八百比丘尼とは? わかりやすく解説

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はっぴゃくびくに 【八百比丘尼】

日本長寿伝説一つ漁師珍魚釣り、それを食べた少女八百歳も生きたとする話で、主に日本海側の地に多いが、四国方面にもあり、内陸尾張会津地方にもある。少女白肌のままだったとして白比丘尼とも呼び、また八百比丘尼とも。流行歌などを各地広めた歌比丘尼らが話を伝播させた。→ 熊野比丘尼

八百比丘尼

作者林望

収載図書巾箱小説集
出版社平凡社
刊行年月1998.4


八百比丘尼

作者服部真澄

収載図書清談 仏々堂先生
出版社講談社
刊行年月2004.3

収載図書清談 佛々堂先生
出版社講談社
刊行年月2007.9
シリーズ名講談社文庫


八百比丘尼

作者富樫倫太郎

収載図書晴明百物語 八百比丘尼
出版社徳間書店
刊行年月2004.12
シリーズ名トクマ・ノベルズ


八百比丘尼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 02:58 UTC 版)

八百比丘尼(やおびくに)は、日本伝説上の人物。特別なもの(人魚の肉など)を食べたことで不老長寿を獲得した比丘尼である。福井県小浜市福島県会津地方でははっぴゃくびくに栃木県栃木市西方町真名子ではおびくに、その他の地域ではやおびくにと呼ばれることが多い。

概要

中山太郎[1]、堀一郎[2]、柳田国男[3]らの調査によると、八百比丘尼の伝説は北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布している。

柳田の研究をもとにさらに具体的に調査した高橋晴美によると、その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(石川・福井・埼玉岐阜愛知に多い)[4]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[5]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである。

ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。 — 小野地健、[6]

各地の伝説

新潟県佐渡市

佐渡島にある佐渡市羽茂に伝わる話では、八百比丘尼はここで誕生し、上記の通りに人魚の肉を食べて1000年の寿命を得たが、自身は年をとらないことをかえってはかなみ、寿命のうち200年分を国主に譲って諸国を巡り、最期は800歳になった時に若狭へ渡って入定したという[7]。また、柳田国男は、後述の1449年の記録も参照のうえ、八百比丘尼の生誕を大化(645〜650年)から大同(806〜810年)の間であろうと推定している[8]

福井県小浜市の類話

ひとりの娘が特殊なものを食べて不老長寿(1000年の寿命)を獲得する。800歳のとき、若狭の殿様が重病になった。娘は残りの寿命を殿様に譲り、生涯を終えた。八百比丘尼と呼ばれ、八百姫明神にまつられる[9]

群馬県前橋市

前橋市下増田町で庚申待(農業の神をまつり夜食を共にする)が行われていた。近くの広瀬川の“龍宮”という所から、珍しい魚を持った客がやってきて庚申待に加わった。ひとりの村人が客に断りもなくそれを食べてしまうと、身勝手を責められ、村を去る。去り際、松の小木を植える。年月を経て村に帰ってきたが、知っている者は誰もいない。あの時の松の木を切って年輪を数えたら800年が経っていた。この地は比丘尼台と呼ばれるようになった[10]

比丘尼台の近くに尼僧が住んでいたこともある。近くの尼が池という所で行をしていた。“竜宮で貰った何か”を食べ、800歳まで生きた。彼女は八百比丘尼と呼ばれる[11]

東京都青梅市

東京都青梅市塩船にある真言宗醍醐派別格本山塩船観音寺大化年間(645年 - 650年)に、白玉椿姫の異名を持つ若狭国の八百比丘尼が関東遍歴の折、この地こそ諸仏が鎮護する霊地であると感得し、紫金の千手観音像を安置したことに始まると伝えられている[12]

愛知県春日井市

春日井市白山町に円福寺という寺院がある。境内に「八百比丘尼堂」がある[13]。この地は八百比丘尼生誕の地であると伝えられる。

(あらすじ)昔、円福寺のすぐそばまで海が迫っていた。ある日、この海で奇妙な魚が捕れた。魚の体に人の顔を持つそれは、通りがかりの僧[13]によると人魚というもので、庚申さまに供えて祭ればご利益があるという。庚申さまのお祭りが終わっても、気持ち悪いので人魚を食べる者はいなかった。ただ一人、それの正体を知らない小さな娘を除いて。それから17年、娘は大変美しく成長した。しかし、いつまでも老化しないことを気持ち悪がられ、結婚には恵まれなかった。よその村から夫を迎えても、結局は夫の死をなすすべなく見送るだけであった。時は流れ、海は陸地となり、娘は比丘尼となって諸国を巡礼した。800歳のとき若狭にたどり着き、深い洞窟に入ったままゆくえ不明になった。 — [14]

岐阜県下呂市

岐阜県下呂市馬瀬中切に伝承される[15]八百比丘尼物語は『浦島太郎』と混ざった話として存在し、全国的にも稀である。

(あらすじ)中切村に次郎兵衛という酒屋がいた。ある日、小さな瓢箪を持った小僧がやってきて、これに酒を1斗(18リットル)入れてくれと頼む。入る訳はないと思いつつ入れてみると、なんと入ってしまった。小僧の正体は川の魚で、川に中にある龍宮の祭りで酒が必要というのだ。次郎兵衛は酒のお礼に、と龍宮の祭りに招かれる。帰り際、「聞き耳の箱」というアイテムを乙姫から贈られる。これは鳥や獣、虫の言葉を聞けるという特殊効果があるが、開けると次郎兵衛は死んでしまうという。ある日、次郎兵衛が留守にしている間に彼の娘が箱を開けてしまった。次郎兵衛は死ぬ。娘は箱の中に小さな人魚を見つけると、それを食べてしまった。娘は馬瀬の地で800年生きたという。 — [16]

1449年の記録

文安6年(1449年)、200歳とも800歳ともいわれる比丘尼が若狭から上洛したという記録が残っている[17]。役人の日記である『中原康富記』の5月26日の項に「今月20日白比丘尼という200歳の女性が上洛した。見世物として料金を取っている。白髪だから白比丘尼というのだろうか」と記されている。『唐橋綱光卿記』の6月8日の項では、比丘尼の年齢を800歳としている。『臥雲日件録』の7月26日の項では白比丘尼は八百老尼と同じであると解されている。金持ちからは銭100枚、貧しいものからは銭10枚を徴収していると記されている。ただし、この老尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者だったと考えられている。当時から八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、こうした伝説を利用する女性も少なくなかった一例である[18]。彼女は歩き巫女(あるきみこ)だったという説がある[19]

京都府京丹後市

京都府北部の丹後半島京丹後市丹後町では、乗原(のんばら)に住んだ大久保家の娘が、修験者がやってきた庚申待の講の際に、修験者が持ってきた人魚の肉を食べて800年生きたと伝えられている[20][21]。娘は、長命で記憶力が高く、昔のことをよく覚えており、天気を読むことができたため、その能力をかわれて、若狭国の領主に召された。領主には、昔話をよく聞かせ慰めたという。娘は、若狭の国で亡くなる[22][23]。亡くなる前は、記憶力も衰えていたが、丹後の網野から久美浜への道にあった杉の大木の並木のことは覚えており、それについて尋ねたという。その杉の並木は残ってはいないが、木津の網野駅付近の田んぼには杉の埋木も多い[21]。また、乗原では千年生きたとして「千年比丘尼」として伝承されている。大久保家の本家である嘉平治氏宅には、比丘尼の位牌が残されている。大久保家には、平家落人伝説も残る[23][24]。比丘尼は、乗原北方の道沿いに松を植えたり、石を敷き詰めたり、道を直したり、寺社の修繕、水探り、橋を架けるなど、社会事業に尽くしたという伝説も残る。そのため村人は庚申塚に祀っていたが現存していない。乗原には、比丘尼が植えた松から作ったとされる直径1m近くある火鉢が残っている[24][25]

京都府宮津市

京都府北部では、栗田半島にも八尾比丘尼の伝承が残されている[20]宮津市栗田の海岸には、「八百比丘尼の塔」がある[22]。宮津市栗田半島塔ヶ鼻には、八百比丘尼の庵跡がある[20]

福井県小浜市

八百比丘尼入定洞(福井県小浜市空印寺)

小浜市における伝承では、八百比丘尼の出生地について諸説が存在する[26]。勢村(現在の福井県小浜市東勢及び同市西勢)の生まれとする伝承[27]と、西津荘(現在の福井県小浜市山手周辺)とする伝承[28]、根来村(現在の福井県小浜市上根来及び同市下根来)の鵜瀬川の周辺とする伝承[28]などである。

八百比丘尼が晩年に仕えたとされる小浜市の神明神社の境内には、八百比丘尼を祀る社があり、長寿を願う人々に厚く信仰されている[5]。境内の八百姫宮には、室町時代江戸時代(17世紀後半)に造られたとされる2体の像がまつられており、江戸時代の新像は、神式風の衣装で、右手に願いを叶える宝珠、左手には白玉椿の枝を持ち、目に水晶の玉眼を施している[29]。本来は新旧ともに非公開であったが、2017年以降は期間限定で福井県立若狭歴史博物館で公開されている[29]

小浜の伝説

若狭小浜町鳥瞰図(八百比丘尼入定地)

一人の少女(高橋長者の娘だと言う説[30]や漁師の妻や子[31])が不注意にも、正体のしれない魚の肉を食べた(それがあとで「人魚の肉」とわかる)。少しも年をとらず、常に16、7才の娘のように肌の色が美しく白比丘尼と呼ばれた。全国至る所に八百比丘尼伝説(伝承・遺跡)を残した。800歳(200歳、400歳等説多数)という長寿を保ち、若狭の国小浜の曹洞宗空印寺(寺院内の境内に属する洞窟 入口の高さ1丈5尺 幅1丈 奥行14.5間)で入定した[32]

八百比丘尼入定洞

福井県小浜市の空印寺にある。洞窟内は奥行き8メートルあり、広さは4畳ほど。洞窟前に「八百比丘尼」と記された碑がある。碑は花崗岩でできている[33]

福井県おおい町

福井県大飯郡おおい町と京都府綾部市の境界付近に 尼来峠 あまきとうげという地名が残っている。小浜市の八百比丘尼が綾部市の寺に通うために通ったと伝えられ、彼女がいつまでも若いままであることが近隣住民の評判になり、尼来峠と呼ばれるに至った[34]

栃木県栃木市

栃木県栃木市西方町真名子の男丸集落は、後の八百比丘尼になるとされる八重姫が産まれた場所との伝説があり、「おびくにさま」として親しまれている。現存する八百比丘尼堂には、尼になった自らの姿を彫り、生まれ故郷真名子に送ったとされる「八百比丘尼尊像」が厳かに安置され、また、同敷地内には、八重姫が八百年経ったのを知らず、若いままの自分の姿が映り驚愕したという「姿見の池」が残っている。 現在でも旧暦の8月25日は命日にあたることから、地域の人達で供養を行い、伝説を偲んでいる。

鳥取県米子市

米子市彦名町にある粟嶋神社の入口から右奥150メートルほどのところにある「静の岩屋」という洞窟がある。粟嶋では数人で信仰していたリンゴン(龍神)講があって当番は仲間にご馳走をするのが通例であった。ある年の当番が、人魚の肉と言われるものを出したものの誰一人口にするものはなかったが、1人家に持ち帰った者がいて、そこの娘が食べたところ不老不死になってしまった。その後1人歳をとることがないため、絶食して命を絶つことを決意。その際、仏壇の鐘を持ち出して、音が聞こえなくなればそれが命日だと言って洞窟に入っていった。数日間鳴り続けて音が聞こえなくなった。その時800歳であったことから「八百べくさん」と言われるようになった。べくとは比丘尼のことである。

その他

『本朝神仙記伝』の著者は、若狭で入定したのは一種の尸解であろうとしている[35]

八百比丘

長野市には八百比丘尼ならぬ八百比丘の伝説がある[36][37]

戸隠神社を構成する五つの宮の一つ、中社(ちゅうしゃ)の境内に、1辺72メートルの正三角形の頂点の位置に植えられた杉の巨木がある。これは、若狭の国出身の比丘(つまり男性)が植えたものと言われている。

昔、若狭の国に一人の漁師がいた。妻は亡くなっており、三人の子供と暮らしていた。ある日、海で美しい女性を発見した漁師は、「私にも子供がいる。私を殺せばあなたの子供に不幸が訪れる」という命乞い(警告?)にもかかわらずそれを漁獲して持ち帰る。翌日、漁で家を空けている間に三人の子供が人魚の肉を鍋で煮て食べてしまった。当時、人魚を食べた者は人魚になるという言い伝えがあったが、その通り子供たちは人魚になってしまった。そんなある日、彼のもとにお告げが下る。曰く出家して戸隠大権現に詣で、3本の杉を植えよと。気が付くと三人の子供は冷たくなっていた。

これらの杉の木はもちろん現存する。天然記念物に指定されている。樹齢900年から1000年。

八百比丘尼を題材とする作品

小説
漫画
アニメ
ゲーム

脚注

  1. ^ 中山太郎『日本巫女史』大岡山書店、1930年、519− 530頁。doi:10.11501/1225392 
  2. ^ 堀一郎『我が国民間信仰史の研究(二) 宗教史編』創元社、1953年、691-697頁。ASIN B000JBF95Gdoi:10.11501/2997430 
  3. ^ 柳田国男『定本柳田国男集』 第7巻、筑摩書房、1962年、366−371頁。doi:10.11501/9541737 
  4. ^ 高橋晴美「八百比丘尼伝説研究」『東洋大学短期大学論集 日本文学篇』第18号、東洋大学短期大学日本文学研究会、1982年、92-114頁、doi:10.11501/7946077ISSN 0286-8334 
  5. ^ a b 新春特別公開「八百比丘尼 ~二人の女神像~」”. wakahaku.pref.fukui.lg.jp. 福井県立若狭歴史博物館. 2019年8月27日閲覧。
  6. ^ 小野地健「八百比丘尼伝承の死生観」『人文研究: 神奈川大学人文学会誌』第155号、神奈川大学人文学会、2005年、51-52頁、 ISSN 0287-7074NAID 110004631043 
  7. ^ 柳田國男「東北文學の研究」『雪󠄁國の春』(五刷)創元社、東京市神田区三崎町、1941年6月5日(原著1940年)、291頁。doi:10.11501/1463841全国書誌番号: 46075118 
  8. ^ 九頭見和夫「日本の「人魚」伝説 ─「八百比丘尼伝説」を中心として─」『人間発達文化学類論集』第13号、福島大学人間発達文化学類、2011年、66-67頁、 ISSN 1880-3903NAID 120004875416 
  9. ^ 稲田浩二, 小澤俊夫 編『日本昔話通観 第11巻 (富山・石川・福井)』同朋舎出版、1981年7月1日、188頁。doi:10.11501/12468154ISBN 4-8104-0236-3 
  10. ^ 佐藤寅雄 編『前橋の伝説百話』前橋市観光協会、1974年8月20日、154頁。 NCID BN15607899全国書誌番号: 75017422 
  11. ^ 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史 資料編27 民俗3』群馬県、1980年3月31日、801頁。 NCID BN07547000全国書誌番号: 80036539 
  12. ^ 塩船観音寺縁起”. 塩船観音寺(大悲山観音寺). 2025年7月22日閲覧。
  13. ^ a b 吉元 2009, p. 997-998.
  14. ^ 春日井市視聴覚研究会・民話作成部会. “春日井の民話シリーズ第4話 八百比丘尼”. kasugai.ed.jp. 春日井市教育委員会. 2020年3月7日閲覧。
  15. ^ 岐阜県益田郡 編『岐阜県益田郡誌』益田郡、1916年、569頁。doi:10.11501/951580 
  16. ^ 『民話からみる益田川~調べ、歩き、聴き、学ぶ~』岐阜県立益田清風高等学校、2015年、45頁。 
  17. ^ 祖田修『長寿伝説を行く―喜怒哀楽の人間ドラマ― 姨捨山・八百比丘尼・徐福と皇帝』農林統計出版、2011年、68-70頁。 ISBN 978-4-89732-228-5 
  18. ^ 勝浦令子『古代・中世の女性と仏教』山川出版社〈日本史リブレット〉、2003年、83頁。 ISBN 4-634-54160-2 
  19. ^ 『こわい!びっくり!日本の不思議伝説大図鑑 雪女・河童から平将門まで』湯本豪一(監修)、PHP研究所、2013年、41頁。 ISBN 978-4-569-78311-6 
  20. ^ a b c 丹後建国1300年 2013, p. 50.
  21. ^ a b 澤 1983, p. 9.
  22. ^ a b 網野町 1996, p. 475-476.
  23. ^ a b 京丹後市 2014, p. 219.
  24. ^ a b 京丹後市 2012, p. 43.
  25. ^ 澤 1983, p. 17-18.
  26. ^ 小浜市郷土研究会 1991, p. 43.
  27. ^ 木崎惕窓「拾椎雑話(1757年)」『拾椎雑話. 稚狭考』法本義弘(校訂)、福井県郷土誌懇談会、1974年。 NCID BN11557438 
  28. ^ a b 稲庭善之進正義 著「若狭国志(1749年)」、小浜市史編纂委員会 編『小浜市史 史料編 第1巻』小浜市、1971年。 
  29. ^ a b 不老伝説の八百比丘尼を異例公開 江戸期制作の像、神明神社が所蔵”. 株式会社福井新聞社 (2017年5月3日). 2018年6月22日閲覧。
  30. ^ 小浜市郷土研究会 1991, p. 17.
  31. ^ 小浜市郷土研究会 1991, p. 19.
  32. ^ 小浜市郷土研究会 1991, p. 8.
  33. ^ 新わかさ探訪 2005, p. 147.
  34. ^ 新わかさ探訪 2005, p. 184.
  35. ^ 知切光蔵『日本の仙人 仙人の研究2』国書刊行会、2008年9月10日、78-79頁。 ISBN 978-4-336-05033-5 
  36. ^ 「戸隠神社9 ~三本杉 殺生いさめた海の伝説も」『週刊長野』週刊長野新聞社、長野市、2009年3月14日。
  37. ^ 三本杉の話”. togakushi-jinja.jp. 戸隠神社. 2020年7月9日閲覧。

参考文献

  • 丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国物語 丹後は日本のふるさと』せせらぎ出版、2013年。 ISBN 978-4-88416-225-2 
  • 網野町誌編さん委員会『網野町誌』 下巻、網野町、1996年。doi:10.11501/13163057 
  • 澤潔『探訪丹後半島の旅 中-地名語源とその歴史伝承を尋ねて』文理閣、1983年。 ISBN 4892590681 
  • 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の民俗』京丹後市〈京丹後市史資料編〉、2014年。 NCID BB15261304OCLC 881489446 
  • 京丹後市史編さん委員会『京丹後市の伝承・方言』京丹後市〈京丹後市史資料編〉、2012年。 NCID BB0899265X全国書誌番号: 22086620 
  • 吉元昭治『日本全国 神話・伝説の旅』勉誠出版、2009年1月20日。 ISBN 978-4-585-07200-3 
  • 関西電力株式会社『新わかさ探訪』関西電力原子力事業本部地域共生本部広報グループ、2005年。 ISBN 978-4-99040080-4 
  • 小浜市郷土研究会『八百比丘尼 伝説資料集 [改訂]』小浜市郷土研究会、1991年8月。 

八百比丘尼(やおびくに)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/03 14:06 UTC 版)

現神姫」の記事における「八百比丘尼(やおびくに)」の解説

調伏治癒などの術を使い武術や術を篝や司狼教えた尼。雪花の元々の持ち主で、千姫真実に触れないように気を配る。わけあって斎に自分片目を貸す。千姫側にも篝側にも関係があり助言をする。正体現神姫見た目欺き、声を変えていた。500年かけてこの因果を終わらせようとする。気づかなかったが夜刀彦によって現神姫能力授かる

※この「八百比丘尼(やおびくに)」の解説は、「現神姫」の解説の一部です。
「八百比丘尼(やおびくに)」を含む「現神姫」の記事については、「現神姫」の概要を参照ください。

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