沖大東島開発からの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
沖大東島のリン鉱石利権に関しては恒藤規隆の動きが積極的であった。恒藤は1907年8月に部下を沖大東島に派遣してリン鉱石の資源調査並びに島内の測量を行った。そして1910年10月には沖大東島の開発などを目的とした日本産業商会を設立し、恒藤は理事長に就任する。この日本産業商会に水谷は参加しなかった。 日本産業商会を設立した恒藤はすぐに2回目の沖大東島調査隊を派遣した。2回の現地調査の結果、沖大東島のリン鉱石資源は有望であることが明らかになってきたため、権利獲得を巡る争いはより激しさを増した。そのような中で水谷は行政訴訟を起こしたと見られている。ついには外資も沖大東島のリン鉱石資源に関心を持ち始めたとのニュースが流れた。恒藤は外国に資源をさらわれては日本の国益を大いに損ねると、日本産業商会の関係者と共同で権利取得のため奔走した。 恒藤側は玉置半右衛門には示談金を渡したとされ、玉置の関係者によれば金額は20万円であった。九鬼紋七は後に設立されるラサ島燐鉱株式会社の取締役に就任した。そして権利獲得に執念を見せていた水谷は、資金不足に見舞われて権利を売却したと伝えられている。1911年初頭には全ての権利回収に成功し、2月にはラサ島燐鉱合資会社が設立され、恒藤は社長に就任した。結局水谷は沖大東島開発に携わることが出来なかった。 なお水谷は沖大東島でリン鉱石の採掘開始後、肥料会社各社によって不買同盟が締結されて鉱石が売れなかった際、1912年10月にラサ島燐鉱合資会社と肥料会社との話し合いの仲介を行っている。
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