145.
- ^ “344回 TDS フォートレス・エクスプロレーション「カメラ・オブスキュラ」ニセフォール・ニエプス”. 『夢の通り道』. 日本テレビ (2013年1月13日). 2019年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月2日閲覧。
- 1 カメラ・オブスクラとは
- 2 カメラ・オブスクラの概要
- 3 脚注
- 4 外部リンク
カメラ・オブスクラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:55 UTC 版)
詳細は「カメラ・オブスクラ」を参照 写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するために、カメラ・オブスクラ(「暗い部屋」の意)やカメラ・ルシダと呼ばれる装置を用い、その中に投影された像をトレースすることで、実景に似た絵画を描いた。 この初期のカメラは像を単に壁にある開口部を通して、暗くした部屋の壁に像を投影するだけで、化学的にその像を固定する技術はまだなかった。そこで、部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」で、人手でトレースする以外の方法でその像を残すことはできないものだった。 18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており、遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。 カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ、映像を定着させる写真技術の発明は、19世紀初めにほぼ同時に複数なされた。このとき美術は、新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、産業革命により大勢誕生した中産階級によって、肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。 現代の写真処理は、1840年から最初の20年の一連の改良が基底である。ニセフォール・ニエプスによる最初の写真の後、1839年にはダゲレオタイプが発表され、直後にカロタイプも発表された。写真の普及は肖像写真の流行、1850年代の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続く。
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カメラ・オブスクラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:16 UTC 版)
「カメラ・オブスクラ#歴史」も参照 しかし、化学的に写像を固定するプロセスの発明前には、手でトレースすることは別として、これらのカメラで生じられるイメージを保存する方法はなかった。最も初期のカメラ・オブスクラは、中に人が入れるスペースを持っていた。これらは徐々に小さいモデルに進化し、写真技術が発明されるほぼ150年前の1685年には、写真撮影に十分実際的にコンパクトな最初のドイツ・ヴュルツブルクのイエズス会士ヨハン・ツァーン(英語版)によって造られている。
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カメラ・オブスクラ
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「映画前史博物館」の記事における「カメラ・オブスクラ」の解説
この給水塔は、1904年に、ルール渓谷鉄道の一部である下ルール渓谷鉄道 (Untere Ruhrtalbahn) の蒸気機関車を整備していたミュールハイム・シュペルドルフ (Speldorf) 鉄道工場(後の国営鉄道の修理工場)の一部に建てられたものであった。この施設は、1943年の空襲によってほぼ完全に破壊されたが、給水塔は破壊を免れた。 1992年に州園芸展 (Landesgartenschau) MüGa が当地で開催された際に、ヴェルナー・ネケスの発案によって、世界最大の内部に入ることができるカメラ・オブスクラが給水タンクの中に設置された。イエナのカール・ツァイス社が技術面を支援し、25万ユーロの費用は全額が寄付金によってまかなわれた。 このカメラ・オブスクラは、全周360度のパノラマ展望によって、園芸祭の会場を見渡し、さらにルール地方を広く眺望することが可能になっている。投影卓には、塔から13メートル以上離れている対象物であれば、地平線近くに遠望されるものまで、何でも投影することができる。 この光学装置は、回転する頂部と可動式の鏡と対物レンズから成っている。 鏡は、半径300ミリメートルで自由に動かせる。 対物レンズは、レンズ3枚を用いた単焦点システムで、レンズの口径は40ミリメートル、口径比は1:65である。 対物レンズから、投影卓までの距離、すなわち、焦点距離は、9メートルである。 レンズの視野角、画角は、ともに8度である。
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