推定される地震像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 06:02 UTC 版)
本地震について『大日本地震史料 増訂』では、「上野、上総、並ビニ会津強ク震フ」とされていたが、例えば『会津旧事雑考』の記事は会津における地震記録であるのか、本地震の広域的な様子一般を示す記事であるのか断定できず、現時点で確かに言えることは奥州の津波のみであるとされる。一方で、『王代記』にはそれに続く『年代記』Aと『年代記』Bがあり、『年代記』Aは「奥州ニ津波打テ、百里山ノ奥ニ入テ・・」となっており、「百里」と「山ノ奥」の語順の違いに着目すれば「海岸線100里にわたって津波が山の奥まで入り」と解釈することも可能であり、その場合は地震・津波が2011年東北地方太平洋沖地震に匹敵する規模であったことも考えられるとの指摘もある。 仙台平野北部で発見された津波堆積物は放射性炭素年代測定により1429-1526年頃の間、その砂層は海岸線から1km程度まで分布していると推定され、この堆積物や先行研究で確認された室町時代頃の津波堆積物の分布を数値シミュレーションで再現すると、貞観地震モデルとされていたMw8.4の断層モデルで説明できることが示された。さらに、東北地方太平洋沖地震で確認されたように実際の津波浸水域は堆積物の範囲以上に広がっているものと推定され、さらに今後の調査から新たな地質学的証拠が見出される可能性もあることから、このMw8.4は貞観地震と同様に最小値に過ぎないものであるとされる。 「津波(津浪)」という言葉が史料に現れる最古の例は1611年慶長三陸地震を記述した『駿府記』とされていたが、本地震による奥州の津波を記した『王代記』は大永4年(1524年)以前に成立していることから『駿府記』より古い使用例となる。
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