評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 16:14 UTC 版)
サンフランシスコ講和条約発効後の日本では、近衛上奏文に対する様々な見解が発表されている。近衛は二・二六事件など1930年代中期のテロやクーデターの観察により軍部内の共産化を憂慮しており、1940年(昭和15年)には日中戦争の長期化で革命必至との認識を持っており、この認識は軍部の革新派が満州事変以後の戦争を計画したとする陰謀論へと転換されたという見解、1941年(昭和16年)9月から翌年4月にかけて発覚したゾルゲ事件が近衛の対共産党政策への影響を与えたという見解、「マルクス主義者であった近衛文麿がマルクス主義者ではないとの偽イメージを作る自己弁護の文書」がある。 中川八洋は「近衛文麿が対英米戦争主義者でなかったかのような偽イメージ、あるいは近衛文麿がマルクス主義者でなかったかのような偽イメージをつくる、近衛自身による自己演技の最たるものがあの有名な近衛上奏文であろう。それは日中戦争と日米戦争の八年戦争のすべての責任を軍部に転嫁するに絶妙で華麗な演技の典型であった。この上奏文をもって近衛文麿が従前から英米に対する戦争の回避論者であったと、その証拠としてあげるものが多いが、それは余りにも短絡的である。また読解力に欠陥ありといわざるをえない(中略)。近衛上奏文は、日本の八年戦争とは日本の共産化を目的として共産主義者(マルクス主義者、社会主義者)たちによって遂行されてきたこと、一九四四年頃からのスローガン一億玉砕はレーニンの敗戦革命論に従った、共産革命がし易い荒廃した日本社会をつくるためのものであること、陸士・陸大の秀才組のある部分がソ連軍を日本に導入しての日本の共産化を策謀していること、などの最も深刻な諸状況について最も正確に鋭く核心を衝く省察をなしている。が同時に、この近衛の指摘は、マルクス主義にかぶれた陸士・陸大卒の赤い軍人たちに対英米戦とその継戦の動きのすべての責任を転嫁する狙いであるのは誰しも一読すれば理解できよう。」と近衛上奏文を批評している。 秦郁彦は近衛上奏文の内容を日中戦争・太平洋戦争にまつわる一連のコミンテルン陰謀説の中に位置付ける。秦は近衛がこのような言説を用いた理由について、戦争を食い止めるための方便とも考えられるが、藤田侍従長の手記の記述を踏まえると、近衛は本心からこの陰謀説を信じていたのだろうと推測する。 猪木正道は近衛は「深く信頼していた尾崎秀実がリヒアルト・ゾルゲと組んだソ連のスパイであったという深刻な個人的体験」に左右されていたのではないかとした上で、「何もかも共産革命の陰謀のせいにする近衛上奏文は、まことにグロテスクな文書」・「近衛の被害妄想」「"陰謀理論"の典型」であり、その結論は「全く現実から"解放"された夢の世界の考え方」と評する(ただし日本は戦争終結を目指すべきとした論点だけは正しかったとする)。 鶴見俊輔によれば、近衛は戦争の進行を憂慮し日本の民衆に共産主義が浸透しているという危機感を強くしていたが、その懸念に反して太平洋戦争末期の当時の時点で実際に日本で投獄を免れて活動を続けられていた共産主義者(「偽装転向者」)が少なかったことは「終戦時の完全な静けさを見ても明らか」である。 塩崎弘明は近衛上奏文の内容は当時の皇道派、統制派など諸勢力の間での「党派的」な性格が強く、敗戦についての責任を統制派に着せようとしたものだと考える。 平間洋一は、日本政府がソ連を仲介役とした和平策に拘り米英との和平交渉を避け貴重な時間を空費しアメリカ軍に数十の都市を焼かれ原爆まで投下されてしまった理由として「近衛の言うように共産主義国家体制を戦後の政体と考える陸軍統制派、官僚や学者などがいたからである」と述べ、近衛上奏文を事実の暴露と解説し、レーニンの敗戦革命論に沿った彼らの終戦構想として、昭和二十年四月二十九日に種村佐孝大佐によって起案された「対ソ外交交渉要綱」や昭和十九年八月八日に種村大佐をはじめ参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務課によって協議された「今後採るべき戦争指導の大綱に基く対外政略指導要領案」など陸軍の戦争指導に関する第一次史料を挙げている。
※この「評価・解釈」の解説は、「近衛上奏文」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「近衛上奏文」の記事については、「近衛上奏文」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 03:15 UTC 版)
「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」の記事における「評価・解釈」の解説
戦後25年を振り返り、自らの生き方を全面的に否定しながら三島が述べた上記の最後の一節を福田和也は引きつつ、「『ツァラトゥストラ』の末人の章のような形容詞のたたみかけ方に、容赦のない戦後日本への断罪が込められている」と評している。そして、その戦後を否定しさることは同時に、時代を代表する作家として三島を喝采・支持した戦後日本と、「作家にして寵児であった三島その人の存在を、生き方を否定」してしまうことだとし、三島はその否定を、「雄々しくというよりも明晰さゆえに、容赦なく」、しかも徹底的に遂行せざるをえなかったと福田は解説している。 井上隆史は、三島が〈或る経済大国が極東の一角に残るのであらう〉という文言が意味するものが、いまや日本が、「経済をアイデンティティの拠り所にすること」も困難になった時代となり、それゆえ初めて、「三島の言おうとしていたことが生々しく迫ってくる」ということほど、「痛烈なアイロニイはない」と述べている。
※この「評価・解釈」の解説は、「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」の記事については、「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:26 UTC 版)
「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ」の記事における「評価・解釈」の解説
『Mishima』の評価は賛否両論を巻き起こし、映画界で話題を呼んだ作品である。三島の文学研究の立場で観賞すれば、三島の小説の中の都合のいい断片部分を寄せ集めた観のあるものとして批判的な要素もありながらも、小説家の思想と小説の作中人物の関係性を一本の映画の中で表現させようとした試みの大胆さは評価に値すると垣井道弘は解説し、日本の作家・三島由紀夫の存在を広く世界の映画ファンに浸透させたと評している。 カンヌ国際映画祭翌日の新聞各紙の報道は、「三島をはじめ、楯の会の軍服に身を包んだ人たちの姿が美しい。この作品には、三島というもののすべてが凝縮されている」(ニース・マタン紙)や、「めったに見られない一つのスタイルを発見している。今回の全作品中で最も野心的な作品だ」(フランス・ソワール紙)をはじめ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙などが讃辞の記事を載せた。その一方、リベラシオン紙は「シュレイダー監督はMISHIMAと自決した」と皮肉をこめて酷評した。これについて垣井道弘は、三島文学にまったく関心のない記者が酷評したのだろうと述べている。 ジョディ・フォスターは、映画雑誌『ロードショー』の「もっと評価したい映画」を一本だけ挙げて自分の好きな映画を語るという企画特集で、『Mishima』を取り上げている。また、ジョディは来日した際のインタビューで、「三島文学をかなり読んでいたので、映画にも興味を惹かれて見ました。三島の文学作品を撮った部分と、三島由紀夫の生涯を対比して描いたところが素晴らしかった。作品部分は凝った構成で、生涯の部分はドキュメンタリー・タッチになっている。その対比が絶妙だと思った」と述べている。
※この「評価・解釈」の解説は、「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ」の記事については、「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 14:26 UTC 版)
「アッシュールバニパルの焔」の記事における「評価・解釈」の解説
東雅夫は『クトゥルー神話事典』にて、「ハワード得意のテンポよい冒険活劇調で展開される、神話大系の中ではやや毛色の変わった作品。<インディ・ジョーンズ>シリーズの先駆!?」と解説している。また同書ではハワード作品への総論として「ハワードの正調神話作品は、総じて作者の本領を十全に発揮するものとはなっていない憾みがある」と欠点を述べており、クトゥルフ神話の定石とハワードの特性“狂おしき闘争本能”の相性の悪さを指摘し、本作はその典型と解説している。 『クトゥルフ神話ガイドブック』は、「ハワードは特に独自の神格を生み出すというよりも、独自の解釈で、神話要素を取り込んだ恐怖小説やヒロイック・ファンタジーを書いた」と解説し、さらに本作については「コナンの作者らしい暴力と魔術に満ちた現代秘境冒険物語であるが、『ネクロノミコン』への言及から、ラヴクラフトの『無名都市』からイマジネーションを受けたものであることがわかる。ここで、ハワードは、呪われた死者の都を、アラブ人がベレド=エル=ジン(魔物の都市)と呼び、トルコ人がカラ=シェール(暗黒の都市)と呼んだものだと設定した」と解説している。 怪物について、作中では固有名詞は出ていない。ロバート・M・プライスは後付けで、ハワード神話の複数作品に登場する神をゴル=ゴロスと解釈した(ただし本作には言及していない)。『クトゥルフ神話ガイドブック』は本作の怪物をツァトゥグァと解釈している。謎の神「コス」について言及があり、また固有名詞ズトゥルタンが用いられている作品でもある。
※この「評価・解釈」の解説は、「アッシュールバニパルの焔」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「アッシュールバニパルの焔」の記事については、「アッシュールバニパルの焔」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:03 UTC 版)
「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の記事における「評価・解釈」の解説
ブリヂストン美術館の貝塚健は、「この絵には、社長に何とか気に入られようとする切羽詰まった感じがある」「テストを受ける受験生のような緊張感がみなぎっている」と評価している。同美術館の宮崎克己は、「背の高いルノワールが座っている子どもを見下ろしているような、その場のある時間、ある瞬間の状況を暗示しているのではないかと思います」と述べている。
※この「評価・解釈」の解説は、「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の記事については、「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 03:31 UTC 版)
「Mishima: A Life In Four Chapters」の記事における「評価・解釈」の解説
『Mishima』の評価は賛否両論を巻き起こし、映画界で話題を呼んだ作品である。三島の文学研究の立場で観賞すれば、三島の小説の中の都合のいい断片部分を寄せ集めた観のあるものとして批判的な要素もありながらも、小説家の思想と小説の作中人物の関係性を一本の映画の中で表現させようとした試みの大胆さは評価に値すると垣井道弘は解説し、日本の作家・三島由紀夫の存在を広く世界の映画ファンに浸透させたと評している。 カンヌ国際映画祭翌日の新聞各紙の報道は、「三島をはじめ、楯の会の軍服に身を包んだ人たちの姿が美しい。この作品には、三島というもののすべてが凝縮されている」(ニース・マタン紙)や、「めったに見られない一つのスタイルを発見している。今回の全作品中で最も野心的な作品だ」(フランス・ソワール紙)をはじめ、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙などが讃辞の記事を載せた。その一方、リベラシオン紙は「シュレイダー監督はMISHIMAと自決した」と皮肉をこめて酷評した。これについて垣井道弘は、三島文学にまったく関心のない記者が酷評したのだろうと述べている。 ジョディ・フォスターは、映画雑誌『ロードショー』の「もっと評価したい映画」を一本だけ挙げて自分の好きな映画を語るという企画特集で、『Mishima』を取り上げている。また、ジョディは来日した際のインタビューで、「三島文学をかなり読んでいたので、映画にも興味を惹かれて見ました。三島の文学作品を撮った部分と、三島由紀夫の生涯を対比して描いたところが素晴らしかった。作品部分は凝った構成で、生涯の部分はドキュメンタリー・タッチになっている。その対比が絶妙だと思った」と述べている。
※この「評価・解釈」の解説は、「Mishima: A Life In Four Chapters」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「Mishima: A Life In Four Chapters」の記事については、「Mishima: A Life In Four Chapters」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:46 UTC 版)
原画は1782年のサロンで高く評価された。ヴィジェ=ルブラン本人も、本作がサロンで展示されたことによって自らの名声が大きく上昇したとの旨を回想録で語っている:43。こうした評価の高まりに加え、フランス王室、とりわけマリー・アントワネットによる支援もあり、ヴィジェ=ルブランは風景画家クロード・ジョセフ・ヴェルネより王立絵画彫刻アカデミー入会の推薦を受けた。同アカデミーは女性会員の定員を4人に限定しており、当時マリー=テレーズ・ルブールとアンヌ・ヴァライエ=コステルが在籍していたため、空席は2枠しかなかったが、ヴィジェ=ルブランは1783年5月31日に同アカデミーの会員になることができた。 吉城寺は、良好な評価を得た自画像の複製画を製作したことは、ヴィジェ=ルブランが自らの名声を高め、製作依頼を増加させるために優れた自画像を利用したことを意味している、との旨を述べている:43。石井 (2011) は、自画像『チェリー色の赤いリボン』に比べてインパクトは劣るとしている。イギリスの美術史家アレグザンダー・スタージス(英語版)らは、ヴィジェ=ルブランは自身の肉体的な魅力と画家としての才能の両方を世間に広く知ってもらうためにこの自画像を製作したとの旨を述べている。美術史家のジェームズ・シンガー (James W. Singer) は、高価な服装や宝飾品を身につけることによって、中流階級の出身であることを紛らわそうとしている、との解釈を示している。
※この「評価・解釈」の解説は、「麦わら帽子の自画像」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「麦わら帽子の自画像」の記事については、「麦わら帽子の自画像」の概要を参照ください。
評価・解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:35 UTC 版)
「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の記事における「評価・解釈」の解説
この討論会の眼目は、全共闘らが、死の原理である行動を〈現在の一瞬〉に賭けきれず、既成左翼の思考ルーティンである〈未来〉へと繋げざるをえない時間意識の呪縛から抜け切れていないところにあり、政治と文学の関係についても既成左翼的な〈政策的批判〉を踏襲するだけで、天皇制に集約される文化の母胎(非合理で非論理な民族的心性)の所在に無自覚であり、日本の歴史と伝統(時間的連続性)に関わる〈日本人の深層意識に根ざした革命理念〉を真に把握できず、それを拒否する姿勢で自ら〈革命理念の日本的定着を弱めてゐる〉ことを三島から指摘されている点にある。 しかし、このように三島と全共闘の思考が平行線で噛み合わなかったものの、この対話が三島にとり〈愉快な経験〉であり、〈天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ〉という言葉に連帯の表明がなされていると岩佐壯四郎は解説している。 保阪正康は、全共闘らが三島の論理の本質を最後まで全く把握できなかったし、ある時には、「空間には時間もなければ関係もない」などと言い、三島の術中にはまって、解放区そのものが3分間でも1週間でも続こうが本質的に価値の差はないと答えさせられてしまったり、天皇という名辞が個々の共同幻想の果てにあると、誘いをかけられた時にも、三島のいう天皇の実体を彼らが把握できずに、的外れな質問に終わっていることを指摘している。また、討論会の終盤では、論理の空転だけの経過に倦いて、三島が焦燥感に駆られていることが、二列目で見ていた持丸博には判ったとされる。 保阪は、三島がこの討論会の後で失望を抱いた理由を、全共闘らが「結局、自己の死を賭してまで政治的スローガンを守りぬこうとしない」ことと、「世慣れた口舌と甘えにつうずる挙措」にあり、三島が彼らの「限界」を見抜いていたと解説している。
※この「評価・解釈」の解説は、「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の解説の一部です。
「評価・解釈」を含む「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の記事については、「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」の概要を参照ください。
- 評価解釈のページへのリンク