評価の高いレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:49 UTC 版)
「アイルトン・セナ」の記事における「評価の高いレース」の解説
1984年第6戦モナコGP 予選を13位で通過。大雨となった決勝レースでは、ファステストラップを更新しながら猛烈な勢いで追い上げ、この年チャンピオンとなるマクラーレンのニキ・ラウダを、雨の中でオーバーテイクするなどの活躍を見せた。首位のプロストとの差を縮めつつあったものの、大雨により31周終了時点でレース中断の赤旗が振られた。ラップタイム差だけを見ればプロストをオーバーテイクして初優勝の可能性もあったため、セナは新人にして僅か6戦目で初の表彰台を獲得したにもかかわらず、表彰台で笑顔は見られなかった。 当時メカとして所属していた津川哲夫が後年語ったところによると、レース後に整備のためマシンの各パーツを解体していた際、フロント・サスペンションのスプリング・リングが破損し割れていたことが判明(津川曰く、「辛うじて首の皮一枚で繋がっている状態」であった)。もしレースが中断されていなければ、あと数周ももたずにサスペンションは完全に破損に至り、優勝はおろかチェッカーを受けることすら不可能だったろうと指摘している。 1985年第2戦ポルトガルGP 予選で初のPPを獲得すると、大雨となった決勝レースでは一度も首位を譲ることなく独走。2位以下に1分以上の差(3位以下は周回遅れ)をつけ、デビュー16戦目にして初優勝を飾った。ファステストラップも記録する完全勝利で、「雨のセナ」の片鱗も見せた。「去年のモナコ以上に大変だった。前に誰もいなくて、いいペースだったから行こうと思ったんだ。最高の瞬間だったね」と語った。 1986年第2戦スペインGP 予選でPPを獲得しスタートからトップを走行するが、後続に肉薄される厳しい展開となり、40周目にはマンセルの先行を許し差を広げられた。しかしマンセルはタイヤトラブルにより徐々にペースダウン、再度接近した後、63周目に抜き返しトップに返り咲いた。その後、ピットインによりタイヤを交換したマンセルがファイナルラップの最終コーナーでセナを抜きにかかるが、先行したのはコントロール・ラインを通過した後であった。2人の差は0.014秒で、当時2番目となる僅差だった。 1988年第15戦日本GP 優勝すれば初のタイトル獲得という状況で、予選でPPを獲得。しかし決勝ではスタートに失敗、エンジンをストールしかけ、大幅に順位を落とし1コーナーは14位で通過した。その後、オープニングラップで8位まで挽回、以後も次々にオーバーテイクを繰り返しながら、首位プロストを追った。小雨がぱらつく天候にも助けられレース中盤には追いつき、27周目のシケイン出口でプロストのスリップストリームに入ると、次の1コーナーでオーバーテイクを成功させた。そのまま首位でチェッカーフラッグを受け、初のドライバーズタイトルを獲得した。 1990年第1戦アメリカGP 新チームメイトのベルガーがPPを獲得する一方で、電気系トラブルなどもありセナは5番グリッドからのスタート。決勝では、デビュー9戦目のアレジが4番グリッドから好スタートを切り、1周目からトップを走行する展開となった。セナは、順位を上げながら徐々に差を詰めてゆき、中盤には背後まで迫った。34周目、セナはついにアレジを抜きトップに立つが、アレジも譲らず続くコーナーで抜き返した。翌35周目、セナは同じコーナーで再びトライし、オーバーテイク。そのまま背後に張り付き、2度・3度と仕掛けたアレジだが、今度は抜き返すまでには至らず。以後は差も開いてゆき、そのままセナが優勝、表彰台で2人は健闘を称え合った。 1991年第2戦ブラジルGP 母国でいまだ優勝がない状況の中、この年で8度目の挑戦を迎えた。予選ではPPを獲得、決勝でもスタートからトップを走るが、マンセルが接近し序盤は2人のみが大きく抜け出す展開となる。その後、マンセルはタイヤ交換時のタイムロスで大きく遅れ、最後はギアボックストラブルでリタイヤ。代わって2位となったパトレーゼとは大差が付いており、母国初優勝が大きく近づいたように思えた。 しかしマンセルのリタイヤの少し前から、セナもギアボックスにトラブルを抱えていた。まず4速に入らなくなり、その後は立て続けに3速・5速が使えなくなった。ラスト数周では、ついに6速ギアしか使えない状態となったが、雨も落ち濡れ始めた路面を6速だけで走りきり、トップでチェッカーを受けた。シートベルトが体を締め付けるなどのトラブルもあり、レース終了後には車から降りられないほど疲労していた。 この際にウイニングラップ時のセナ本人の感動の嗚咽を、国際中継担当の地元のテレビ局が無線傍受し放送電波に乗せて全世界に配信した(当時はチーム無線は非公開が原則であった)。マクラーレンが傍受されにくいケンウッド製無線システムを前倒し導入したのは、この一件が原因である。[要出典]この音声はF1公式Youtube動画「Top 10 Race-Winning Radio Celebrations」の1位に選ばれている。 1991年第10戦ハンガリーGP ウィリアムズ勢に苦戦し勝利から遠ざかっていた中、本田宗一郎が死去。直後の開催となったこのGPでは、セナを含めチーム全員が喪章をつけて挑んだ。予選では、超軽量カウルや予選用ガソリンの投入もあり5戦ぶりにPPを獲得すると、決勝でも1度もトップを譲らずに優勝。レース終了後、セナは久々の勝利を本田宗一郎に捧げた。 1992年第6戦モナコGP リタイヤ続きなうえ、完走してもウィリアムズ勢には2台に付いて行けないレースが続く中、モナコGPを迎えた。しかし状況は変わらず、開幕から5戦連続ポールトゥーウィンを記録していたマンセルがここでもPPを獲得、セナは予選中にクラッシュするなど精彩を欠き、3番グリッドに留まった。決勝レースでは、スタートでパトレーゼをかわして2位に浮上するが、マンセルのペースに付いて行けず。残り8周の時点では、28秒後方の単独2位を走行していた。しかしここでマンセルがリアタイヤに異常を感じて(実際はホイールのナットが緩んだのが原因)緊急ピットイン。タイヤ交換を終え、ピットアウトした時には、セナが首位に立っていた。逃げるセナだが、新品のタイヤを装着したマンセルは追い上げ、74周目には予選6位に相当するファステストラップを記録した。 残り3周でついにテール・トゥー・ノーズの状態となり、マンセルは狭いコース幅を一杯に使い、あらゆるコーナーでインからアウトからオーバーテイクを狙うも、セナは僅かにレコードラインをはずしながら抑え込んだ。途中でブルーフラッグが提示されるほどのペース差があったが、最終的にマンセルはセナを抜くことが出来ず、0.215秒差でセナがトップチェッカーを受け、シーズン初勝利を果たした。チェッカー直後にセナのエンジンから白煙が上がるなど厳しい状態での勝利だった。 マンセルの6連勝を阻むと同時に、自身モナコGP4連勝を達成。通算ではモナコ5勝目となり、モナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルの記録に並んだ。また、モナコGP50回目の記念レースでもあった。 1992年第10戦ドイツGP モナコGPで勝利したものの、その後は3戦連続リタイア、このGPの予選も3位グリッドと苦しい状況は変わっていなかった。セナはタイヤ無交換作戦で決勝に挑み、14周目にはタイヤ交換を行ったマンセルの前に出た。マンセルはすぐに追いつき抜きにかかるが、セナがライン取りで抑え込むという、モナコGPを思い起こさせるバトルが演じられた。マンセルは攻めの走りの中で、19周目に第2シケインを直進し不通過となるが、そのまま加速してセナをパスしたが、直後の20周目に今度はパトレーゼがタイヤ交換を行い、2位のままでレースが進んだ。 ファステストラップを更新しながら差を縮めるパトレーゼに対し、セナもペースを上げたが、残り4周の時点で2台はテール・トゥー・ノーズとなった。ペースではパトレーゼが上回ったが、セナはライン取りで抑え込み、先行を許さなかった。そのままの順位で迎えた最終周、高速区間の最後であるアジップ・カーブでパトレーゼが仕掛けるが、セナはここでも抑えきり、一方のパトレーゼはスピンを喫しストップした(8位完走扱い)。 2位を守ったセナは、そのままトップのマンセルから4秒の差でチェッカーを受け、レース後に「表彰台で健闘を称え合いたかった」とパトレーゼが登壇出来なかったことを残念がるコメントを残している。 1993年第2戦ブラジルGP PPのプロストに1.8秒以上の大差をつけられ、予選3位。スタート直後に予選2位のヒルのインを突いて2番手に浮上するも抜き返され、さらに黄旗無視でピットでの10秒ペナルティーストップを命じられ、4位に後退した。その後、曇り気味だったサーキット周辺に雨が降り出し、これを見たセナは真っ先にレインタイヤへの交換を決断した。暫くして雨は一気に激しくなり、クラッシュするドライバーが続出した。チームとの無線連絡が混乱状態にあってピットインが遅れたプロストもクラッシュした。プロストがリタイアする直前にセーフティカーが出動し、セナはプロストに代わって首位に出たヒルとの差を一気に縮めた。 レース再開後、雨が上がったのを見てすぐさまスリックタイヤに交換し、1周遅れで交換して首位のまま復帰したヒルのタイヤが温まり切っていないのを見逃さずに抜いて首位に立ち、そのまま1位でチェッカーフラッグを受けた。事前の予想では困難とされた勝利に興奮した地元の観衆が、コースに乱入してセナのマシンを取り囲んだことでウィニングランを続行出来なくなり、セーフティーカーに乗り換えて続けることになった。 1993年第3戦ヨーロッパGP PPのプロストに1.6秒以上の大差をつけられ、予選4位。決勝はウェットコンディションでスタート。セナはスタートで出遅れ、1コーナー通過時には5位に後退するも、ここから一気にペースを上げる。次の2コーナーでシューマッハをパスすると、3コーナーではアウトに大きくはらみながら加速し、4コーナー手前でベンドリンガーをパス。そのままの勢いでヒルの後ろに付くと、7コーナーで一気にヒルのインを突きオーバーテイク。セナは10コーナーのメルボルンヘアピン進入でプロストのインに並ぶとそのまま抜き去り、オープニングラップだけで4台を抜き首位に立った。その後、タイヤ交換のトラブルで一時後退する場面もあったが、最終的に2位以下に大差を付けてシーズン2勝目を挙げた。 抜かれたドライバーの1人であるカール・ベンドリンガーが「これは下手に付いて行かないほうがいいと直感した」と語るなど、歴代のチャンピオンドライバーや当時のドライバーたちも、称賛する数々の発言を残している[要出典]。 1993年第6戦モナコGP 予選はプロスト、シューマッハに続く3番手。スタートでトップ3に順位の変動はなかったものの、プロストにフライングの裁定が下り、10秒間のストップ&ゴーペナルティーが科せられる。12周終了時点でプロストはペナルティーを受けるためにピットイン。10秒間の停止の後スタートを切るがクラッチが繋がらずにエンジンストール。大きくタイムをロスして周回遅れとなり完全に優勝争いから脱落する。 これで2位に上がったセナだが、プロストに代わり首位に立ったシューマッハとも20秒近くの差があった。その差を少しずつ詰めるものの、追いつくほどには至らない中、33周目にシューマッハのマシンがアクティブサスペンションのオイル漏れにより、ローズヘアピンで出火してリタイアしたことで首位に立つと、そのままトップでチェッカーを受けモナコGP5年連続優勝を果たした。通算6勝目となったことでセナはモナコGPにおけるグラハム・ヒルの最多勝記録を塗り替え、「稀代のモナコ・マイスター」と称された。 1993年第15戦日本GP 前戦ポルトガルGPでタイトル獲得、そして引退発表を行ったプロストに対し、セナのモチベーションは残す2戦のみとなったプロストとの直接対決を制する事にあった。予選は初戦以来となる僅差での2位。決勝当日は苦手としていた鈴鹿でのスタートダッシュを決める事を重視し、フリー走行でそれを想定したライン取りで走り込んだ。その甲斐あり、スタートではPPのプロストに第1コーナーで先行した。セナは首位を堅持してチェッカーフラッグを受けたが、結果的にこれがセナ最後の鈴鹿での出走ならびに勝利となった。 なお、このレースでデビューしたエディー・アーバインを周回遅れにする際に抜き返され、レース後、セナがアーバインの元に詰め寄り、殴り合い寸前となる(関係者の制止で未遂になった)一幕もあった。「周回遅れのせいで本当に怖い思いをした。こんなのはプロじゃない」と語り、放送禁止用語を使うほど苛立っていた。 1993年第16戦オーストラリアGP プロストとの最後の直接対決となったこのレースで、この年初となるPPを獲得。決勝レースでも、セナはタイヤ交換時以外は首位を明け渡す事無く勝利した。2年ぶりのポール・トゥー・ウィンを記録し、結果的にこれがセナ生前最後の勝利ともなった。ロン・デニスの仲介で、パルクフェルメ及び表彰台で2位で現役最後のチェッカーを受けたプロストを労う光景は、多くの者に「1つの時代の終焉」を見せた。
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