プロテスタント教会の動向とは? わかりやすく解説

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プロテスタント教会の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「プロテスタント教会の動向」の解説

プロテスタント宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来米国聖公会ジョン・リギンズ (John Liggins) と6月来日チャニング・ウィリアムズ (Channing Moore Williams) であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン (James Curtis Hepburn) (10月17日)をはじめとし、アメリカ・オランダ改革派教会から派遣され宣教師サミュエル・ブラウン (Samuel Robbins Brown) とグイド・フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ (Danne B.Simmons) などが続々来日した。さらに翌年1860年にはバプテスト教会ジョナサン・ゴーブル (Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ (James Ballagh) などが日本土を踏んだ。これがプロテスタント教派最初宣教師グループである。 やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会アメリカン・ボード) (American Board of Commissioners for Foreign Missions) のダニエル・クロスビー・グリーン (Daniel Crosby Greene) が来日し1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス (Merriman Colbert Harris) が函館着任した近代以降日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つ流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。 1863年ヘボン開いた横浜英学所ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョン引き継がれバラ学校呼ばれていた(バラ学校1880年築地居留地移転して築地大学校となる)。1872年押川方義東北学院創立者)らバラ学校青年たちが信仰告白し洗礼受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜最初の教会日本基督公会」(海岸教会)が開かれた1873年にはサミュエル・ブラウン自宅集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足生徒中には前出押川方義のほか、青山学院院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助植村正久らがいた。このバラ学校ブラウン塾流れから1877年東京一致神学校生まれ1887年東京一致英和学校築地大学校後身)・東京英和予備学校統合した上で白金移転して明治学院誕生したまた,一時帰国していたブラウンと共に1869年来日したメアリー・キダー (Mary E. Kidder) が、ヘボン診療所教育していた。ここから後のフェリス女学院誕生する1871年熊本洋学校教師として招かれた元陸軍士官L・Lジェーンズ (Leroy Lancing Janes) は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たち信仰入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズ大阪英学校に移るとこれに従いジェーンズ勧めたことで(新島襄1875年開いた同志社英学校加わった。その中に宮川経輝小崎弘道同志社第二社長)、海老名弾正第八同志社総長)らのメンバーがいた。 札幌農学校現在の北海道大学)で教壇立ったW・Sクラーク (William Smith Clark) とメリマン・ハリス薫陶受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラーク教え子たち中には佐藤昌介大島正健内村鑑三新渡戸稲造植物学者宮部金吾土木工学広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。 日本のプロテスタントはこれらのグループとして発展した横浜バンド流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会生まれた。そしてアメリカとイギリス聖公会流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会誕生した初期宣教師たち宿願であった日本語訳聖書出版事業もこの時期精力的にすすめられ1880年新約聖書1888年旧約聖書出版された。 1873年までに、ほとんどのプロテスタント教派来日し1882年時点日本在留していた宣教師138であった初期宣教師聖書信仰保守的な神学持ち、その宣教情熱背景にはアメリカ大覚醒呼ばれたリバイバルがあった。循環するリバイバルアメリカキリスト教特徴である。ブラウン宣教師大覚醒運動の影響受けていた。アメリカ宣教師によって日本福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。 福音派(特にホーリネス運動)の源流一つで「松江バンド」(1893年)も特筆値する1890年聖公会牧師バークレー・バックストン松江市での伝道始まりであり、竹田俊造三谷種吉堀内文一らを輩出1897年9月26日バックストン招きにより、パゼット・ウィルクス来日し日本伝道隊1904年)や日本イエス・キリスト教団関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉日本最初音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した。 1878年5月15-17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会開催され1880年第二回開かれていたが、1882年耶蘇退治迫害があった。1883年5月8-12日に開催され第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバル起こり全国的に広がった5月14日基督教演説会には四千人集めた1884年同志社リバイバルは、3月17日祈祷会最高潮迎え200名の学生信仰告白して洗礼受けた。 「日本のプロテスタント教育中心上流階級中流階級対す伝道行ってきた」といわれる日本の初期プロテスタント指導者は特に知識階級佐幕派士族階層中心だった。

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プロテスタント教会の動向

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この時期プロテスタントにとっても困難な時期ではあったが、売買春廃絶目指し日本基督教婦人矯風会1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院1887年)、石井亮一聖三一孤女学院1891年、後の滝乃川学園のような養護施設活動山室軍平による救世軍運動1895年)などキリスト教社会福祉事業社会運動廃娼運動起こっている。セツルメント運動神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)なども、キリスト教文化影響下に生まれた運動として挙げることができる。 また、この時期自由主義神学高等批評導入され日本教会混乱与えることになる。1885年ドイツ普及福音教会ウィルフリード・スピンナー来日し聖書人間宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデル来日する。この立場は、新神学呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響与えた1887年にはアメリカからユニテリアン宣教師来日し三位一体キリスト神性否定した熊本バンド小崎弘道リベラルな新神学受け入れ1889年同志社学院開催されキリスト教青年会夏期学校で、「聖書インスピレーション」と題して講演をした。また、1891年金森通倫も「モーセ五書は、ユダヤ人伝説神話寄せ集めである」と主張した1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり田村直臣牧師免職になった1893年東京帝国大学井上哲次郎教授は、『教育と宗教衝突』を発表して内村鑑三非難しキリスト教日本相容れないとした。それに対して柏木義円は『同志社文学』第59号に「勅語基督教」を掲載して反論した1901年5月20世紀大挙伝道働きの中で、リバイバル起こり1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった1901年9月から、リベラル神学巡って植村・海老名論争が起こる。1902年福音同盟会総会開きイエス・キリスト神性確認し海老名追放したが、植村十全霊感否定した1903年には、それまで教派別に編纂されていた讃美歌集一つにまとめた共通『讃美歌』が作成された。 1904年日露戦争では、海老名弾正植村正久井深梶之助本多庸一主戦論唱え内村鑑三柏木義円白石喜之介が非戦論唱えたトルストイ影響受けたキリスト教社会主義者安部磯雄木下尚江西川光次郎石川三四郎片山潜らも無抵抗主義非戦論だった。 1907年には救世軍創立者ウィリアム・ブース来日した。2万人超える群集ブース大将歓迎し、彼は西園寺公望大隈重信明治天皇面会した1912年救世軍病院開設される1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年祝って宣教開始50年記念会開催された。 1910年朝鮮併合後に朝鮮総督府日本統治時代の朝鮮)は、日本基督教会指導者植村正久朝鮮宣教持ちかけた。植村朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会指導者海老名弾正朝鮮宣教命じた日本組合基督教会は、同年10月第26回定期総会全会一致をもって朝鮮人伝道」を決議し渡瀬常吉派遣日本組合基督教会朝鮮総督府より莫大な資金援助受けて朝鮮植民地伝道繰り広げた明治1868年-1912年)の終わりから大正1912年-1926年)にかけて、明治後半にみられた国粋主義への傾き一時的に退潮した。1912年神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教地位宗教界同等なものとみなされたかのような印象与えたが、その一方で昭和1926年-1989年)に入ってキリスト教国家統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期日本基督教会信徒であった賀川豊彦労働組合運動など活発に社会運動行なったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった1918年には中田重治内村鑑三木村清松再臨運動展開した1919年11月淀橋教会祈祷会から、ホーリネス・リバイバル起き四重の福音唱えるホーリネスは教勢拡大していった。

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プロテスタントでは、朝鮮長老派神社参拝拒んでいたため、日本政府1938年6月末、同じ長老派系統日本基督教会大会議長富田満派遣して朱基徹牧師朝鮮長老派説得させるが、朱基徹らは拒んだため、殉教することになる。朝鮮教会は、約70名の牧師投獄拷問遭い50名が殉教し、2,000名の信徒投獄され、約200教会閉鎖された。 1939年成立した宗教団体法受けて青山学院開催され皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会決議基づいて1941年プロテスタント32教派自発的に統合し日本基督教団結成された。これにともない日本各地プロテスタント系神学校大半1943年日本東部神学校日本西部神学校日本女子神学校の3校に統合された。さらに1944年には男子校2校の再統合により日本基督教神学専門学校設立された(同時に日本女子神学校日本基督教女子神学専門学校改称)。 このような合同動き最後まで抵抗したのは同志社大学で、学徒出陣によって授業継続が困難となった状況下でも同大神学科廃止されることなく終戦迎えた。 この困難な時代日本のキリスト教界において多く国家妥協する一方戦争反対表明した一部教会再臨信仰咎められホーリネス教団神社参拝拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧加えられ解散追い込まれた。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐菅野鋭斉藤保太郎辻啓蔵小出朋治獄中での死亡順)、竹入高池田長十郎佐野明治出獄後死亡)などがいる。

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1956年2月ビリー・グラハム来日し日本における最初ビリー・グラハム伝道大会開かれた1959年は、プロテスタント宣教百周年記念行事が、エキュメニカル派福音派別々に開かれたエキュメニカル派では日本キリスト教協議会日本基督教団中心として開催された。その後1970年の大阪万博では、カトリック教会エキュメニカル派プロテスタントとの共同によるキリスト教館の出展があった。この頃から日本基督教団では、教会派社会派対立し教団紛争呼ばれる紛争状態に入った一方福音派聖書信仰派)は、イムマヌエル綜合伝道団蔦田二雄ホーリネス車田秋次日本キリスト改革派教会のマキルエン、常葉隆興岡田稔聖書キリスト教会尾山令仁らを指導者として、1959年日本宣教百年記念聖書信仰運動展開し翌年日本プロテスタント聖書信仰同盟発足見た。この働き新改訳聖書新約1965年旧約1970年)の出版日本福音同盟成立1968年)につながったエキュメニカル派世界教会協議会 (WCC) と交わり持ち福音派世界福音同盟ローザンヌ運動交わり持っている1974年日本最初日本伝道会議開催されイギリスジョン・ストット招かれた。70年代福音派協力関係結ばれ聖書信仰教会教勢伸ばした時代であり、「はばたく日本の福音派」と呼ばれている。 1999年10月末に、京都市国立京都国際会館で「世界宣教会議」が開催され奥山実牧師委員長務めた。この「世界宣教会議」は、『キリスト教年鑑2001年版によって「日本キリスト教史最大規模の『世界宣教会議』」と呼ばれている。

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