各時代の概要
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古代 会計や帳簿の起源は、ものを数える行為や、物資を管理する行為に関係し、文字の使用よりも早く行われていた。物資を集めて分け与える管理は再配分とも呼ばれ、古代の会計や帳簿は再配分と密接な関係にあった。穀物をはじめとする食糧や現物は、国家の歳入歳出や交換に使われ、物資の数量把握が必要とされた。エジプト、メソポタミア、イスラエル、中国、ギリシャ、ローマなどの地域では、現在の単式簿記にあたる会計が行われていた。 中世 イスラーム王朝は商業のインフラを整えて、財務官僚の技術として書記術とともに簿記術を広め、インド数字を取り入れた。イタリアの都市国家は地中海貿易を盛んに行い、13世紀から15世紀にかけて複式簿記の原型が整えられていく。貿易と金融の複雑化や、商人の識字率の上昇も帳簿の発展を後押しした。インド・アラビア数字はイスラーム世界からヨーロッパへ伝わり、計算や記録が容易になっていった。 近世・近代 複式簿記がヨーロッパ各地に伝わり、会計や商法の近代化が進んだ。主な点としては、(1)年次決算の確立、(2)精算表の出現、(3)時価による評価替え、(4)口別損益勘定の総括化、(5)貸借対照表の原型となる資本金勘定、などがある。 初期の複式簿記は少人数の組合員や組織によるものだったが、産業革命が進んで投資額や企業が大規模になると、多くの株主に成果を開示するためにフローとストックを要約した表を開示するようになった。これが貸借対照表と損益計算書である。会計制度や法規制の増加にともない、専門家として公認会計士が登場し、公認会計士による監査制度も整えられた。 現代 地域による会計基準の違いを解決するために、国際会計基準の導入が進んだ。会計事務所は監査に加えてコンサルティングを行うようになり、20世紀後半から監査法人の独立性に疑問が呈されるようになる。21世紀には不正会計により大企業が相次いで破綻し、会計の厳格化や投資家保護の法律が定められたが、世界金融危機が発生した。
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各時代の概要
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古代 日本で金属貨幣が作られる以前の弥生時代の遺跡からは、中国から運ばれた硬貨が発見されている。日本では、古代から米・絹・布が貨幣として用いられた。米は初期の金融や手形の発生にも関係した。 日本で作られた金属貨幣で、現存する最古の銀貨は7世紀の無文銀銭、最古の銅貨は7世紀末の富本銭、最古の金貨は760年(天平宝字4年)の開基勝宝である。朝廷が発行した皇朝十二銭は新貨のたびに銅貨の含有率が下がり、朝廷や通貨制度への信用は低下して銭離れを招いた。このために和同開珎を含めて初期に作られた硬貨は、数々の奨励策にも関わらず流通が限られ、いったん硬貨の発行は停止した。 中世 平安時代末期から中世にかけて、中国との貿易で宋銭をはじめとする硬貨が日本に流入して広まった。11世紀には博多に宋銭が運ばれ、12世紀には畿内にも流通し、幕府の禁止も効果がなく13世紀には黙認されるようになった。鎌倉時代から南北朝時代・室町時代にかけて幕府や朝廷による貨幣の発行はなく、輸入銭の普及と商品流通の増加によって貨幣が不足したため、民間では輸入銭をもとに硬貨の発行を始めた。しかし、金属貨幣の流通はたびたび不足して、そのたびに物品貨幣が重要となった。東国は絹と布、西国は米が用いられる傾向があった。16世紀に日本に伝わった灰吹法によって、金・銀・銅の産出量が増加して、16世紀から金・銀・銭(銅)の3種類の貨幣の発行が定着し、貴金属の輸出も行われた。 近世 織田信長の法令や豊臣秀吉の太閤検地により、通貨を尺度とする貫高制にかわって、米の収穫量を尺度とする石高制の普及が進んだ。民間による金・銀・銭(銅)の発行は織豊政権が引き継ぎ、のちに江戸幕府が三貨制度を定めて金属貨幣が全国で統合された。この時代に紙幣も発行されており、存在が確認されている最古の紙幣は、1610年に発行された羽書である。羽書は私札とも呼ばれ、藩領が発行する藩札や、旗本領が発行する旗本札があった。対外的には、銀が最大の貿易品として中国向けに輸出され、オランダや朝鮮との貿易で金・銀・銅を輸出したが、商品流通の活発化も加わって国内の金属産出量が不足し、幕府は改鋳を行って含有率を下げるなどの対策をした。 近代 明治政府によって円という単位が正式に採用され、政府は政府紙幣を発行して内戦などの費用にあてた。欧米を参考に銀行制度が定められて、中央銀行である日本銀行が日本銀行券を発行して、それまで各銀行が発行していた紙幣を統一した。台湾や朝鮮を植民地とした際にも銀行が設立され、日清戦争で得た軍事賠償金をもとに金本位制を採用し、外債の発行で日露戦争の戦費を調達した。世界恐慌をきっかけとして金本位制を離脱したのちは、円を中心とする経済ブロックを作った。日中戦争や太平洋戦争の時期に植民地や占領地で発行された紙幣や軍用手票(軍票)は、日本統治下の地域でインフレーションを起こして、通貨の信用低下をもたらした。 現代 第二次世界大戦後の日本の通貨は、連合国によるUSドルを基軸とするブレトン・ウッズ協定のもとで為替レートが定められた。ブレトン・ウッズ体制は、ニクソン・ショックをへて変動相場制への移行によって終了した。アメリカの双子の赤字をきっかけとして、為替レート安定のために先進5か国(G5)によるプラザ合意がなされると、急速に円高が進んだ。円高によってバブル経済が起き、1990年代前半のバブル崩壊後にデフレーションと低成長が続いている。技術の発達により、国家の通貨とは異なる貨幣としてネットワーク上で発行される仮想通貨が流通するようになった。 現代の経済政策においては、(1)為替レートの安定化、(2)国際資本移動の自由化、(3)独立した金融政策という3つの選択肢の全てを同時に達成することは不可能とされており、国際金融のトリレンマと呼ばれる。達成可能なのは3つのうち2つを選択するパターンであり、(1)為替レートの安定化と国際資本移動の自由化、(2)独立した金融政策と国際資本移動の自由化、(3)為替レートの安定化と独立した金融政策のいずれかとなる。現在の日本は(2)のパターンであり、先進国と呼ばれる各国もこのパターンを選択している。
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各時代の概要
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古代 殷の時代には贈り物としてタカラガイが使われ、周から春秋戦国時代にかけて青銅器も贈与や賃金に使われるようになる。中国をはじめて統一した秦は、度量衡を統一して銅貨の半両銭を貨幣重量の基準とした。しかし流通貨幣は統一されなかった。前漢時代には金が蓄積されて200万斤(500トン)あったとされる。漢〜唐までは銅貨の五銖銭が王朝を超えて発行されており、漢の武帝から平帝までの五銖銭の発行量は約280億銭、昭帝以降は年平均1億5380万銭だった。漢においては政府による鋳造権の独占が進んでおらず、民間が発行する貨幣(私鋳銭)も多かった。 中世 唐は銅貨の開元通宝を発行し、私鋳銭の取締りが厳しくなって貨幣の発行権が政府の物になった。唐の貨幣発行額は年平均で15万貫ほどだったが、唐の後期から五代十国時代にかけては国家に支払う貨幣が1000万貫から1500万貫に増大した。銅の不足は戦国時代から始まっており、鉄よりも銅が貴重であったため鉄貨の発行にもつながった。 近世 宋は銅貨と鉄貨を発行したほかに、兌換の有効期限がある紙幣を官営で発行した。宋の金属貨幣の発行額は総額で約3億貫、年平均では約200万貫で、王安石の時代には年間600万貫に達しており、商業の発展にともなって貨幣の流通総額が急増した。銅貨は宋銭とも呼ばれて周辺地域に大量に輸出された。北宋を倒した金は銅貨不足への対策として有効期間の制限がない紙幣を発行した。金を倒したモンゴル帝国も銅貨不足により、当初50万貫の紙幣を発行した。元の紙幣は期間や地域の制限がなく、年間350万貫の発行で制度を安定させて紙幣が基本貨幣となった。しかし元は南宋征服後に紙幣を大量に発行したため、次第にインフレーションを起こした。元は税制で集めた銀を貿易に使い、銀はユーラシア大陸を横断して流通し、南アジア西アジアにも影響を与えた。明は初期には銅貨を中心としたが、銅の不足によって紙幣が発行され、銀は禁止から解禁に変わるなど貨幣制度は一定しなかった。銅貨の鋳造額が20万貫と少ないことに加えて、貿易で日本と南米からの銀が大量流入したため、銀による財政が確立した。 近代 清は明の税制を引き継いだが、政府の紙幣は後期になるまで発行されず、民間の紙幣が先行して流通した。清の時代には貨幣単位が両に代わって元(圓)が採用された。世界的には19世紀から金本位制が広まったが、中国は20世紀まで銀本位制を保っており、銀が下落したために債務面で金本位制の国々に対して不利となった。そうした状況下で国外から送金をする華僑や、二重為替制の香港は、金融活動を活発に行った。辛亥革命ののちは国民党と共産党がそれぞれ通貨を発行し、満洲国や日本占領地域でも紙幣が発行されて多種類の貨幣が乱立した。 現代 2019年現在、中華人民共和国では人民元が通貨となっている。香港では香港ドル、マカオではマカオ・パタカ、台湾(中華民国)ではニュー台湾ドル(新台幣)が通貨にあたる。中国ではクレジット決済のユーザーが少なかったが、改革開放政策をへて21世紀以降はITにもとづく決済システムが急速に普及した。
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各時代の概要
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鎌倉時代には、南に接する北英田保との境界相論が繰り返され、鎌倉幕府の関東下知状によれば河北潟に形成された沖積地の領有権や丘陵部の境界をめぐる相論であった。 文書が多く残されている室町・戦国時代の年貢徴収については、加賀国の国守的な存在である守護や地元の武士たちが上賀茂神社に代わって集める守護請・代官請、同社の使者が直接現地に赴いて集める直務支配などの方法がとられていた。現在でも、その際に現地の百姓たちとやり取りをした書状や、徴収額と経費などを記した算用状が残されている。 なお、1470年(文明2年)5月、戦乱の京都を避けて、上賀茂神社の御正体や宝物が加賀国の金津荘に仮遷座し、これは弘治年間(鎌倉末期)の大乱時の例にならったものとの噂が奈良周辺で広がっている[要出典]。ほかにこの出来事を証明する史料は残されていないが、上賀茂神社にとって金津荘がいかに重要視されていたかをうかがい知ることができる。 中世後期に勢力を誇った加賀一向一揆の下では、その上位に立つ本願寺の力を借りながら年貢の徴収にあたり、全国の荘園が実態を失う中で、わずかであっても収益を確保することができる重要な存在であった。 1583年(天正11年)、羽柴秀吉は、能登国と加賀国北部を治めていた前田利家に対し上賀茂神社に金津荘の保有を保障するように命令する。しかし、太閤検地などの政策が進行していく中で、その権利は消滅した。
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