名所・旧跡・観光施設
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江戸方から上方へ(この区間では南から北へ)、おおよそ道なりに記す。 大宮宿 武蔵国一宮の石柱 :所在地はさいたま市大宮区吉敷町2-9。 氷川神社一の鳥居 :「#氷川神社」参照。所在地は上に同じ。 安藤橋碑、伝・安藤弾正の墓碑 :「#安藤橋」参照。所在地は大宮区吉敷町1-103。 塩地蔵 :「#塩地蔵」参照。所在地は大宮区吉敷町一丁目。 涙橋(中之橋)跡 :「#涙橋(中之橋)」参照。所在地は大宮区下町2-29。 (紀州鷹場本陣):「#紀州鷹場本陣」参照。 (臼倉新右衛門家・本陣):文政年間(1818- 1830年)以前、臼倉新右衛門が代々務めていた本陣。現存せず(現・キムラヤベーカリー)。 (山崎喜左衛門家・本陣):臼倉新右衛門の後を受けて文政年間以降、代々本陣務めた山崎喜左衛門の屋敷。現存せず(現・岩井ビル)。 東光寺 :「#東光寺」参照。所在地は大宮区宮町3-6。 栗原家の持仏堂 :大宮宿にて脇本陣を3つも営んでいた 栗原氏 の阿弥陀堂(持仏堂、栗原堂、御影堂〈ごえい-どう〉とも称)がある。栗原内記とその妻の木彫坐像も安置されている。所在地は大宮区宮町4-122。 さいたま市立博物館 :浦和宿と大宮宿に関する展示あり。 氷川神社 :武州六大明神の一つである、武蔵国一宮名神大社。「#氷川神社」も参照。所在地は大宮区高鼻町1-407。 大宮宿以北 土手町の椎の木 :旅路の目印として植えられていた2本の椎の大木が今も青々と葉を茂らせている。所在地は大宮区土手町1-29。 氷川神社裏参道石柱 :「官幣大社 氷川神社」と刻まれた石柱。 大山御嶽山道標(おおやま-みたけさん-どうひょう):安政7年(1860年)建立の道標で、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれている。すなわち、相模大山および大山阿夫利神社と、御岳山(東京都青梅市)、近隣の与野(現・さいたま市中央区)、引又(ひきまた。現・志木市)、そして、交易地として栄えていた川越への道を案内するものであった。なお、大山詣では、男子が15 - 20歳になると一人前と見なされ、村の大人とともに参拝する習わしとなっていた。所在地は北区東大成町一丁目。 八百姫大明神(やおひめ-だいみょうじん):嘉永7年(1854年)に再建されたと伝えられる「八百姫大明神」の石碑が小堂に納められている。八百姫とは、人魚の肉を食べて800歳まで生きたという、いわゆる「八百比丘尼(やお-びくに)」のことであり、当地にしばらく滞在していたとの伝説が残っている。所在地は北区植竹町1-197。 石上神社(いそのかみ-じんじゃ):中山道筋から西へ横道を入った所に小さな祠がある。疱瘡(ほうそう)の神としてその禍(わざわい)から逃れられるよう信仰されたもので、太平洋戦争前までは露店が出るほどの賑わいであったという。所在地は北区東大成町二丁目。 馬頭観音、三界萬霊塔 :所在地は北区東大成町二丁目。 東大成の庚申塔 :「#東大成の庚申塔」と右上の画像および解説文を参照のこと。所在地は上に同じ。 加茂神社、天神橋の立場 :別項「上尾宿」にて記述する。
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名所・旧跡・観光施設
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坂越の古い町並み(都市景観100選、日本遺産構成文化財) 生島樹林 (国の天然記念物、日本遺産構成文化財、瀬戸内海国立公園、ひょうごの森百選)秦河勝の墓 宝珠山 - 宝珠山~茶臼山登山道(ウォーキングコース)/宝珠山八十八箇所霊場大避神社-坂越の船祭り(国指定重要無形民俗文化財、瀬戸内海三大船祭り)。2018年(平成30年)4月、祭礼と共に日本最古級と云われる船絵馬などの神社奉納物が日本遺産の構成文化財に認定された。 妙見寺(観音堂・薬師堂・奥の院)- 創建は8世紀中期頃、行基によって開山されたとする真言宗の仏教寺院。『太平記』に登場する児島高徳ゆかりの寺として知られる。宝珠山の中腹にある観音堂からの坂越浦の眺めは絶景。宝珠山霊場、大避神社、妙見寺と併せた坂越のパワースポットとして人気。 妙道寺 - 創建は1532年(享禄5年/天文元年)で、開基者は学西とされる。浄土真宗本願寺派の仏教寺院。坂越で初めての寺子屋。 和田備後守範長公一族五霊位の墓 船岡園 - 1914年(大正3年)に、南北朝時代の内乱で新田義貞と共に足利尊氏と戦った南朝の忠臣児島高徳の550年忌を記念して開設された公園。園内にある高徳の墓の傍らには、彼を崇拝して日清・日露戦争の指揮を執った海軍司令官、東郷平八郎の石碑が建てられている。赤穂の桜の名勝地でもある。 児島高徳朝臣の墓 - 遥拝所 小倉御前(小倉宮)の墓 - 石碑 茶臼山城跡 - 嘉吉年間(1441~44年)に山名持豊によって築かれた城跡で、嘉吉の乱(1441年/嘉吉元年)で赤松氏を滅亡させたのち暫くこの城に駐屯していたとされる。 坂越浦城(坂越浦砦・坂越城)跡 - 享徳3年(1454年)山名持豊によって築かれたと云われる城跡。明応4年(1495年)、龍野城主赤松村秀の通城となり、江戸時代には赤穂藩の御番所が置かれていた。その後、1963年(昭和38年)に現校舎に移転するまで坂越小学校があり、一時は1000人を超える生徒数を誇った。 天神岩 辰巳柳太郎生家 - 顕彰碑「夢」 坂越大道 - 千種川の高瀬舟船着き場と坂越の港を結ぶ通り。通りの両側には、坂越で最も往時の面影を残す美しい町並みが続く。近年、古民家を活用したカフェや人気スイーツ店が出店、赤穂の新しい観光スポットになっている。坂越まち並み館(旧奥藤銀行) - (日本遺産構成文化財) 旧坂越浦会所(観海楼) - (日本遺産構成文化財) 奥藤酒造郷土館 木戸門跡 とうろん台 黒崎墓所(日本遺産構成文化財、兵庫県指定史跡)-「他所三昧」「船三昧」とも呼ばれ、宝永7年(1710年)から嘉永元年(1840年)頃にかけて、坂越浦海域で航海中に海難や病気などによって客死した人々の集団墓地。出羽・肥前・薩摩など、北は秋田、南は種子島、東は伊豆、西は対馬に至るまでの国内29カ国、約130人が葬られている。現在は大小さまざまな石質からなる墓碑、約60基が残る。 みかんのへた山古墳(兵庫県指定史跡)- 古墳時代中期(5世紀)に造られた大型の円墳(直径38メートル、高さ4.5メートル)で、坂越浦の鍋島を見下ろす丘陵の頂上に位置し、墳丘には葺石が施されている。名称の由来は、形状が蔕(ヘタ)が付いた蜜柑に似ているからとされる。 坂越大泊鉱山跡 - 自然金の他、輝銀、輝銅、マッキンストリー、ナウマン、ジャルパ、ファマチナ銅、アグイラ、雑銀、濃紅銀、石英、黄鉄などの鉱物が確認されている、丸山(アース製薬坂越工場の背後にある)の中腹に残る鉱山跡。1959年(昭和34年)採掘開始~1974年(昭和50年)閉山。初期はロウ石を主に採掘していたが、鉱石から高品位の金が確認された後は、国内有望の金鉱脈として「昭和のゴールドラッシュ」「瀬戸内の金山」として脚光を浴びた。10年余りでその役割を終えたが、2016年(平成28年)に赤穂市域全体が火山の噴火による国内最大規模のカルデラ地形内であることが判明、現在でも残るホッパーなどの鉱山産業遺構が再評価されている。 海の駅しおさい市場牡蠣料理「くいどうらく」 瀬戸内海鮮・おみやげ処「おうみや」 坂越かき直販所 - 赤穂市漁業協同組合が運営する坂越かきの直販所。 天塩スタジオ 赤穂 - 塩や味噌造りなどの体験教室や、食育セミナーなどを通して和食文化の発信にと、2016年(平成28年)5月に坂越本社内にオープンしたキッチン付きのイベントスペース。2015年(平成27年)10月にオープンした、天塩スタジオ東京 に続いて2ヵ所目の施設。レンタルスペースとしての貸し出しもある。予約制。 坂越緞通工房 - 赤穂緞通の技法を伝承、製作している個人工房。見学は事前に問合せが必要。
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名所・旧跡・観光施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:08 UTC 版)
江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。 戸田 戸田の渡し場の跡 :戸田の渡し場跡碑、その他あり。「#戸田の渡し場」参照。 蕨宿 旧・中山道の道筋 :国道17号線が戸田市から蕨市に入るあたりから、当時の蕨宿にあたる地域である。かつての中山道は、17号線の北東側60mにこの国道と並走するかたちで残されている。「#現代の交通」にては箇条書き。 長泉院 :真言宗霊雲寺派。宝暦3年(1753年)の創建。 (脇本陣〈岡田新蔵〉):※今は何も残っていない。 蕨市立歴史民俗資料館 :「#外部リンク」参照。所在地:蕨市中央5丁目17-22。 一の本陣跡 :岡田加兵衛による一の本陣は現存しないものの、昭和48年(1973年)建築の、建築家・谷口吉郎による本陣風のモニュメントが今日ある。所在地:上に同じ。 (本陣〈岡田五郎兵衛〉):※痕跡なし。 和楽備(わらび)神社 :戦国時代に渋川氏が蕨城の守護神として八幡神社を奉斎したのが始まりと伝える。江戸時代には「蕨八幡」「上之宮」と呼ばれ、「中之宮」(氷川社)、「下之宮」(氷川社)とともに蕨宿三鎮守として重きをなした。明治44年(1911年)12月15日、町内18社の合祀にともない「和樂備(和楽備)神社」と改号。 蕨城址 :「#蕨郷および蕨宿の歴史」参照。所在地:蕨市中央4丁目20(和楽備神社の南)。 せんべいの萬寿屋 :店舗は新築されているが、昔は茶屋を商って10代を数える老舗であった。 三学院 :真言宗智山派(新義真言宗系)の古刹、金亀山極楽寺三学院。元亀(1570- 1572年)以前の創建との伝。本尊は十一面観音菩薩立像(木造)で、平安中期、慈覚大師の作といわれる。近世以前より関東七ヶ寺の一つ。所在地:蕨市北町3丁目2。 徳丸家の跳ね橋 :「#蕨宿の特徴」参照。三学院を出た街道裏にあり(北緯35度49分43.5秒 東経139度40分33.6秒 / 北緯35.828750度 東経139.676000度 / 35.828750; 139.676000 (徳丸家の跳ね橋))。 辻 辻一里塚の跡 :「#一里塚」「#中山道の一里塚」参照。 熊野神社 :熊野三山より熊野権現の勧請を受けた一社で、辻郷の鎮守。地元では「おくまさま」の愛称で親しまれてきた。文化2年(1805年)に編まれた『木曽路名所図会』の中に「辻村に熊野権現のやしろあり」との記述が見える。
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名所・旧跡・観光施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 18:54 UTC 版)
江戸方から上方へ(この区間では南から北へ)、おおよそ道なりに記す。 加茂宮(加茂宮村)、等 天神橋の立場 :「#天神橋の立場」参照。※右上の画像と解説文 も参照。所在地は、さいたま市北区宮原町2丁目(「天神橋」バス停そば)。 天満宮 :「#天神橋の立場」参照。所在地は北区宮原町4丁目(「天神橋」バス停そば)。 加茂神社 :「#加茂神社」参照。※右上の画像と解説文 も参照。所在地は北区宮原町4-8-1。 馬頭観音 川越道追分 :川越道は現在の国道16号。 南方(みなかた)神社 :吉野村の鎮守で『五街道中細見独案内』にも諏訪社として登場する。地元では「お諏訪さま」の名で親しまれている。 魂霊社 庚申塔 :青面金剛像の庚申塔。道標を兼ねており、「是従 秋葉へ壱里十二町 ひら方へ壱里八町 川越へ三里 (訳:これより、秋葉へ1里12町、平方へ1里8町、川越へ3里)」と刻まれている。西進すると秋葉(旧・秋葉通り)から平方河岸(現・平方地区)を越えて川越に至る。所在地は上尾市栄町1(「馬喰新田」バス停そば)。 愛宕神社 岩槻道追分、川越道追分 上尾宿 (上尾の一里塚) :「#上尾の一里塚」参照。痕跡なし。所在地は上尾市愛宕1-28。 (細井脇本陣) :細井弥一郎家が代々務めた。痕跡なし。所在地は上尾市仲町1-7(氷川鍬神社の南、あさひ銀行)。 氷川鍬神社 :「#氷川鍬神社」参照。所在地は上尾市宮本町1。二賢堂址 :天明8年(1788年)建立の学問所があった。二賢とはこの学者が祀っていた菅原道真と朱文公を指す。 (白石脇本陣) :白石長左衛門家が代々務めた。痕跡もなし。所在地は上尾市仲町1-7(氷川鍬神社の向かい、南寄り)。 (林本陣〉) :林八郎右衛門家が代々務めた本陣。痕跡なし。所在地は上に同じ。 (井上脇本陣) :井上五郎右衛門家が代々務めた。当時の大きな屋根瓦の一部を塀にして残している。所在地は仲町1-7(氷川鍬神社の向かい、北寄り)。 日乗山秀善寺遍照院 :真言宗智山派の古刹。室町時代の創建で、本尊は不動明王。遊女お玉の墓がある。所在地は上尾市上町1-6(旧街道から東へ100m)。遊女お玉の墓 :「#遊女・お玉」参照。 上町庚申塔 上尾宿案内板 久保 元・武州紅花仲買問屋(須田家) :別項「桶川宿」にて記述する。 雷電神社 :上に同じ。
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名所・旧跡・観光施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 01:00 UTC 版)
乾物の問屋が多いとされる迪化街であるが、以下のような名所、旧跡および観光施設が存在する。 霞海城隍廟 1856年創建。月下老人ばかりがやたらと有名であるが、他にも城隍爺とその夫人、義勇公、註生娘娘、媽祖、菩薩、七爺と八爺、など600以上の神が一堂に会する「台湾では神像密度の最も高い古廟」。 永楽市場 1階は生鮮市場や飲食店。2階には生地を販売する複数のテナントが入り、3階には仕立屋がいて縫製を依頼できる。 民藝埕 1913年に建設された建物。1階は雑貨屋で、2階は南街得意という名のカフェ。 小藝埕 永楽市場の向かいに立地。元は薬局だったが火災と台湾中部大震災の影響で損壊。修復して後は書店、カフェ、デザイナーズショップ、多目的スペースといったテナントが入る施設となった。 聯藝埕 書店と宿泊施設のテナントのほか、雑貨屋、フルーツショップ、カフェ、レストランが入る施設。
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