地震像とは? わかりやすく解説

地震像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 08:45 UTC 版)

オホーツク海深発地震」の記事における「地震像」の解説

震源は、沈み込んでいる太平洋プレートスラブ内部沈み込んでいく方向圧縮軸を持つ地震であった震源の深さが600km以上という極めて深い深発地震であるが、Mw8.3・Mj8.3・Ms8.2という規模地震となったカムチャツカ半島東部沖から北海道南東部沖まで続く弧状沈み込み帯である千島・カムチャツカ海溝から、太平洋プレートのが西北西年間78mmの相対速度北アメリカプレートオホーツクプレート)に沈み込む場所にある。このプレート境界世界的に地震活発な場所であり、プレート境界型地震始め深発地震頻発している。震源周辺では2008年7月5日にMw7.7、深さ635.6kmの地震北緯535317東経1525208秒 / 北緯53.888度 東経152.869度 / 53.888; 152.869、同年11月24日にMw7.3、深さ491.6kmの地震北緯541138東経1541854秒 / 北緯54.194度 東経154.315度 / 54.194; 154.315が発生している。和達-ベニオフ帯は、海溝から深さ約650kmの位置まで続いており、今回地震含め、この地域深さ600km前後深発地震は主に正断層タイプスラブ内地震であるが、これまで観測され深発地震最大でもMw7クラスであった

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允恭地震」の記事における「地震像」の解説

大日本地震史料』は「河内国地震フ」としているが、これは地震記録記され当時の都が河内国にあっただけのことであり、その震源河内国であるか他国にあったかを知る由は無い。允恭天皇皇居遠飛鳥宮であるがこれは現・明日香村とも考えられている。 大森房吉は『本邦大地震概表』の冒頭本地震を大地震の部に入れているが、今村明恒はこの地震の記録次の推古地震まで約200年間に大地震記述一回現れないとはいうものの揺れ強度家屋倒壊言及しておらず、殯殿に異状なきか否か問題なる程度の地震解釈され大地震分類することに異議唱えている。

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寛文近江・若狭地震」の記事における「地震像」の解説

小浜では古文書から五ツ時(7 - 9時ごろ)にいきなり強震動襲ってたように読み取れるが、京都では巳刻頃(9 - 11時ごろ)、鳴動とともに弱い震動続いた後に強い振動襲ってきたと解釈できることから、小浜では京都より初期微動時間短く断層破壊開始点すなわち震源近く断層破壊北から始まり南側伝播して行った可能性が高いと推定される。 また若狭記録では発震時刻が巳上刻から巳刻(9 - 10時ごろ)のものが多く、あるいは巳刻から午刻(12時ごろ)まで地震続いて記録があり、一方で近江では午上刻から午刻、京都大坂名古屋では巳刻から午刻、和歌山岡山江戸など遠方では午刻の記録となっていることから、まず、巳刻頃に北部日向断層などが逆断層西側沈降)として活動し、午刻頃に南部花折断層北部右横ずれ断層として活動した推定される遠地では午刻のみ記録されていることから、後者花折断層の活動の方が規模大きかったものと推定されている。 一方で1185年文治地震活動した推定されている琵琶湖西岸断層帯については、堅田(現・大津市)において本地震による地盤変動はなかったものと推定され中世以降活動していないものと推定されている。

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善光寺地震」の記事における「地震像」の解説

荒船断層などのトレンチ調査などにより、発生周期は約1,000年に一度とされている。名前から受けるイメージで、善光寺周辺の狭い地域地震として考えてしまいがちであるが、震源域現在の飯山市常郷付近から長野市大岡にかけての約60kmないしは50km推定されている。また、5日後には現在の上越市高田付近でM6.5の誘発地震があった。下記各地推定震度震度分布図は、この5日後の誘発地震による被害含んだものであり、善光寺起点千曲川沿いに飯山付近までと、野尻湖経由して関川沿いに上越方面へ二手分かれて強震域が伸びるとなっている。しかし関川沿いの強震域は5日後の誘発地震よるもの考えられこの影響分離した本震による強震域は千曲川沿いの飯山から更埴辺りまでの活断層震源域であると示唆される強振動による家屋崩壊および斜面崩落隆起陥没生じた犀川生じた河道閉塞閉塞箇所決壊による洪水は、新潟県信濃川流域でも大きな被害もたらした。 この地震のために生じた小松原断層善光寺断層長野市西部残っている、これら断層総称し長野盆地西縁断層群とも呼ぶ。 地域推定震度畿内 京都(e), 池田(e), 大坂(e), 尼崎(e) 東海道 下妻(e), 古河(e), 流山(E), 赤尾(E), 熊谷(E), 塩山(E), 甲府(e), 江戸(E), 神奈川(S), 平塚(E), 御殿場(E), 駿府(e), 見附(E), 赤羽根(E), 桑名(E) 東山道 大石田(e), 日光(E), 芳賀(e), 壬生(E), 佐野(E), 沼田(E), 吾妻(E), 中山新田(E), 高崎(e), 小布施(5-6), 善光寺(7), 松代(6-7), 稲荷山(7), 上田(5-6), 小諸(4), 小海(4), 鬼無里(6), 大町(6), 松本(5), 諏訪(4-5), 高遠(4), 駒ヶ根(4), 飯田(E), 馬籠(E), 大萱(E), 保木脇(5), 柳津(E), 大垣(E), 上石(E), 近江八幡(e) 北陸道 小木(E), 新潟(4), 与板(4-5), 長岡(4-5), 栃尾(E), 高田(6-7), 関山(5-6), 能生(E), 糸魚川(4), 高岡(4-5), 福野(e), 輪島(E), 穴水(e), 志雄(S), 金沢(4-5), 加賀(S), 福井(E) 山陰道 宮津(E), 豊岡(e) 山陽道 赤穂(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)

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仁和地震」の記事における「地震像」の解説

このような五畿七道大地震」は南海道沖を震源とする巨大地震推定される今村明恒(1947)は、『扶桑略記』の山が崩れ川が溢れた記録から同日に「信濃北部地震」が発生したものと考えた。しかし河内晋平(1982)は『類聚三代格』には仁和4年5月8日山崩れと川が溢れた記録があり、『扶桑略記』にはこの日付記されていないことを指摘して信濃北部地震」は存在しなかったとした。 津波があることは外帯における地震示唆するものであるが土佐における記録確認されておらず、中央構造線沿いの地震であるとする説もある。 河角廣(1951)は規模MK = 7.5 を与えマグニチュードは M = 8.6に換算されている。また、M 8.3、あるいはM 8 - 8.5などと推定されているが断片的な記録し有しない歴史地震であるため数値不確定性を含む。

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天平地震」の記事における「地震像」の解説

大森房吉(1913)は摂津において余震20日間余も記録されている様子から、本地震は頗る規模大なるものであり1891年濃尾地震匹敵する或は類似した地震である可能性指摘している。 地質調査所須貝俊彦らは、養老山地東縁から桑名市四日市市南北に貫く養老-桑名-四日市断層帯ボーリング調査から745年活動して大地震引き起こした可能性が高いとした地震調査研究推進本部養老-桑名-四日市断層帯最新活動13世紀以降可能性があり、1586年天正地震該当するとの指摘もあるが、史料少なく判断できないとし、一つ前活動時期7世紀から11世紀の間と判断され745年地震可能性指摘されているが、この地震史料極めて少なく判断できないとしている。 愛知県文化財センター調査では、稲沢市地蔵越遺跡において、液状化現象によると推定される砂脈奈良時代地層引裂き、平安時代地層覆われていることから本地震の痕跡考えられている。 河角廣(1951)は岐阜市付近(北緯35.5°、東経136.6°)に震央仮定し規模MK = 6. を与えマグニチュードは M = 7.9に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央北緯35.2°、東経136.6°とし、規模は M ≒ 7.9としている。

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畿内七道地震」の記事における「地震像」の解説

畿内七道諸国神社調査のため遣い出した記述にある「畿内七道」は日本全国を表す五畿七道同義であり、「五畿七道大地震」と呼ばれ南海トラフ巨大地震推定される仁和地震宝永地震などと共に列挙されている書籍存在するが、本地震には津波記録温泉湧出停止など南海トラフ地震の特徴示唆する史料確認されていない生駒断層帯属す誉田断層の活動時期について、5世紀造られ誉田山古墳墳丘地震活動推定される変異認められまた、生駒断層四条畷における活動時期放射性炭素年代測定から西暦100年から1000年の間と推定されている。以上のことから生駒断層誉田断層最新活動時期西暦400年頃と1000年頃の期間で重なりあっており、生駒断層帯最新活動はこの時期にあり、734年地震候補挙がるとされる寒川 (1997)は、734年地震中央構造線断層帯金剛断層発生した可能性指摘している。越後ほか (2009) も、中央構造線断層帯根来断層枇杷谷地区トレンチによって明らかになった最新活動時期西暦635750年)が734年地震対応する可能性述べている。 河角廣(1951)は吉野付近(北緯34.3°、東経136.1°)に震央仮定し規模MK = 4.3与えマグニチュードは M = 7.0換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央規模不明としている。

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慶長豊後地震」の記事における「地震像」の解説

別府湾-日出生断層帯東の活動によると考えられ羽鳥徳太郎(1985)によると、大分市内での津波寺院流失状態の分布から推定される波高は4-5.5m、別府湾口の奈多 7-8m と佐賀関 6-7m 程度考えられている。波高震度分布から推定される波源域別府湾包み東西方向50km程度長さまた、都司嘉宣ら(2012)によると、津波の高さ(いずれも痕跡高(浸水高))は大分県大分市佐賀関早吸日女神社鳥居高にて5.0m、同神社境内において10.6m、同市府内町同慈寺跡付近現在の大分中央郵便局付近)で5.5m、同市旧長浜神社跡地現在の城公園付近)で5.1m、杵築市奈多奈多神社境内において8.4mと推測されている。なお、松崎ら(2015)は早吸日女神社本殿地震時の位置解明して神社境内の10.6mを否定し佐賀関では津波高6.0m、さらにブラサの単位長を解明するとともに内陸にある同慈寺(地盤高3.5m)の被害状況考慮して、14-15mの津波高否定し、沖ノ浜(大分市勢家)の津波高を5-6mと推定している。 さらに、竹村恵二ら(2013)によると、古記録吟味して別府湾周辺杵築八幡奈多宮)、別府村沖の浜西大分)、府中近辺大分県庁付近)、佐賀関関神社)などの地点津波高夫々、6m、4-5m、4-5m、4-5m、4-6m と推定。そうして中央構造線西部豊予海峡セグメント)、別府湾日出生断層東部別府湾中央断層を含む)と別府地溝南縁断層東部朝見川断層府内断層を含む)が活動するモデル検証その結果全部断層いっせいに活動する場合は、おおむね各地点の津波古記録一致するものの、杵築八幡奈多宮)の記録との整合性が低いことが明らかになった。そのため、中央構造線豊予海峡セグメント)の断層ひきつづき別府湾日出生断層東部別府湾中央断層を含む)と別府地溝南縁断層東部朝見川断層府内断層を含む)が活動するモデル検証し時間差8 分程度をおくことで、歴史記録による津波高整合する結果得られた。」とある。 瓜生島消滅原因は、別府湾北岸神場洲の地盤沈降記録されていることから別府湾陥没原因とする説や、液状化原因とする説がある。 2014年11月には大分市長浜町大友氏遺跡で噴砂が発見されており、この地震又は1707年宝永4年)に起きた宝永地震に伴う液状化痕跡ではないか推定されている。 河角廣(1951)は規模MK = 4. を与え、これは M = 6.9に換算されているが、規模正確に見積もるには各地推定震度情報不足しており「4.」とある様小数点以下の数字未定である。 石橋克彦(2019)は、伊予地震豊後地震同一地震だとして震源域西条市広江付近から別府湾迄にわたれば約150kmにおよびM8級巨大地震となるが、震源破壊伝播効果考えればもっと短くて良く M7.5級になるかもしれないとしている。

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西埼玉地震」の記事における「地震像」の解説

P波解析から震央深谷断層帯櫛挽断層南端付近で、走向N160°E、傾斜80°S、長さ20 km、幅10 km推定されている。

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伊豆大島近海の地震」の記事における「地震像」の解説

この地震多重震源地震で、本震の約6秒前の小破壊(伊豆大島伊豆半島中間付近海底)から西に進行し陸地では西北西進行し本震(主破壊)となる第2震が発生した。第2震の位置は、伊豆半島内陸部稲取西方3-4km付近とする解析結果がある。この主破壊生じた稲取付近に地表断層出現した断層の走方向西北西であった。この地震震源断層は後に稲取断層命名された。

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正平地震」の記事における「地震像」の解説

大森房吉(1913)は本地震を「畿内及び附近地震」と分類し震源域奈良附近から大坂経て四国東北端に延長する一帯とし、その中心大阪湾にあり、1510年摂津河内被害著しかった永正地震や、1854年伊賀上野地震震源域に続くもので同系列の地震属す考えた対して今村明恒(1933)は宝永地震安政地震同類津波被害著し南海道沖の大地震としている。 この年には新潟焼山噴火し、この山は887年仁和地震当日1854年安政地震前後にも噴火した考えられており、噴火南海トラフ沿いの巨大地震との関係が示唆されている。 河角廣(1951)は規模MK = 7. を与えマグニチュードは M = 8.4に換算されている。宇津(2001)も M = 8.4とし、これは宇佐美(2003)による推定値M 8+1⁄4 - 8.5中間値四捨五入したものであるが、断片的な記録し有しない歴史地震であり詳しい震源域不明な点が多く数値精度高くない

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象潟地震」の記事における「地震像」の解説

近代的な観測記録存在しない歴史地震であるため、この項の数値不確定性を含む。 河角廣MK = 4.5としてマグニチュード M = 7.1与えていた。震度分布から M = 7.3 あるいは震源断層モデルから Mw = 7.5 との推定もあり、宇佐美(2003)は M = 7.0 ± 0.1 としている。 発震機構地殻変動津波による推定から、象潟十数km沖で海岸線にほぼ平行した長さ約42kmの高角逆断層変位生じたものと推定されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 00:28 UTC 版)

カンタベリー地震 (2011年2月)」の記事における「地震像」の解説

右横ずれ断層逆断層成分加わった地震で、震央付近では東西方向長さ30km最大横ずれ変異5m地表断層グリーンデール断層命名)が出現したが、地震発生当時には断層存在知られていなかった。観測され地震波形を解析した結果クライストチャーチ市内南部では 1995年兵庫県南部地震同程度(125cm/s)の最大速度三成分合成)と最大加速度三成分合成)は1,928ガル算出され小規模な建物破壊しやすい1〜2秒周期パルス性の強い振動キラーパルス)が記録されている。2010年9月地震最大余震とも解釈されている。

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日本海中部地震」の記事における「地震像」の解説

震源域は“く”の字を逆にした様な形で、総延長が約100 km複数の手法による解析結果いくつかの破壊モデル挙げられている。 その1つは、本震は約50秒間3つのサブイベントからなる。第1イベント最初破壊点から北北東方向久六島西方沖まで破壊進んだ。第2イベントは第1イベント終了後10秒間時間をあけて北北西進み北緯40.8付近止まった第3イベントは第2イベント止まった北緯40.8付近破壊方向北北西方向変え進んだ別な解析では、2つサブイベントからなり破壊30 - 35 km離れたところで24秒 - 26秒間隔で発生した、などがある。

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新潟県北部地震」の記事における「地震像」の解説

震央1964年新潟地震余震域南端にあたりこれまで地震活動は活発ではなかったが、1994年10月頃から群発地震が起こるようになった1994年12月にはマグニチュード4〜5の地震散発的に発生していたが、この地震はその群発地震一連の活動1つであることがその後余震活動から明らかになっている。震源断層既知断層の活動による地震ではなく当時知られていなかった伏在断層活動による地震新潟市付近新潟平野生じていた地震空白域東端発生した地震であり、一部研究者からは大地震可能性指摘されていた。 最大余震4月2日のM 5.2地震である。

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新潟県中越地震」の記事における「地震像」の解説

この地域は、ユーラシアプレート北米プレート衝突する日本海東縁変動帯陸域新潟-神戸歪集中帯中でも、強い褶曲を受け複雑な応力場を生じている地域である。北北東 - 南南西方向の軸を持つ複背斜構造があり、震源域となった新潟堆積盆地の東縁(信濃川東岸)の東山丘陵魚沼丘陵は、中新世以降堆積した5,000メートル上の堆積物堆積している。地震発生直後調査では、地表地震断層出現した小平尾断層六日町盆地西縁断層北部活動した考えられた が、その後の調査前述断層帯原因となった可能性否定する 結果得られている。阪神・淡路大震災のように明瞭な断層線地表出現しないことから、従来知られていた活断層小平尾断層六日町盆地西縁断層信濃川低地西縁断層信濃川低地東縁断層など)の活動ではなく、厚い堆積層下の未知断層の活動による地震考えられている。メカニズムとしては、北西 - 南東圧縮逆断層型地震である。本震および余震振動波形や余震分布解析結果によると、本震発生させた滑り面とは別に並行する別な滑り面本震直交する合わせて3つの滑り面存在した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 10:10 UTC 版)

新潟地震」の記事における「地震像」の解説

サハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯発生した地震一つ余震震央北北東南南西方向の約80 km範囲分布しているが、震源断層傾斜方向明らかになっていない当時周辺陸上地震計地震観測点)設置箇所少なく海底地震計設置されていなかったことから、余震震源決定精度は悪い。震源近く粟島はこの地震によって約 1m隆起した粟島海岸はいくつかの段丘形成されており過去の活動歴残していて、活動間隔段丘の高さから約2000年間隔とする説と海底活断層解析から約3000年間隔とする説がある。 先行する静穏化現象があり、震央中心として半径50km範囲では16年間に渡って地震活動低調で、地震の約2年半前からやや活発な活動の後に本震発生した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 02:33 UTC 版)

スマトラ島沖地震 (2010年10月)」の記事における「地震像」の解説

津波波形解析からは、地震モーメント1.0 x 1021 Nmモーメントマグニチュード Mw 7.9)と推定される津波波形解析から、スンダ海溝付近断層面の浅部で大きなすべり(最大6.1m)が発生

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 05:56 UTC 版)

新潟県中越沖地震」の記事における「地震像」の解説

北西南東方向圧縮軸を持つ逆断層型地震で、京都大学研究グループ解析では3つのアスペリティ破壊よるもの推定されている。この地震震源域では、200年上地震が発生していない空白域であった震源海底下にあるためこの地震による断層のような明瞭な変位地表現れていない、しかし陸域観測衛星「だいち」に搭載されている合成開口レーダー (PALSAR) による干渉SAR解析行った結果震源から15 km東に離れた西山丘陵活褶曲向斜軸沿って幅 1.5km 長さ 15km帯状隆起域が検出された。この隆起は、活褶曲成長した証拠考え研究者がいる。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:11 UTC 版)

推古地震」の記事における「地震像」の解説

地震学者今村明恒は「日本初地震記録である被害記述みられない允恭地震とは対照的に本地震こそ正史現れる最初大地震である」とし、また「この地震当時の都の位置から『大日本地震史料』は「大和国地震ヒ」としているが、四方をして地震の神を祭らしめた位であるから、そう狭小な範囲地震ではなかったであろう」と推定している。 同じく地震学者河角廣規模MK = 4.3判定しマグニチュードは M = 7.0換算しているが、震央示しておらず規模根拠不明である。

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