眞鍋監督時代
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「バレーボール日本女子代表」の記事における「眞鍋監督時代」の解説
2009年度より眞鍋政義監督が公募によって就任し、2012年のロンドン五輪へ向けた新体制が発足した。iPadを使用してデータを駆使する「IDバレー」を掲げ、2010年に日本で行われた第16回世界選手権では1982年大会以来28年ぶりにベスト4進出を果たすと、準決勝でブラジルの前にフルセットの末敗れはしたものの3位決定戦でアメリカをフルセットの末に勝利し、32年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。 2011年のワールドカップでは中国と同じ8勝3敗の成績ながらも勝ち点差2の4位でオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、初出場の岩坂名奈や新鍋理沙ら新戦力の活躍などで結果的にロンドンオリンピックで金メダルを獲得したブラジルと銀メダルを獲得したアメリカにストレート勝ちを収めた。しかし1位通過を目標として臨んだ2012年5月のロンドン五輪世界最終予選は序盤こそストレート勝ちによる開幕3連勝を飾るも韓国と対戦し敗れてからリズムに乗れず、出場権獲得はセルビアとの最終戦まで持ち越され最終的に4勝3敗の4位でアジア1位として出場権を獲得した。 同年8月の本大会では予選リーグを3勝2敗の3位で通過すると、準々決勝で中国に全セットが2点差決着というフルセットの激闘を制しソウルオリンピック以来24年ぶりのベスト4進出を果たした。続く準決勝でブラジルと対戦しストレートで敗れたものの、3位決定戦で韓国にストレート勝ちで収めてロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。これを受けて日本協会は公募で新監督を決める予定を撤回して眞鍋監督に続投を要請し、同年10月に2016年リオデジャネイロオリンピックまで続投することが発表された。 2013年7月25日、休業していた正セッターの竹下が引退を発表、五輪でもう一人のセッターだった中道瞳は11月のグラチャンバレーから復帰した。江畑幸子が腰痛でほとんど出場できない状況ながら他メンバーの活躍もあり、ランク上位のブラジル・アメリカに敗れたものの、同大会における12年ぶりの銅メダルを獲得した。 2014年のワールドグランプリでは、一人の選手が複数のポジションの役割を担う新戦術「ハイブリッド6」を採用し、決勝ラウンドで初戦から4連勝し最後はブラジルと対戦して敗れはしたが同大会では初のメダル(銀メダル)を獲得した。 2016年リオデジャネイロオリンピックではアメリカと対戦して敗れ、2大会連続のメダルは獲得することが出来ず5位に終わった。 「全日本女子バレーが五輪でメダルを獲る為には、一体どうすればいいのか」。この最高難易度の難問に対する答えは、自身が数度のオリンピックを経験している竹下佳江が、すでに仮説を持っていた。 竹下は、「アテネ大会と北京大会では、同じ五位で、同じような経緯を辿ったのですが、戦い方がまるで違いました。アテネと違い、北京では、自分達に足りないもの、世界での戦い方が分かった大会でした」と述べる。 (日本女子バレーボールの良さを伸ばせば、メダルのチャンスは十分ある)と、メダル獲得への険しい道筋を朧気ながらも見つけていた竹下だが、ロンドン大会では自身は34歳になる。 竹下は「バレーボールは続けるけれど、全日本は次でおしまい」と、身の振り方も決めていた。竹下は前回主将時に「ストレスで眉毛がごっそり抜け落ちた」という事も経験したが、代表の第一線でもう一度戦い続ける事を選んだ。 そして、日本女子の敗北をテレビ中継の解説席で見届けた眞鍋政義も、「メダルの可能性は十分ある」と見ていた。当時、久光製薬の監督をしていた眞鍋は、45歳の若さを誇る。 眞鍋のキャリアの華々しさは、とてつもない輝きを放つ。現役時は、1985年に新日鐵入社した一年目から、セッターでのレギュラーを獲得し、新人王を獲得。新日鐵黄金時代の立役者の一人となり、85年~03年まで日本代表を務めた。 ソウル五輪経験もあり、イタリア挑戦の海外キャリアも持つ。監督業としては、男子監督では選手兼任監督として、新日鐵を優勝に導き、女子監督では、05年に久光製薬の監督に就任するや否や、輝かしい成果を出し続けた。 「全日本監督は公募で決定した」という事なのだが、2008年12月に久光製薬がプレスにて発表した内容には「各方面から強い要請がありまして」とあり、眞鍋の自薦というよりも、他薦の影響が大きかった事を示唆していよう。 眞鍋といえば「iPad」を片手に、秒単位で分析家から自分の手元に送られてくる数字データを基に戦略を立て、ストイックなまでに知的に戦う監督というのが、一般的な人物イメージではなかろうか。 元々、眞鍋がiPadを使用していた理由は「スタッフから、色んなデータを頂くのですが、私が老眼の初期で小さな字が見えない。でも、iPadなら、字を大きく設定できる。単に見やすかったんです」というだけの事情だった。 眞鍋自身は、生粋アナログ人間であり、「大事な事は、手帳に絶対に手書きです。人間は、書かないと駄目」と言い切る。だが、眞鍋は手元のiPadに入ってくる分析データを「これは面白い」と捉え、「世界一の分析家になる」と決めた。 様々なスポーツにおいて、スポーツアナリティクス(分析)分野というジャンルが注目されるようになっていた。特に、バレーボールでは、この分析による傾向対策が進んでいた。 雑に書けば、要は膨大な過去データから「この試合・この場面・誰が・どんなサーブをうつのか・どんなトスをあげるのか・どこのポジションの誰に・アタックはどの方向に・どの強さで打つのか?」という未来を瞬時に予想するというものだ。 2000年代に入り、欧米諸国は、スポーツアナリティクス分野で世界を引き離した。全日本の母体となるバレーボール実業団は、半導体関係の製造を行う会社を母体とするチームが多く、「IT分野では世界に負けない」と推測されていたが、 ソフト開発における分析能力の差は開く一方だった。柳本時代も、IT分析によるデータバレーを2003年から取り入れてはいたが、世界基準から遅れていたサービス製品を使っており、経験と勘に頼る部分の大きすぎる状態で戦っていた。 日本に「渡辺啓太」という人物がいる。柳本時代よりアナリストとして、チームに随行していたが、2010年イタリアへ渡り、世界最新のアナリティクス技術を学び、帰国後、眞鍋専用の分析アプリを開発し、眞鍋のiPadにインストールした。 元バレーボール選手である眞鍋の大きな指のサイズに合わせた、渡辺こだわりの逸品である。以前は、報告する度に紙に印刷する必要があったが、渡辺は、ダイレクトに秒単位で眞鍋の手元に、世界基準の分析結果と予想を送り続けた。 もちろん、この分析が全てではない。選手達は、まるで営業成績のように、自分の欠点を指摘された数字成績表を見せられると、当然、気分を害し、数字を基にした評価に拒否反応を示すようになるし、数字を意識しすぎて、試合でのメンタルに影響を及ぼす副作用を産みかねない危険性もある。 眞鍋は、データ=数字を重視するスタイルではあったが、歴史上の全日本女子バレー監督全員に共通する「強心臓の勝負師」の面が強い。眞鍋は「数字も大事だけど、やっぱり最後は、選手の気持ちの強さが大事です」と言い切る人物だ。 時期はかなり遠く飛ぶが、運命の2012年ロンドン五輪での準々決勝、対中国戦、最終セット。眞鍋は、手元のiPadのデータよりも、自らの「勝負師の勘」を信じた。眞鍋は「竹下に全部任せる」とだけ指示をし、iPad分析よりも竹下の現場判断を選択した。異様にまでポイントが競り続け、張り詰めた空気が流れ続けた試合の中で迎えた最終セット。当然、この試合に負ければ、全ては終わる。そして、眞鍋ジャパンは、準々決勝の壁を遂に突破した。 選手達は声を揃えて「2010年世界選手権の米国戦で勝った銅メダルの成功体験が大きかった。五輪で勝てるイメージができたから」と述懐する。この銅メダルは、世界選手権では32年ぶりという恐ろしい年月を要したメダルだった。 竹下も眞鍋も「日本の良さを伸ばせば、五輪で勝てる」と思ったそうなのだが、果たして、日本の良さとは何だったのか。その仮説の答えは、この米国戦で試合でおぼろげにみえてくる。 世界選手権の代表メンバーには、当時は山本愛名義だった大友愛が復帰し、活躍していた(以降、彼女の名称は、大友愛で統一)。雑談になるが、復帰直後の大友には「現役復帰を決めて、キツイ練習による傷まみれのヘロヘロな状態で、疲れた暗い顔をして、子供の手を繋いで、スーパーで買物をしていると、神戸のおばさま方に、大丈夫ですか?とか、良い施設を紹介しますよ?とか言われて謎だったんです。私、どうも周囲にDV疑惑を心配させてたみたいで」という逸話があるが、日本の勝利には、この大友愛の復帰が大きい。これは単に、大友の復帰の話ではなく、「女性の就業問題改革」であろう。驚くべき事に、子供がいても代表でプレーできる環境というのは、2000年代にしてまだ完成されておらず、眞鍋が作った。 当時の日本バレーボール界には「結婚・妊娠をしたら、選手生命は、そこで一段落し、違う選手がその座を継ぐ」という流れがあった。イタリアでのプレー経験のある眞鍋は「これはおかしい。能力が高く、経験もあり、彼女達なら、すぐにフィジカルも戻せる。引退を迫るなんて、もったいない」と考え、眞鍋が所属していた企業を説得し「子供のいる女性の現場復帰を応援する環境」を作った。とはいっても、当初は、眞鍋のやり方に多少の問題があったようだ。まだ大友のお腹に子供がいる状態で、なおかつ「もう現場には戻れない」と決死の思いで引退した大友に対して、眞鍋は、初対面時から、「おい、現役復帰しないか?オリンピックはどうだ?」といきなりの現役復帰を迫った為、非常に強い不信感を持たせてしまった。 そしてこの時、大友は、すでに日本有数のセンター選手に戻っていた。選手層の厚さから、主将の荒木が控えに回る機会が多くなっていたが、荒木は、自身のメンタルを安定させ、大事な場面で起用されると、期待に応える活躍を見せた。 井上香織・山口舞のブロックが功をなし、江畑幸子がスパイクを決め続け、江畑が止められても、迫田さおりがスパイクを決める。途中投入された石田瑞穂が流れを変える働きを見せると、竹下は石田にトスを上げ続けた。 そして、代表に戻った大友愛が「あのサオリが、まるで別人みたいに、きちんと自分の意見を発言するようになっていた」と驚いた、日本のエースに成長した木村沙織がいた。 全てのプレーの土台には「竹下のトス」があった。選手層が厚く、誰かが相手に捕まっても、変わって入った違う選手が結果を出し、試合の主導権を取り戻す。総じて、選手達全員のレシーブ能力が高い。とにかく強引にでも拾い続けて、竹下に繋ぎさえすれば、竹下は、スパイクがきちんと打てるトスを、調子のいい選手めがけて、正確に何度も上げ続けた。後に「選手全員がサーブで相手を崩す」という特徴も加わるのだが、すでにこの時点で、世界のトップグループと互角に戦える段階までにきていた。 眞鍋は、戦術コーチ、サーブコーチ、ブロックコーチ、ディフェンスコーチ、メンタルコーチ、アナリストと、専門別に分けたコーチ制度を設けたのだが、アナリストの強い推薦により、身長の高い男子選手起用による強いスパイクを獲るレシーブ練習を採用し、各選手のレシーブ能力上昇に繋げていた。木村は、元々レシーブが上手い選手だが、対戦するチームは、少しでも木村を崩す為に、サーブで木村を狙う事が多く、結果、木村は、リズムを狂わせられる事が多かった。 眞鍋は、木村の「妹的なのんびりした性格」を問題視し、あえて厳しい言葉を発して、木村の精神的成長を促した。眞鍋が「サオリ!俺はお前と心中するつもりだ!」と言うと、木村は(心中って、恋人同士の自殺だよね。なんで私?)と誤解するなど、相互理解に時間は少しかかったが、木村はエースの自覚が完全に芽生え、レシーブでのミスがあっても、動じない選手になっていった。 木村は、後にトルコのチームに属して、年俸が億を越える選手になるのだが、世界が認める強さがこうして磨かれていった。竹下は、主将という立場で皆を引っ張るという行為がどうにも苦手だったらしく、荒木が主将を引き受けてくれた事や、このコーチ分業体制によって、自分のプレーに集中できる好ましい環境となった事で、竹下の戦略眼が洗練されていった。 この試合の前日、世界ランク一位のブラジル戦にてフルセットで長時間を戦った日本女子は、強い疲れから、決めるはずの選手が決めきれなかった。江畑が止められ、木村が止められてしまう。 だが、悪い流れに引きずられず、交代起用された選手達が高い質を見せ、堅守から竹下が「スパイクを打てるトス」を上げ続けた。全日本女子選手達は点差があろうと、競る場面になろうと、絶対に崩れない姿勢を見せ続け、米国に勝利した。 この試合のテレビ最高視聴率は35.9%を記録し、平均では20.5%にも及んだ。好成績の結果を出した日本女子の姿を32年ぶりに観た日本社会は、ロンドン五輪でのメダル奪取の期待を隠しきれなくっていった。 しかし、復帰した大友愛が、2011年9月、右膝の前十字靭帯と内側側副靱帯を損傷。井上香織も、同時期に右肩を脱臼し手術。栗原恵は膝の手術。代表中心選手の大きな怪我と離脱により、ロンドン五輪への黄信号が灯火する。 更にこの時期、日本社会に重大な天災が発生していた。2011年3月11日。東日本大震災が発生し、死者数・破壊家屋数の規模において、太平洋戦争以来、空前の規模の数字があがっていた。 東日本大震災によるスポーツへの影響は大きく、当時、日本で行われた、ほぼ全てのスポーツイベントにおいて、開催中止・延期・自粛などの処置がとられた。日本人は、この受け入れがたい現実に対し、「復興」を叫ぶ事で一つになっていった。 著名アスリート達は、各メディアを通じて、復興に向けた応援メッセージを被災者達に送り続け、ボランティアやチャリティー活動が活発化していった。もちろん、女子バレーボール選手達もメッセージを送っている。 この時期より、スポーツの重大な役割の一つに「勇気を与える」という価値観が産まれた。かつて東洋の魔女や、水泳の古橋廣之進などの影響で産まれた、このスポーツが持つ価値観は、すでに日本に存在していたが、戦争から長きの時が過ぎ、現代の日本人に、より具体性を持った形の価値観としてまた再登場する事となる。 代表例が、2011年6月末から行われた、「FIFA女子ワールドカップ日本女子代表」=通称なでしこジャパンがこの年、ワールドカップで優勝を遂げ、日本中が歓喜に沸いた事だった。 この明るいニュースは、スポーツが日本に大きな勇気を与えた事の代表例といっていいだろう。だが、その一方、全日本女子バレーボールチームは、前年度の世界選手権での成功から一変し、苦しみの時期を迎える事になる。
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