推定される変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/07/31 12:43 UTC 版)
豊浦郡は長門国の国府が置かれた郡で、長門国に置かれた軍団は一つか二つとされる。史料には長門国の兵士について記すものもあり、もしこの国の軍団が豊浦団だけなら、長門国の兵士数と豊浦団の兵士数は一致し、豊浦団の定員は養老3年(719年)まで1000人で、以降はずっと500人だと推定できるが、他にも軍団がある場合には難しくなる。以下は全国的な軍団編成に即して推定した変遷である。 大宝元年(701年)かそれ以前に標準的な1000人の軍団として成立した豊浦団は、おそらく養老3年(719年)の全国的な減員の一環で500人(あるいはもっと少ない定員)に縮小された。凡海部我妹が五十長だったのは天平10年(738年)だが、翌11年(739年)にやはり全国的な縮小の一環として停廃になった。 天平18年(746年)に全国的に軍団が再設置され、豊浦団も復活した。天平神護3年(757年)に毅の額田部塞守が郡の大領に転じた。延暦11年(792年)にふたたび廃止された。 上記二度の廃止期間にも大宰府管内の西海道諸国(九州)には一貫して軍団が置かれていた。長門国も辺要警備のために延暦21年(802年)に再設置された。九州の軍団は天長3年(826年)に廃止されたが、豊浦団は貞観11年(869年)に下関に兵士を派遣する体勢をとって、西日本唯一の軍団として存続した。最終的な廃止年は不明である。
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