遊女・お玉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 18:54 UTC 版)
上尾駅前から200mほど進んだ左手の路地奥にある寺・遍照院(へんじょういん)に、上尾宿の遊女であったお玉の墓がある。寺に入ってすぐ左の墓地の一角に墓はあり、傍らには「孝女お玉の墓」と記された立て札が掲げられている。 お玉は越後の貧農の子として生を受け、名を清と言った。家の貧しさを助けるために11歳の若さで身を売ることとなったお玉は、文政3年(1820年)、上尾宿の飯盛旅籠の一つである大村楼に入る。その後、美しく気立てよく宿場でも評判の遊女となっていたお玉は、19歳のとき、参勤交代のお役目で上尾を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、めでたくも江戸行きとなった。ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで悪病を患い、上尾に戻されてしまう。病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。大村楼の主人は孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。墓石に彫られた戒名「廊室妙顔信女」とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。
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