沖合展開事業
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かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できないうえに国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。 新設された成田空港は激しい反対運動によって拡張が進められなかったために羽田空港から移転された国際線のみで処理能力が飽和し国内線を引き受けられる余力はなく、さらに国内線需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路のみであった当時の羽田空港は間もなくキャパシティの限界を再び迎えた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。 これら空港機能の改善および騒音対策を目的として東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が計画された。1971年5月には既に航空局内部に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置されていたが、革新知事として知られる当時の東京都知事である美濃部亮吉が羽田拡張に反対して国内線専用とすることを主張し、地元では拡張どころか羽田からの空港移転を主張する声さえあった。また、運輸省内部でも「羽田を拡張すれば、成田は不要」と主張する成田空港反対派を刺激したくないとの判断が働き、調査開始から10年余りの停滞があった。しかし、増大を続ける航空需要を背景に、鈴木俊一への知事交代に前後して沖展の調整が進められ、1984年1月に着工した。 沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。「ごみ戦争宣言」を出した美濃部都政下、沖展用地は東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場として、1975年度から土砂の投棄が続けられており、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。 この場所は、含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから、工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め(「おしるこ層」とも)、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した。 この埋め立てによって新たに生まれた広大な土地が全て大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。 1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。 1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディング・ブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除く全ての航空会社が移転した。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれにビッグバード (Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港第1・第2旅客ターミナルの総称としても用いられている。また、旧ターミナルビルの屋上に祀られていた羽田航空神社も新国内線ターミナルビルに遷座、穴守稲荷神社空港分社は本社に返霊されることになった。尚、航空関係者からは隣り合って祀られてきた2社を別々にする事に対して、反対する声もあったという。又、当初は神殿ではなく神棚に祀るという簡素化の案もあったが、運輸省東京空港事務所等の反対により、規模を縮小するが今まで通り神殿で祀る形に落ち着いた。更に東京空港事務所等は新ターミナルビルでも屋上に祀る事を要望していたが、こちらは実現しなかった。 2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に15基のボーディング・ブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始し、全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・エアドゥ)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、ANAグループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2020年10月25日時点では次の通りである。 第1旅客ターミナル;日本航空(JAL)グループ、スカイマーク、スターフライヤー 第2旅客ターミナル;全日本空輸(ANA)、エアドゥ、ソラシドエア ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便は第1旅客ターミナルから出発・到着する。 各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている(就航路線を参照)。 なおこの事業は3期に分かれ、2013年4月の旧暫定国際線ターミナルビル跡地への第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット増築部竣工により終了した。 第1期(1984年1月 - 1988年3月)A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始) 第2期(1987年9月 - 1993年8月)西側地区旅客(→第1旅客)・貨物ターミナル・新整備場移転・新設(1993年9月供用開始) 管制塔・運輸省(国土交通省)航空局棟移転(同上) 構内道路新設 首都高速湾岸線延伸(1993年9月開通) 東京モノレール羽田線(現・東京モノレール羽田空港線)西旅客ターミナルビル(新)羽田空港駅(現:羽田空港第1ターミナル駅)まで延伸(同上) 第3期(1990年5月 - 2013年4月)C滑走路移転・拡張1996年空の日には空港イベントの一環として供用前のC滑走路が一般公開された。 1997年3月27日供用開始。これ以降、2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった(それまでの平行滑走路でも同時に離陸と着陸を行うことは可能であった)。 暫定国際線旅客ターミナル(1998年3月20日供用開始) 京急空港線羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)まで延伸(1998年11月開通) B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始) 第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始) 東京モノレール、羽田空港第2ビル駅(現:羽田空港第2ターミナル駅)まで延伸(2004年12月1日開業) 空港連絡道路(2004年12月1日供用開始) 第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始) 第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66 - 70番スポット) 第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(2010年8月14日供用開始) 第2旅客ターミナルビル本館南側(2010年10月13日供用開始) 第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット(2013年4月8日供用開始)
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