評価の高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:25 UTC 版)
1983年(昭和58年)2月、京都市内で3日間にわたり「国際紙会議」が開催された。世界19カ国から539名の紙に関するあらゆる立場の人々が集い、各国の手漉き和紙の実演などが行われ、1日のみの一般公開日には2,000人が詰めかける和紙ブームを引き起こした。この折、黒谷では、黒谷和紙見学ツアーが催行され、組合長に伴われた各国の関係者が参加した。この国際会議は、黒谷和紙が世界に認知される足がかりとなったとされている。 世界遺産の二条城や、フランス・ルーブル美術館で修復用紙として採用され、ヨーロッパでは「クロタニ」の名で知られる。黒谷和紙は、2009年(平成21年)に皇室が海外に送ったクリスマスカードにも採用された。 2015年(平成27年)には、京都工芸繊維大学の学生が黒谷和紙協同組合の協力のもと制作した黒谷和紙メイキング動画がインターネット公開から約1年間で13万回以上再生され、世界各地から賞賛のコメントを集めた。組合は、海外で開催される展覧会にも積極的に黒谷和紙を出品し、インターネットと通じた販路拡大にも取り組んでいる。
※この「評価の高まり」の解説は、「黒谷和紙」の解説の一部です。
「評価の高まり」を含む「黒谷和紙」の記事については、「黒谷和紙」の概要を参照ください。
評価の高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 01:22 UTC 版)
「ニコラ・レオナール・サディ・カルノー」の記事における「評価の高まり」の解説
カルノーが生前世に出した論文は『火の動力』のみである。先述の通り、生前は正当な評価を得ることが出来なかった。 カルノー死後の1834年に、エミール・クラペイロンは論文でカルノーを取り上げた。クラペイロンはこの論文で、カルノーサイクルを図式化し、さらに解析的な表現を使ってカルノーの理論を発展させた。クラペイロンの論文は英訳(1837年)、独訳(1843年)されたが、この時点でもカルノーの名は一般には知られることはなかった カルノーの名が広まったのは、ウィリアム・トムソンの影響が大きい。トムソンはクラペイロンの論文からカルノーを知り、1848年と1849年に、カルノーの研究を元にした論文を発表した。カルノーの研究は、トムソン自身の新しい温度目盛の考案などに大きな影響を与えている。 『火の動力』は1840年代にはすでに入手困難となっていたが、カルノーが評価された後の1872年、雑誌に再掲され、さらに1878年には、イッポリートの手により第2版が出版された。イッポリートによる伝記や、『覚書』(抜粋)は、この時初めて収録された。『覚書』の全文が世に出るようになったのは、20世紀に入ってからである。 カルノーの論文が出版当時評価されなかった事については、原因として、カルノーは『火の動力』では数式を使った解析的な表現を行わなかったこと、カルノーはフランス学士院などの当時の有名な学会に参加していなかったこと、さらに、カルノーが使った「仕事」の概念は、主に技術的な分野で使われていたもので、物理や化学の分野ではなじみが薄かったことなど、いくつかが考えられている。
※この「評価の高まり」の解説は、「ニコラ・レオナール・サディ・カルノー」の解説の一部です。
「評価の高まり」を含む「ニコラ・レオナール・サディ・カルノー」の記事については、「ニコラ・レオナール・サディ・カルノー」の概要を参照ください。
- 評価の高まりのページへのリンク