採掘開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/21 13:42 UTC 版)
文禄3年(1594年)または慶長13年(1608年)に採掘が始められたと伝える。慶長17年(1612年)7月には加賀藩より「倉谷山」に関する定書が出され、金が出たら報告すべきこと、倉谷村地内重倉(しげくら)に町屋をたて商売すべきことなどが定められている(『万治以前定書』加越能文庫)。慶長期から寛永期にかけてが最盛期で、元和元年(1615年)には越中砺波郡城端村の孫右衛門が運上金23枚で請け負って結局45枚を上納した例も確認できる(『城端村御印写』川合文書)。 またこの頃には銀も多く採掘されており、運上銀を年に100貫目ばかり上納、「本重倉」に開かれた銀山町は盛況だった。家数200軒とも400軒ともいわれる。銀山町には後町・新町・遊女町・金くら町などの各町があり、また寺院も4寺あって、歌舞伎・相撲なども催されたという。後に倉谷川の洪水でこの銀山町は流出し、1里ほど下流の二又村地内に同様の町名で再建されて、再び賑わいをみせた(『亀の尾の記』)。
※この「採掘開始」の解説は、「倉谷鉱山」の解説の一部です。
「採掘開始」を含む「倉谷鉱山」の記事については、「倉谷鉱山」の概要を参照ください。
- 採掘開始のページへのリンク