地震像
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「オホーツク海深発地震」の記事における「地震像」の解説
震源は、沈み込んでいる太平洋プレートのスラブ内部で沈み込んでいく方向に圧縮軸を持つ地震であった、震源の深さが600km以上という極めて深い深発地震であるが、Mw8.3・Mj8.3・Ms8.2という規模の地震となった。カムチャツカ半島東部沖から北海道南東部沖まで続く弧状の沈み込み帯である千島・カムチャツカ海溝から、太平洋プレートのが西北西へ年間78mmの相対速度で北アメリカプレート(オホーツクプレート)に沈み込む場所にある。このプレート境界は世界的にも地震が活発な場所であり、プレート境界型地震を始め、深発地震も頻発している。震源周辺では2008年7月5日にMw7.7、深さ635.6kmの地震北緯53度53分17秒 東経152度52分08秒 / 北緯53.888度 東経152.869度 / 53.888; 152.869、同年11月24日にMw7.3、深さ491.6kmの地震北緯54度11分38秒 東経154度18分54秒 / 北緯54.194度 東経154.315度 / 54.194; 154.315が発生している。和達-ベニオフ帯は、海溝から深さ約650kmの位置まで続いており、今回の地震を含め、この地域の深さ600km前後の深発地震は主に正断層タイプのスラブ内地震であるが、これまでに観測された深発地震は最大でもMw7クラスであった。
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『大日本地震史料』は「河内国地震フ」としているが、これは地震記録が記された当時の都が河内国にあっただけのことであり、その震源が河内国であるか他国にあったかを知る由は無い。允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮であるがこれは現・明日香村とも考えられている。 大森房吉は『本邦大地震概表』の冒頭に本地震を大地震の部に入れているが、今村明恒はこの地震の記録は次の推古地震まで約200年間に大地震の記述が一回も現れないとはいうものの、揺れの強度や家屋の倒壊に言及しておらず、殯殿に異状なきか否かが問題となる程度の地震と解釈され、大地震と分類することに異議を唱えている。
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小浜では古文書から五ツ時(7 - 9時ごろ)にいきなり強震動が襲ってきたように読み取れるが、京都では巳刻頃(9 - 11時ごろ)、鳴動とともに弱い震動が続いた後に強い振動が襲ってきたと解釈できることから、小浜では京都より初期微動の時間が短く、断層破壊開始点すなわち震源に近く、断層破壊は北から始まり南側へ伝播して行った可能性が高いと推定される。 また若狭の記録では発震時刻が巳上刻から巳刻(9 - 10時ごろ)のものが多く、あるいは巳刻から午刻(12時ごろ)まで地震が続いて記録があり、一方で近江では午上刻から午刻、京都、大坂、名古屋では巳刻から午刻、和歌山、岡山、江戸など遠方では午刻の記録となっていることから、まず、巳刻頃に北部の日向断層などが逆断層(西側が沈降)として活動し、午刻頃に南部の花折断層北部が右横ずれ断層として活動したと推定される。遠地では午刻のみ記録されていることから、後者の花折断層の活動の方が規模が大きかったものと推定されている。 一方で1185年の文治地震で活動したと推定されている琵琶湖西岸断層帯については、堅田(現・大津市)において本地震による地盤変動はなかったものと推定され、中世以降活動していないものと推定されている。
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荒船断層などのトレンチ調査などにより、発生周期は約1,000年に一度とされている。名前から受けるイメージで、善光寺周辺の狭い地域の地震として考えてしまいがちであるが、震源域は現在の飯山市常郷付近から長野市大岡にかけての約60kmないしは50kmと推定されている。また、5日後には現在の上越市高田付近でM6.5の誘発地震があった。下記の各地の推定震度や震度分布図は、この5日後の誘発地震による被害を含んだものであり、善光寺を起点に千曲川沿いに飯山付近までと、野尻湖を経由して関川沿いに上越方面へ二手に分かれて強震域が伸びる形となっている。しかし関川沿いの強震域は5日後の誘発地震によるものと考えられ、この影響を分離した本震による強震域は千曲川沿いの飯山から更埴辺りまでの活断層が震源域であると示唆される。 強振動による家屋の崩壊および斜面の崩落や隆起陥没を生じた。犀川で生じた河道閉塞と閉塞箇所の決壊による洪水は、新潟県の信濃川流域でも大きな被害をもたらした。 この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残っている、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層群とも呼ぶ。 地域推定震度畿内 京都(e), 池田(e), 大坂(e), 尼崎(e) 東海道 下妻(e), 古河(e), 流山(E), 赤尾(E), 熊谷(E), 塩山(E), 甲府(e), 江戸(E), 神奈川(S), 平塚(E), 御殿場(E), 駿府(e), 見附(E), 赤羽根(E), 桑名(E) 東山道 大石田(e), 日光(E), 芳賀(e), 壬生(E), 佐野(E), 沼田(E), 吾妻(E), 中山新田(E), 高崎(e), 小布施(5-6), 善光寺(7), 松代(6-7), 稲荷山(7), 上田(5-6), 小諸(4), 小海(4), 鬼無里(6), 大町(6), 松本(5), 諏訪(4-5), 高遠(4), 駒ヶ根(4), 飯田(E), 馬籠(E), 大萱(E), 保木脇(5), 柳津(E), 大垣(E), 上石津(E), 近江八幡(e) 北陸道 小木(E), 新潟(4), 与板(4-5), 長岡(4-5), 栃尾(E), 高田(6-7), 関山(5-6), 能生(E), 糸魚川(4), 高岡(4-5), 福野(e), 輪島(E), 穴水(e), 志雄(S), 金沢(4-5), 加賀(S), 福井(E) 山陰道 宮津(E), 豊岡(e) 山陽道 赤穂(e) S: 強地震(≧4), E: 大地震(≧4), M: 中地震(2-3), e: 地震(≦3)
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このような「五畿七道大地震」は南海道沖を震源とする巨大地震と推定される。 今村明恒(1947)は、『扶桑略記』の山が崩れ川が溢れた記録から同日に「信濃北部地震」が発生したものと考えた。しかし河内晋平(1982)は『類聚三代格』には仁和4年5月8日に山崩れと川が溢れた記録があり、『扶桑略記』にはこの日付が記されていないことを指摘して「信濃北部地震」は存在しなかったとした。 津波があることは外帯における地震を示唆するものであるが土佐における記録が確認されておらず、中央構造線沿いの地震であるとする説もある。 河角廣(1951)は規模MK = 7.5 を与え、マグニチュードは M = 8.6に換算されている。また、M 8.3、あるいはM 8 - 8.5などと推定されているが断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値は不確定性を含む。
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大森房吉(1913)は摂津において余震が20日間余も記録されている様子から、本地震は頗る規模が大なるものであり1891年濃尾地震に匹敵する、或は類似した地震である可能性を指摘している。 地質調査所の須貝俊彦らは、養老山地東縁から桑名市、四日市市を南北に貫く養老-桑名-四日市断層帯のボーリング調査から745年に活動して大地震を引き起こした可能性が高いとした。 地震調査研究推進本部は養老-桑名-四日市断層帯の最新活動は13世紀以降の可能性があり、1586年天正地震が該当するとの指摘もあるが、史料が少なく判断できないとし、一つ前の活動時期が7世紀から11世紀の間と判断され745年の地震の可能性が指摘されているが、この地震も史料が極めて少なく判断できないとしている。 愛知県文化財センターの調査では、稲沢市の地蔵越遺跡において、液状化現象によると推定される砂脈が奈良時代の地層を引裂き、平安時代の地層に覆われていることから本地震の痕跡と考えられている。 河角廣(1951)は岐阜市付近(北緯35.5°、東経136.6°)に震央を仮定し規模MK = 6. を与え、マグニチュードは M = 7.9に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央を北緯35.2°、東経136.6°とし、規模は M ≒ 7.9としている。
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畿内七道諸国に神社の調査のため遣いを出した記述にある「畿内七道」は日本全国を表す五畿七道と同義であり、「五畿七道大地震」と呼ばれ南海トラフ巨大地震と推定される仁和地震や宝永地震などと共に列挙されている書籍も存在するが、本地震には津波記録や温泉の湧出停止など南海トラフの地震の特徴を示唆する史料が確認されていない。 生駒断層帯に属する誉田断層の活動時期について、5世紀に造られた誉田山古墳の墳丘に地震活動と推定される変異が認められ、また、生駒断層の四条畷における活動時期は放射性炭素年代測定から西暦100年から1000年の間と推定されている。以上のことから生駒断層と誉田断層の最新の活動時期は西暦400年頃と1000年頃の期間で重なりあっており、生駒断層帯の最新活動はこの時期にあり、734年の地震が候補に挙がるとされる。 寒川 (1997)は、734年の地震が中央構造線断層帯の金剛断層で発生した可能性を指摘している。越後ほか (2009) も、中央構造線断層帯の根来断層の枇杷谷地区トレンチによって明らかになった最新活動時期(西暦635~750年)が734年の地震に対応する可能性を述べている。 河角廣(1951)は吉野付近(北緯34.3°、東経136.1°)に震央を仮定し規模MK = 4.3 を与え、マグニチュードは M = 7.0に換算されている。宇佐美龍夫(2003)は震央や規模は不明としている。
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別府湾-日出生断層帯東の活動によると考えられ、羽鳥徳太郎(1985)によると、大分市内での津波は寺院の流失状態の分布から推定される波高は4-5.5m、別府湾口の奈多 7-8m と佐賀関 6-7m 程度と考えられている。波高と震度分布から推定される波源域は別府湾を包み東西方向に50km程度の長さ。 また、都司嘉宣ら(2012)によると、津波の高さ(いずれも痕跡高(浸水高))は大分県大分市佐賀関早吸日女神社の鳥居高にて5.0m、同神社境内において10.6m、同市府内町同慈寺跡地付近(現在の大分中央郵便局付近)で5.5m、同市旧長浜神社跡地(現在の城址公園付近)で5.1m、杵築市奈多奈多神社の境内において8.4mと推測されている。なお、松崎ら(2015)は早吸日女神社本殿の地震時の位置を解明して、神社境内の10.6mを否定し、佐賀関では津波高6.0m、さらにブラサの単位長を解明するとともに内陸にある同慈寺(地盤高3.5m)の被害状況も考慮して、14-15mの津波高を否定し、沖ノ浜(大分市勢家)の津波高を5-6mと推定している。 さらに、竹村恵二ら(2013)によると、古記録を吟味して「別府湾周辺の杵築(八幡奈多宮)、別府村、沖の浜(西大分)、府中並近辺(大分県庁付近)、佐賀関(関神社)などの地点の津波高を夫々、6m、4-5m、4-5m、4-5m、4-6m と推定。そうして中央構造線西部(豊予海峡セグメント)、別府湾―日出生断層東部(別府湾中央断層を含む)と別府地溝南縁断層東部(朝見川断層、府内断層を含む)が活動するモデルを検証。その結果、全部の断層がいっせいに活動する場合は、おおむね各地点の津波古記録と一致するものの、杵築(八幡奈多宮)の記録との整合性が低いことが明らかになった。そのため、中央構造線(豊予海峡セグメント)の断層にひきつづき、別府湾―日出生断層東部(別府湾中央断層を含む)と別府地溝南縁断層東部(朝見川断層、府内断層を含む)が活動するモデルを検証し、時間差8 分程度をおくことで、歴史記録による津波高と整合する結果が得られた。」とある。 瓜生島の消滅原因は、別府湾北岸の神場洲の地盤沈降が記録されていることから別府湾の陥没が原因とする説や、液状化が原因とする説がある。 2014年11月には大分市長浜町の大友氏遺跡で噴砂が発見されており、この地震又は1707年(宝永4年)に起きた宝永地震に伴う液状化の痕跡ではないかと推定されている。 河角廣(1951)は規模MK = 4. を与え、これは M = 6.9に換算されているが、規模を正確に見積もるには各地の推定震度情報が不足しており「4.」とある様に小数点以下の数字は未定である。 石橋克彦(2019)は、伊予地震と豊後地震が同一地震だとして震源域が西条市広江付近から別府湾迄にわたれば約150kmにおよびM8級の巨大地震となるが、震源破壊伝播の効果も考えればもっと短くても良く M7.5級になるかもしれないとしている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:35 UTC 版)
P波の解析から震央は深谷断層帯の櫛挽断層の南端付近で、走向N160°E、傾斜80°S、長さ20 km、幅10 km と推定されている。
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この地震は多重震源地震で、本震の約6秒前の小破壊(伊豆大島と伊豆半島の中間付近の海底)から西に進行し、陸地では西北西に進行し本震(主破壊)となる第2震が発生した。第2震の位置は、伊豆半島内陸部の稲取岬西方3-4km付近とする解析結果がある。この主破壊を生じた稲取付近には地表断層が出現した。断層の走方向は西北西であった。この地震の震源断層は後に稲取断層と命名された。
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地震像
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大森房吉(1913)は本地震を「畿内及び附近の地震」と分類し、震源域は奈良附近から大坂を経て四国東北端に延長する一帯とし、その中心は大阪湾にあり、1510年の摂津・河内で被害の著しかった永正地震や、1854年の伊賀上野地震の震源域に続くもので同系列の地震に属すと考えた。 対して、今村明恒(1933)は宝永地震や安政地震と同類の津波被害の著しい南海道沖の大地震としている。 この年には新潟焼山が噴火し、この山は887年仁和地震の当日や1854年安政地震の前後にも噴火したと考えられており、噴火と南海トラフ沿いの巨大地震との関係が示唆されている。 河角廣(1951)は規模MK = 7. を与え、マグニチュードは M = 8.4に換算されている。宇津(2001)も M = 8.4とし、これは宇佐美(2003)による推定値M 8+1⁄4 - 8.5の中間値を四捨五入したものであるが、断片的な記録しか有しない歴史地震であり詳しい震源域も不明な点が多く数値の精度は高くない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:18 UTC 版)
近代的な観測記録が存在しない歴史地震であるため、この項の数値は不確定性を含む。 河角廣はMK = 4.5としてマグニチュード M = 7.1を与えていた。震度分布から M = 7.3 あるいは震源断層モデルから Mw = 7.5 との推定もあり、宇佐美(2003)は M = 7.0 ± 0.1 としている。 発震機構は地殻変動や津波による推定から、象潟の十数km沖で海岸線にほぼ平行した長さ約42kmの高角逆断層の変位が生じたものと推定されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 00:28 UTC 版)
「カンタベリー地震 (2011年2月)」の記事における「地震像」の解説
右横ずれ断層に逆断層の成分が加わった地震で、震央付近では東西方向に長さ約30km最大横ずれ変異量5mの地表断層(グリーンデール断層と命名)が出現したが、地震発生当時には断層の存在は知られていなかった。観測された地震波形を解析した結果、クライストチャーチ市内南部では 1995年兵庫県南部地震と同程度(125cm/s)の最大速度(三成分合成)と最大加速度(三成分合成)は1,928ガルと算出され、小規模な建物を破壊しやすい1〜2秒周期のパルス性の強い振動(キラーパルス)が記録されている。2010年9月の地震の最大余震とも解釈されている。
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地震像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 09:38 UTC 版)
震源域は“く”の字を逆にした様な形で、総延長が約100 km。 複数の手法による解析の結果、いくつかの破壊モデルが挙げられている。 その1つは、本震は約50秒間の3つのサブイベントからなる。第1イベントは最初の破壊点から北北東方向に久六島の西方沖まで破壊が進んだ。第2イベントは第1イベントの終了後約10秒間の時間をあけて北北西に進み北緯40.8付近で止まった。第3イベントは第2イベントが止まった北緯40.8付近で破壊方向を北北西方向に変え進んだ。 別な解析では、2つのサブイベントからなり主破壊は30 - 35 km離れたところで24秒 - 26秒間隔で発生した、などがある。
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地震像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 03:32 UTC 版)
震央は1964年新潟地震の余震域の南端にあたり、これまで地震活動は活発ではなかったが、1994年10月頃から群発地震が起こるようになった。1994年12月にはマグニチュード4〜5の地震が散発的に発生していたが、この地震はその群発地震の一連の活動の1つであることがその後の余震活動から明らかになっている。震源断層は既知の断層の活動による地震ではなく、当時知られていなかった伏在断層の活動による地震で新潟市付近の新潟平野に生じていた地震空白域の東端で発生した地震であり、一部の研究者からは大地震の可能性を指摘されていた。 最大余震は4月2日のM 5.2の地震である。
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地震像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 01:43 UTC 版)
この地域は、ユーラシアプレートと北米プレートが衝突する日本海東縁変動帯の陸域の新潟-神戸歪集中帯の中でも、強い褶曲を受け複雑な応力場を生じている地域である。北北東 - 南南西方向の軸を持つ複背斜構造があり、震源域となった新潟堆積盆地の東縁(信濃川の東岸)の東山丘陵と魚沼丘陵は、中新世以降に堆積した5,000メートル以上の堆積物が堆積している。地震発生直後の調査では、地表地震断層が出現した小平尾断層と六日町盆地西縁断層の北部が活動したと考えられた が、その後の調査で前述断層帯が原因となった可能性を否定する 結果が得られている。阪神・淡路大震災のように明瞭な断層線が地表に出現しないことから、従来知られていた活断層(小平尾断層、六日町盆地西縁断層、信濃川低地西縁断層、信濃川低地東縁断層など)の活動ではなく、厚い堆積層下の未知の断層の活動による地震と考えられている。メカニズムとしては、北西 - 南東圧縮の逆断層型の地震である。本震および余震の振動波形や余震分布の解析結果によると、本震を発生させた滑り面とは別に並行する別な滑り面と本震と直交する合わせて3つの滑り面が存在した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 10:10 UTC 版)
サハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯で発生した地震の一つ。余震は震央の北北東-南南西方向の約80 kmの範囲に分布しているが、震源断層の傾斜方向は明らかになっていない。当時周辺の陸上の地震計(地震観測点)設置箇所は少なく海底地震計は設置されていなかったことから、余震の震源決定の精度は悪い。震源近くの粟島はこの地震によって約 1m隆起した。粟島の海岸にはいくつかの段丘が形成されており過去の活動歴を残していて、活動間隔は段丘の高さから約2000年間隔とする説と海底の活断層の解析から約3000年間隔とする説がある。 先行する静穏化現象があり、震央を中心として半径約50kmの範囲では16年間に渡って地震活動が低調で、地震の約2年半前からやや活発な活動の後に本震が発生した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 02:33 UTC 版)
「スマトラ島沖地震 (2010年10月)」の記事における「地震像」の解説
津波波形の解析からは、地震モーメントは1.0 x 1021 Nm (モーメントマグニチュード Mw 7.9)と推定される。津波波形の解析から、スンダ海溝付近の断層面の浅部で大きなすべり(最大6.1m)が発生。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 05:56 UTC 版)
北西-南東方向に圧縮軸を持つ逆断層型の地震で、京都大学の研究グループの解析では3つのアスペリティの破壊によるものと推定されている。この地震の震源域では、200年以上地震が発生していない空白域であった。 震源が海底下にあるためこの地震による断層のような明瞭な変位は地表に現れていない、しかし陸域観測衛星「だいち」に搭載されている合成開口レーダー (PALSAR) による干渉SAR解析を行った結果、震源から15 km東に離れた西山丘陵の活褶曲の向斜軸に沿って幅 1.5km 長さ 15km の帯状隆起域が検出された。この隆起は、活褶曲が成長した証拠と考える研究者がいる。
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地震像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:11 UTC 版)
地震学者の今村明恒は「日本初の地震記録である被害記述のみられない允恭地震とは対照的に、本地震こそ正史に現れる最初の大地震である」とし、また「この地震は当時の都の位置から『大日本地震史料』は「大和国地震ヒ」としているが、四方をして地震の神を祭らしめた位であるから、そう狭小な範囲の地震ではなかったであろう」と推定している。 同じく地震学者の河角廣は規模MK = 4.3と判定し、マグニチュードは M = 7.0と換算しているが、震央は示しておらず規模の根拠も不明である。
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